第十一章 試験艦の心臓
長老から渡された結晶片は、コープニックのマニピュレータ越しでも妙な存在感があった。
熱ではない何かが、皮膚の感覚を薄く撫でていくように感じられる。私は、気のせいだと切り捨てようとしたが、コープニックの触覚センサーが「微小振動」を拾っているのを見て、軽く眉をひそめた。結晶内部で分子配列がゆっくりと変化している。
「時間結晶の一種か?」
……鍵というより、環境に応じて自分の形を変える通行証なのだろう。
洞窟を出ると、深海の暗さが一段濃くなった。村の灯りは、見慣れない生物発光と小さな発熱体で補われていて、そこだけが人の気配を保っていた。外へ出た瞬間、その気配が背後で薄れ、深海の暗さそのものだけの空間となる。私は、ガーディアンの動きを思い出し、センサーのレンジを広げた。
エルは、私の前を泳ぎ、やたらと振り返った。
『ねえ、巨人さん、神殿に行くとね、タコが出るんだよね? タコ、また来たらね、エルが“むかつく顔”して追い払う!』
「顔で、追い払えるのか?」
『追い払えるよ。だって、むかつく顔って、すごいから』
私は、言い返すのをやめた。彼女の論理は雑だが、妙に揺るがない。深海で精神を保つには、その揺るがなさが役に立つのかもしれないと、私は、半ば本気で思った。
神殿――つまり海底に沈んだジャープッカ人の試験艦が近づくにつれ、周囲の水の「感じ」が変わった。温度は、ほとんど上がらないのに、海水の粘性がわずかに増したように思える。マリンスノーの落ち方が均一になり、粒子の散り方が、誰かが整えた庭のように見えた。
「これは、変だな」
私は、独り言のように呟いた。
……自然の海流が止まったのではなく、何かの力場で「整流」されているのだ。コープニックの計器も、微弱な電磁ノイズの増加と、重力勾配のわずかな歪みを示している。
コープニックのセンサーであれば、巨大金属塊があれば、重力勾配の歪みは十分感知できるが、これは単なる質量の影響ではなく、周期がある。まるで、深海の心拍だと思った。
暗闇の向こうに、巨大な輪郭が浮かび上がった。
試験艦は、海底に横たわりながら、崩れそうで崩れていなかった。外殻には裂け目があるが、裂け目の縁が妙に滑らかで、破壊というより「開封」に近い。表面は黒く、光を吸い込みながら、角度によっては、魚の濡れた皮膚のような艶を返していた。〈先住者〉は、半魚人のような姿をした異星人だったから、海の生き物の延長として船を作ったのがよく分かる。
私は、エルへ目を向けた。
「ここまででいい。あとは、私が行く」
『え? エルも行くよ? だってね、巨人さん、道がわかんないでしょ?』
「危険だ」
『危険ってね、エル、よくわかんない。危険って“痛い”の? “こわい”の? それとも“おこられる”の?』
私は、少し考えた。どれも違うとも言い切れない。
「全部だ」
『じゃあ、エルは“おこられる”のはやだな。でもね、巨人さんが迷うのはもっとやだ。迷うとね、帰れない。帰れないとね、マリンスノー食べられない。マリンスノーは、大事』
結論が食事に着地するあたり、エルらしい。しかし、その単純さが、状況の核心を突いているとも思った。帰れなければ、終わりだ。私は、短く頷いた。
「ついてくるなら、私の指示に従え。勝手に触るな。勝手に入るな」
『わかった! 勝手に入らない! ……えっと、勝手じゃなければ入っていい?』
「入るな」
『はーい』
私は、結晶片を取り出し、マニピュレータでケースのロックを解除した。さっきよりも振動が、はっきり伝わる。結晶は、周囲の電磁ノイズに呼応しているようで、内部の光学格子が淡く明滅している。
私は、試験艦の外殻にある継ぎ目へ結晶片を近づけた。
反応は、即座に起きた。
継ぎ目の格子模様が波紋のように連鎖し、黒い素材の表面が一瞬だけ薄く発光した。音はない。ただ、視界の端で水が微妙に揺れる。圧力が再分配され、海水が「通るべきでない隙間」を通らされていると思った。
私は、背筋を固くし、コープニックの姿勢制御を最小限に抑えた。こういうとき、慌てて動くと、機械が「侵入行為」と解釈する。
扉は開いた、というより「ほどけた」。素材の結合がほどけ、空間が割り当てられ、入口が生まれた。
私は、ぽっかりと空いた入り口に一歩を踏み出し、内部へライトを向けた。
艦内は、暗かった。
しかし、完全な闇ではなかった。私のライトが当たると、壁面の微細構造が反射率を変え、必要な輪郭だけが浮かんだ。まるで、艦が、こちらの視線を読んで照明を当てているようだった。
私は、無意識に息を詰めた。感覚としては、建物に入ったのではなく、生物の体内に入った感じに近いと思った。
通路は、曲面で構成され、角がなかった。床と壁と天井の境界が曖昧で、方向感覚が揺らぐ。私は、コープニックの姿勢制御とジャイロを参照し、人工的な「上下」を自分に教え込ませた。そうしないと、人間の脳は、すぐに適当な上下を作り、勝手に酔い始める。
エルは、後ろで小さく声を漏らした。
『わあ……お腹の中みたい』
「そう言うな。余計にそう見えてくる」
『でもね、エル、お腹の中に入ったことないよ? だから想像だよ?』
「想像で言うな」
『えへへ。じゃあ、神殿の中、って言う!』
私は、返事をせず、通路の先を見据えた。エネルギー反応から、艦の中心部へ近づいていくのが分かった。私は、意識して歩行速度を落とし、周囲の構造を観察した。
壁面には、文字のようなものが刻まれているが、言語というより「手続き」に見えた。しかも、その文字が微妙に変化しているようだ。コープニックの光学センサーが反射を拾っているのを艦が読み取って、応答している可能性がある。つまり艦は、私を「見て」いるのかもしれない。
私は、慎重に〈先住者〉語で言った。
「こちらは敵対しない。調査のために入る」
言葉が通じるとは思っていない。しかし、何を言ったかを残しておくことには意味がある。後からログを見返したとき、私の判断が記録として残る。探索では、自分の過去の判断が命綱になることがあるのだ。
やがて通路が終わり、球状に広がる区画へ出た。
中心に黒い柱が一本立ち、表面が微細に脈動している。私はライトを当て、各種センサーで、素材分析を行った。金属ではなく、普通のプラスチックのような高分子でもない。生体組織に近い、分子機械のバイオコンピュータだった。
情報処理のために育成された「器官」だと理解した瞬間、私は胃のあたりが重くなるのを感じた。私は、機械に入ったのではなく、誰かの脳の前に立っている。
そのとき、空間がわずかに冷えた気がした。実際の温度変化ではない。光の質が変わったのだ。ホログラムが立ち上がる前の、あの独特の「ため」の感覚だ。
次の瞬間、立体映像が空中に結ばれた。
半魚人のような姿をした〈先住者〉の軍人がそこに立っていた。頭部は、縦に長く、頬から首元にかけて、薄い膜のひだがうねるような陰影を作っている。胸郭は人類より厚く、皮膚には斑点状の模様が走っている。
制服は簡潔なもので、肩章に幾何学的な階級記号が刻まれていた。目の奥に瞬く膜があり、瞬きのたびに瞳孔の形が微妙に変わる。生体の癖を忠実に再現しているが、過剰な演出ではない。単なるCGではない現実感があった。
『――ジャープッカ技術装備部、キーフラス技術大佐だ。私は、私自身のAI人格だ』
声は低く、落ち着いていた。しかし、その落ち着きが、長い疲労を押し込めたものだと直感した。落ち着いているのではなく、落ち着いていなければ崩れるのだ。私は、喉が乾くのを感じながらも、礼を尽くすべきだと思った。
「私はアーマッド・L・ラッシード。外部から来た調査者だ。この艦の残存機能と、周辺の危険性を確認している」
キーフラスの目が、わずかに細まった。私を見ているというより、私の情報を読み取っている。スーツの通信規格、電源の波形、機体の材質、そしておそらく心拍すら推定しているのだろう。私は、無意識に背筋を正した。視線に刺される感覚があった。
『外部からの来訪者……。この場所へ到達できる技術水準は、想定範囲に含まれていなかった』
言い回しが、個人の驚きというより、設計者の反省の言葉のように聞こえる――私は、そこで、「神殿の主さまは弱っているかもしれない」という、長老の言葉を思いだした。
エルが後ろで、ひそひそ声を出した。
『ねえ、巨人さん。神殿の人、しゃべった。すごい。エルより難しいこと言ってる』
「今は、黙っていてくれ」
『はーい……。でもね、エル、難しい話になるとね、眠くなる』
私は、振り返らず、キーフラスへ意識を戻した。ここで気を抜けば、艦の機構が私を排除対象に切り替える可能性がある。
私は、慎重に話を進める。
「この艦は、まだ防衛装置を動かしている。外で、タコ型の機械に襲われた。あれはあなた方の機構か?」
キーフラスの表情が、ほんのわずか歪んだ。怒りではない。痛みに近い。
『それは、艦の自律防衛機構だ。外部要因の侵入を排除するために設計されている……作動しているなら、停止できていないということだ』
私は、その一言に引っかかった。停止できていない――意図して動かしているのではなく、止めたいのに止められない、ということか。
私は、言葉を選んだ。
「あなたは、この艦に残った人格だという。目的は、何だ? なぜ、ここに残っている?」
キーフラスは一度、目を伏せた。ほんの短い動作なのに、そこに「ためらい」が混じった。
その動作からも、このAI人格は、単に応答するだけでなく、かなり高度に生成されたものだと分かった。ひょっとしたら、このキーフラスの脳のニューラルネットワーク自体をスキャンして作ったタイプかもしれない……と思った。
『私は……記録を残すためにいる。警告を残すためにいる。外部から来た者が、同じ過ちを繰り返さないように』
警告。私は、〈先住者〉が一万年前に滅びているという事実を思い起こし、胸の奥に重いものを押し込まれたような感覚を覚えた……滅びに至る文明が残す警告は、たいてい穏当なものではない。
キーフラスは、続けた。
『私は、技術者だった。戦争の技術者だった。そして、戦争を終わらせる技術を作った。……私は、その結果を見届ける責務がある』
語尾が、僅かに沈んだ。私にはそれが、責務という言葉で自分を縛り直しているように聞こえた。崩れそうなものを、言葉で支えている。
「ふむ……」
私は、ここで不用意に踏み込めば危険だと理解した。相手がAI人格であっても、人格が揺らいだ瞬間に、艦の安全機構が介入することがある。
しかし、同時に、踏み込まなければ核心へ届かない。私は、一歩だけ進み、球状区画の中心柱へ視線を向けた。
「このバイオコンピュータは、あなたの保存基盤か?」
『そうだ。私の記録は、ここに束ねられている。……そして、私の罪もここに束ねられている』
罪。言い切った瞬間、ホログラムの輪郭がほんの少し揺れた。電力の瞬断ではなく、発話に伴う演算負荷の変動だろう。
私は、呼吸を整え、問いを一つだけ投げた。
「あなたは、何をしたのか?」
キーフラスは、沈黙した。深海の静けさが、艦内の無音と重なって、時間の感覚を薄れさせる。
……私は、その沈黙を待った。待つしかなかった。
やがて、彼は、低い声で言った。
『……私は、恒久の平和を望んだ』
その言葉が、恐ろしく重く落ちた。
私は、自分の手袋の中で指先が冷えていくのを感じた。平和を望むことは罪ではない。しかし、罪と並べて語られる平和は、必ず何かを壊しているだろう。
エルが、後ろで小さく呟いた。
『へいわって、おいしいの?』
私は、応えなかった。答えられるはずがなかった。
キーフラスの目が、私の方へ戻った。
あの落ち着いた声が、今度は少しだけ掠れて聞こえた。
『外部からきた調査者よ。次の話を聞いたなら、君は、戻れなくなるかもしれない。それでも、聞くのか?』
私は、一瞬だけ迷った。迷ったが、引き返せる地点はすでに過ぎている。私は、静かに頷いた。
「聞く」
私の簡潔な返答に、キーフラスは、ゆっくりと息を吐くような動作を見せた。




