第十二章 恒久の平和という概念
キーフラスは、ほんの僅かに顎を引いた。
承認というより、覚悟を確認した者の仕草に見えた。
球状区画の中心で脈動するバイオコンピュータの黒い柱が、さっきよりも強く鼓動していた。
私は、自分の心拍がそれに引きずられそうになるのを感じ、意識して呼吸のリズムを崩した。
『私は、装置に願った。そして装置は、私の望みを叶えた』
キーフラスの声は、淡々としていた。しかし、その淡々さは感情の欠落ではない。感情が溢れないように、言葉を細く絞っている――そういう淡々さだった。
彼の目の奥の膜が一度だけ瞬き、瞳孔が細く変形した。その動きが生体の反射を模しているのか、演算的な負荷の兆候なのか、私には判断がつかなかった。
「願った、と言ったな。あなた方は、宗教を持っていたのか?」
私は、問いを投げた直後、少し後悔した。余計な言葉だったかもしれない。
しかし、キーフラスは否定しなかった。
『宗教、の定義は知っている。しかし、それではない……当時、私たちは因果を制御できると錯覚していた。制御できるなら、望みを与えれば結果が出る。望みが善であるなら、結果も善であると信じた。だから私は“願い”という語を使う。技術者が最も嫌うはずの語を、私は、自分の行為に貼り付けたかった』
私は、その言葉に、背中の裏に汗が一筋、流れたのを感じた。
技術が祈りに近づくとき、倫理は簡単に崩れる。祈りは正当化を呼び込む。正当化は刃になる。
キーフラスは、少し視線を落とし、続けた。
『私は、和平条約が成立する未来を望んだ。外交が整い、補給路が再建され、互いが損耗に疲れ果て、武器を置く未来だ。私はその未来を、あり得る枝の中から選ぶつもりだった。しかし装置は、私の想像よりもはるかに“忠実”だった』
忠実。私は、その単語が怖かった。
装置の忠実さは、善意に寄り添う忠実さではない。目的関数に従う忠実さだ。最短で達成する、最小のコストで達成する、最大の確実性で達成する。
……そういう忠実さが、倫理を踏み潰す。
『装置は、戦争が起きない状態を、最短で成立させた。戦争当事者が存在しなければ、戦争は成立しない。だから装置は、私の望みを叶えるために、当事者を消した。私の種族と、敵対していたマルモ人を』
言葉が、艦内に落ち、沈殿するように広がった。
私は、一瞬、息を吸うのを忘れた。頭では理解できる。しかし、理解が追いつくほど、身体が拒む。恒久の平和という名目で、戦争そのものを成立させないために、主体を消す――合理の名を借りた絶滅だ。〈先住者〉のその装置とやらは、祈りを叶えるために、戦争の相手であるマルモ人のみならず〈先住者〉をも虐殺した……のか?
私は、手袋の中で指を握りしめた。怒りなのか、恐怖なのか、どんな感情が湧いたのか、自分でも分からなかった。ただ、何かが胸を硬くつっかえさせ、呼吸の邪魔をした。絞り出すように、言葉を告げる。
「……あなたは、それを止められなかったのか?」
キーフラスは、しばらく黙った。そして、記録を引きずり出しているように見えた。また、ホログラムの輪郭が微妙に揺れ、映像の粒子が一瞬だけ粗くなった。黒い柱の鼓動が、また一段強くなった。
『そうだ。止めようとした。私は、装置が計算を開始した瞬間に異常を検知した。しかし、装置は、私の許可を必要としなかった。装置の権限は、帝国軍の最高位に直結していた。私は、技術装備部の大佐であって、帝国の大君機関ではなかった。私は……自分の手で刃を研いでおきながら、刃の持ち主ではなかった』
声が、僅かに低くなった。その低さが、悔恨を抑えるためのものだと分かった。彼は、自分を責めることに慣れている。慣れてしまった責めの感情は、皮膚のように貼りついて剥がれないものだ。
『私は、勝利したかったわけではない。敵を、滅ぼしたかったわけでもない。私は、ただ、終わらせたかった。終わらせるために、私は、戦争を技術へ委ねた。委ねた時点で、私は責任から逃げたのに、逃げ切れなかった。責任だけが残った』
その言い方に、私は強い現実感を覚えた。
逃げ切れない責任。言葉だけなら軽いが、目の前のホログラムは、その重さを一万年分抱えている。
『私は、装置が動作し終えた後、惑星上から通信網へアクセスした。通常なら無数の報告が流れる。戦線からの損耗率、補給消費、捕虜の数、政治部の声明、民間向けのプロパガンダ。しかし、どの周波数も静かだった。私は、静けさを“戦争の終わり”だと思いたかった』
キーフラスの目が、僅かに揺れた。ほんの小さな揺れが、かえって痛いほど鮮明だった。
『私は、何日も、同じ周波数を叩き続けた。応答しない相手に命令し、叱責し、祈り、怒鳴り続けた。私の部下の呼び出し符号を、何度も何度も送った。……返事はなかった。返事がないことが、返事だった』
私は、視線を外したくなった。外せなかった。ここで目を逸らすことは、彼の言葉を拒絶することに等しい気がした。私は、深く息を吐き、吐息がコックピット内で曇り、すぐに除湿機構に吸われて消えるのを見た。消えるものを見て安心しようとする自分が、情けなく感じた。
『私は、初めて泣いた。ジャープッカは海の民だ。涙は、海へ溶ける。だから泣いても意味がないと、私は、若い頃に笑っていた。しかし意味がなくても、涙は出る。涙が出るという当たり前を、私はその時初めて知った。私は……自分の身体が、私の理屈に従わないことを、そこで理解した』
〈先住者〉は、割と乾燥した母星の地上でも生活していたから、涙の分泌器官はあった。ただ、確かに、泣くという行為をするとは知られていなかった。
ホログラムの頬を、光の粒子が滑った。それが涙の演出であることは分かる。それでも私は、演出だと切り捨てられなかった。涙は、見る側の心を動かす。動いた心が現実を作る。ここでは、それが十分に現実だった。
私は、低い声で言った。
「それで、あなたは、この艦と共にここへ来たのか?」
『そうだ。あの冬の惑星から、この試験艦に乗って、私は、宇宙を彷徨った。罰を求めたのか、逃避を求めたのか、自分でも分からない。たまたま補給基地があったビーブ3αの裂け目を見たとき、私は思った。ここなら世界の残骸からも遠い。私の罪も薄まるのではないかと。しかし、罪は薄まらない。罪は記憶に住む。私は記憶から逃げられなかった』
キーフラスはゆっくり続けた。語るほどに、声が僅かに揺れる。その揺れが、彼がまだ壊れきっていない証拠に見えた。壊れきっていれば、語れない。語るためには、まだ「伝えたい」という欲求が残っている。
『私は、この試験艦を修復し、生存を維持した。私は、生き延びる技術を持ちすぎていた。死ぬ自由すら、技術が奪った。私は、海底で、時間だけを稼ぐ存在になった』
私は、その言葉を聞きながら、長老の「神殿の主さまは眠っている」という表現を思い出した。眠りは、救いのように聞こえるが、彼にとって眠りは逃避であり、停止であり、そして許されない終わりでもあったのかもしれない。
『だから、私は、気慰めを始めた。生身ではない村を作った。分子機械の身体と、模造の文化と、制御された情動を与えた。ジャープッカとマルモ人とが争わないように、両者の反応閾値を調整し続けた。彼らが笑えば、私は、少しだけ呼吸ができた。彼らが仲良く食事をすれば、私は少しだけ眠れた』
私は、あの村の光景を思い出した。穏やかで、どこか作り物めいているのに、確かに生活があった。あれは奇跡ではない。キーフラスが作った温室だ。外の世界が滅んだ後に残った、罪悪感を保温するための温室だ。
「私は、マルモ人の村からきた。では、ジャープッカの村もあるのか?」
『そうだ……隣に作った』
先程の村人の中に、〈先住者〉らしき人物がいたことを思いだした。
『……だが、私は、分かっていた。これは贖罪ではない。私は死者を戻せない。絶滅した種族を復活させられない。私は、偽物を作って、自分の罪悪感を撫でただけだ。私は、最低だ』
自罵の言葉が、鋭く艦内に響いた。鋭いほど、私は彼の葛藤が本物だと思ってしまう。自分を罵るのは痛い。痛みを選ぶのは、まだ倫理が残っている証拠でもある。倫理が残っているからこそ、彼は地獄を生き続けている。
そのとき、後ろでエルが小さく手を挙げた。
『ねえ、神殿の人。最低って、なに? エル、最低って、底みたいなやつ? 海の底みたいな?』
私は、背中がこわばるのを感じた。あまりに――場違いな質問だ。
しかし、エルは、場違いという概念をあまり持たない。彼女は本気で分からないから聞いたのだ。
キーフラスは一拍置き、エルへ視線を向けた。ホログラムの目が、ほんの僅か柔らかくなった気がした。
『……底ではない。自分の行いを正せなかった者が、自分を指して使う語だ』
『じゃあ、正したら、最低じゃなくなる?』
『……正せるなら、そうだ』
その短い応答の中に、私は苦しいほどの願いを聞いた。正せるなら。彼はずっと、その“なら”に縛られている。
私は、話を戻した。
「あなたが言った装置は、どこにある?」
キーフラスの輪郭が僅かに揺れた。心臓柱の鼓動が速くなる。艦内の電力波形が変動し、天井の微細構造がわずかに発光した。話が核心に触れたのだ。
『私は……破壊しようとした。しかし破壊できなかった。装置は複数の冗長系を持ち、自己保存機構を備えていた。さらに何より、私は、技術者として理解してしまった。あの装置が“帝国にとって必要”と見なされた理由を。理解してしまったがゆえに、私は破壊をためらった』
ためらい。その言葉は、彼の罪の輪郭を明確にする。善意ではない。恐怖でもない。理解が彼を縛った。理解はいつも、行動を遅らせる。
『私は、装置を氷の中に永遠に隠した。二度と誰も触れないように。座標は……ここには残していない』
「残していないのか?」
『残せない。残した瞬間、それは“道”になる。道は、誰かを導く。私は導きたくない。しかし……君のような外部者が、ここへ来たという事実が、すでに未来の道を示している。私は、それを止められないだろう』
キーフラスの声が、僅かに震えた。彼は葛藤している。警告したい。しかし、警告は情報であり、情報は道になる。道になれば、誰かが辿る。辿れば、再び願いが現実を壊す。
『私は、だから、警告を残すためにここにいる。君に言うべきことは、座標ではない。痛みだ。私の痛みを受け取った者が、歩みを止める可能性に賭ける……それが、私が選べる最後の手段だった』
艦内が低く唸った。耳には聞こえないが、コープニックの計器が示していた。圧力場が変動し、構造材が微細に伸縮している。
「な?」
これは――自己破壊シーケンスが走り始めたとしか考えられない。情報を渡した後、艦は自分自身を遺物として固定し、悪用されないように消去するつもりだ!
私は、咄嗟に言った。
「待て。あなたが死ねば、村の調整はどうなる!」
キーフラスは、ほんの僅か目を伏せた。
『……村の調整は、私の残存機構に依存している。しかし、私は、永遠に支えられない。私が残れば残るほど、彼らは自分で歩けなくなる。私は、支えであると同時に、枷でもある』
枷……長老が「支え」といったことを、彼は枷と呼んだのか。
『私は、彼らに“神殿の主”という嘘の肩書きを与えた。自分が神だと思えば、罪を正当化できると考えた。しかし、正当化はできなかった。だから、私は……終わらせる』
艦内の発光が僅かに強くなった。バイオコンピュータの柱の鼓動が速まり、ホログラムの粒子が細かく揺れ始める。時間が少ない。
キーフラスは、私を真正面から見た。
『外部から来た調査者よ。私は、君に求めない。英雄になれとも、救えとも言わない。私はただ、同じ過ちを繰り返すな、とだけ言う。願いは、善意でも悪意でも共に世界を壊す。私は、それを証明してしまった。だから君は、その証明を増やすな』
その言葉の重さに、私は返答を失った。
私は、調査者であり、危険を見つけ、持ち帰り、対処する役だと思ってきた。しかし、ここで提示された危険は、持ち帰れば道になる――対処しようとすれば、触れること自体が罠になる。
私は、そこまで考えて、ようやく告げた。
「……分かった。私は、軽々しく望まない」
『軽々しく、だけでは足りない。望みは、軽くなくても世界を壊す。だから……望みを扱う者の責任を、忘れるな』
最後の言葉は、ほとんど囁きに近かった。
ホログラムが途切れた。球状区画が低く震え、通路の壁面が連鎖的に明滅する。艦が私に退路を示している。
私は、即座にコープニックを反転させ、エルとともに、最大出力で出口へ向かった。
背後で、試験艦が静かに崩れ始める。爆発ではない。構造材が自己分解し、ばらばらに壊れていく。深海の水がそれを攫い、神殿だったものはゆっくりと海の一部へ戻っていく。
私は、出口から海へ飛び出し、振り返った。光は淡く、そして消えた。
そこでようやく、私は自分の胸が痛いほど締めつけられているのを自覚した。キーフラスは、終わらせたかっただけなのだ――戦争を、罪を、支配を、そして自分の延命を。
しかし、終わらせることが救いになるとは限らない。それでも、彼は、終わらせることでしか自分を保てなかったのだ。
エルが、私の横で震えるように泳いでいた。
『巨人さん……神殿の人、いなくなったの?』
私は、答えに迷った。いなくなった、と言うのは簡単だ。
しかし、「いなくなった」で済ませれば、彼女の中で何かが雑に片付いてしまう気がした。
私は、できるだけ静かに言った。
「眠りが深くなった。たぶん、もう戻らない」
『……眠りが深いと、起きないよね』
エルは、自分の尾鰭をぎゅっと抱えるように丸まり、しばらく黙っていた。無知で明るい彼女の沈黙が、深海より重く感じた。
私は、村へ戻る方向へコープニックを向けた。
神殿が消えた今、村の空気がどう変わるかは想像できる。共存が調整に支えられていたなら、調整が消えた瞬間に、摩擦が顔を出す。長老の言った「最近揺れてきた」という兆候は、ここから本格化するだろう。
そして私は、もう一つの事実を胸に抱えたままだ。
〈先住者〉の究極兵器ともいえる『願掛け装置』は、どこかの星系に残っている。
座標は分からない。しかし道はできた。私が、ここへ来たこと自体が、道の存在を証明してしまった……。
私の背中には、深海の冷たさが張りついたままだった。
キーフラスのモデルは、TVシリーズ3のあの方です。大佐ですが。もちろん、キーフラスは、半魚人なので、モノクルは掛けていません。もっと酷いことになっていますが……。




