第四章 灰と塵の園にて
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第四章 灰と塵の園にて
一歩進むごとに、足の下で粗い灰と炭化した枝のかけらが悲鳴にも似た音を立てた。
黒く焼け焦げた薔薇の木枝の残骸が、あちらこちらで助けを求めるように虚しく宙に伸びている。辺りにはまだ焦げた臭いが漂い、重苦しく肌や髪にまとわりついた。かつてここが美しい花園だったという面影は微塵もなく、色彩すらも死に絶えた世界のよう。
無残な姿をさらす焼け野原を茫然と見渡しながら、カナンは進んだ。
隣を歩く黒衣の男の横顔も硬く険しい。
やがて、二人は灰に半ば埋もれた石碑の前で止まった。
エイデンが静かに言った。
「これがエルレイ=ズヌイの墓だ」
カナンは感慨深げに示された墓碑を見下ろした。
じいちゃんの親友だった人の墓。
アリアンテのもともとの持ち主だった人の墓。
思っていたより小さな墓だった。装飾も何もなく、表面には苔がこびりついていた跡もある。苔そのものは炎に焼かれてしまったのだろう。エイデンが革手袋をはめた手で墓碑の表面についた煤を拭うと、刻まれた文字が現れた。
エルレイ=ズヌイ
七賢者にして〈勝利王〉の友
そして我ら〈地の民〉の恩人
故郷の花に護られここに眠る
「…………故郷の花………」
カナンは口の中で小さく呟いた。
その花はもうない。
〈勝利王〉の孫によって焼き払われた。
怒りと悲しみがないまぜになった感情が込み上げてくる。
何故、こんなひどい真似が出来るのか。
安らかに眠る者に。
仮にも「聖王」を名乗る者が。
ウィーアードは、この墓碑銘を読んだ事がないのだろうか?
時折吹き抜ける乾いた風が、墓碑を見つめる二人の髪や服の裾と共に細かい灰と焦げた塵を巻き上げた。
カナンに、焼き払われた薔薇の園へ……エルレイの墓へ行ってみないかと誘ったのは、エイデンだった。
聖王の命で焼かれた花園だ、果たして中に入れるのかとカナンは心配したが、すぐにアザミが植えられるはずの園はずっと放置されたままだという。
焼き払われた花園の事など誰も気にしていないかのように。
あるいは………目を背け、見ないようにしているかのように。
「…………レディ・マリエルが来なくて正解だったね」
無残に焼け焦げた園に視線を巡らせながら、カナンは言った。
「このひどい有様を見なくて済んだもの。スヴェアに聞いたよ。ここは、彼女が小さい頃お父さんやお母さんと一緒に来てた思い出の場所だったんでしょう?」
「そうだな」
エイデンは頷いた。
「美しかった頃の記憶だけを覚えておく方がいい。生まれ故郷の記憶は特に」
出掛ける際、カナンはマリエルも誘ったのだが、彼女は「他に用があるから」と断っていた。
もしかしたら、両親との数少ない思い出である花園の変わり果てた姿を見たくなかったのかもしれない。
しかし、実際マリエルはとても忙しそうだった。かの名高き予言者〈救国の貴婦人〉レディ・マリエルが王都に滞在しているという噂はあっという間に広まり、彼女に予言を貰おうと多くの人々がガラハイド国領主邸を訪れ、あるいは自身の邸に招待するようになったからだ。その中には王宮のかなり地位の高い廷臣や役人、お抱えの予言者がいるはずの正貴族までいた。
「無下に断るわけにもいかねえしな。全く厄介だぜ」
と、文句のひとつも言わずにこやかに応対するマリエルの代わりに、スヴェアがしきりに愚痴っていた。
領主邸で警備の任に就いていたガラハイド国の騎士たちは、故国を遠く離れた任地でかの〈救国の貴婦人〉に直接会えた事に、そして彼女を護衛する栄誉にいたく感激していたが。
そんな多忙なマリエルの為に、カナンは少しでも疲れが癒えるようにとカモマイルやカノコソウのお茶を淹れてあげた。
カナンは、先ほど自分とエイデンが歩いてきた、灰で覆われた石畳の小径を振り返った。
花園の入口には、石造りのアーチと〈勝利王〉オニールの彫像が立っていた。どちらも炎が舐めた跡が黒く残り、痛々しい。煤で汚れ、元の色すらわからない。
そして、アーチとオニール像のはるか向こうに、てっぺんが雲に隠れるほど高く天を貫きそびえ立つ巨大な六角柱の塔が見えた。
塔は透明で、一点の曇りもなく、反対側を飛ぶ鳥の姿までもはっきりと見る事が出来る。降り注ぐ陽光を反射し輝いていなければ、その姿は真っ青な夏空に溶け込んでそこにある事にすらすぐには気付けないだろう。塔の足元には、鮮やかな赤紫色のアザミが咲く野原が広がっている。
大予言者カラグロワが〈双子王〉と出会った地。
創世記の始まりの地。
〈境界の地の水晶〉の塔だ。
六千年の長きにわたり、聖王家の治世を見守ってきた神聖なる塔。
伝説によれば、その美しく厳かな水晶の塔は、三人の女神たちの諍いによって砕けてしまった地の水晶の欠片なのだという。
王都の門をくぐる直前、馬車の窓からもこの巨大な水晶の塔は見えた。ディアドラ系譜図書館の中央広場に建つ〈双子王〉ディアドラ像のように、きっと王都のどこからでも見えるのだろう。まるで王都と水晶王宮を見守っているかのように。
ディアドラ系譜図書館の〈紋章の間〉で見た、天井の色硝子で描かれていた実際の光景を目の当たりにし、カナンは感動に胸を震わせたものだ。
はるか遠い過去の物語として語られている伝説の時代が、現実味を帯びた瞬間だった。
だが、今こうして〈双子王〉の末裔が行った非道な行いの爪痕を前にしては、一点の曇りもないはずの水晶の塔もくすんで見える。
古えの詩文に語られているように、世界に満ち満ちる水晶の嘆きの歌が聞こえるかのようだ。
「大丈夫か?」
じっと彼方にそびえる水晶の塔を見つめるカナンに、エイデンが尋ねてきた。
「王都に到着した時から気になっていたのだが………あの〈境界の地の水晶〉の塔が発する歌が君を煩わせているのではないか?」
カナンは頭を横に振った。
「大丈夫。あの水晶の塔の歌はすごく微かで、優しいから。あんなに巨大なのに、不思議だよね」
まるで静かに頬を伝う涙のように。
柔らかく、仄温かく、慈悲深く。
心に、体に沁み込んでくる。
癒される。
もう一度水晶の塔を見やったカナンは、ふと眉をひそめた。
水晶の塔のはるか後方に、真っすぐに伸びる真っ白な一本道のようなものがある事に気付いたのだ。
そして、その先には、靄に覆われた何か巨大な建造物がそびえ立っていた。靄のせいではっきりとはわからないが、とてつもなく高い壁のような物と、いくつか重なる巨大な車輪のような物だ。
白い道と巨大な建造物の周囲には青と緑を混ぜたような不思議な暗い色合いの水面が彼方まで続いており、陽の光を反射してまるで生き物のようにゆらゆらと絶え間なく波打っている。
「あれが大海だ」
カナンの視線を辿ったエイデンが言った。
「天空・大地と並ぶ三世界のひとつ。あのはるか深い底に、かつて〈海の民〉が住んでいた〈海の九王国〉がある」
「え? 『底』って………水の中ってこと?〈海の民〉は水の中に住んでたの? どうやって息してたの?」
目を丸くして矢継ぎ早に質問するカナンに、エイデンは苦笑した。
「そうではない。大海は大地でいうところの空と同じ。〈海の九王国〉の空は水で……海水で出来ているのだ。今、君の頭上に広がっている空が大地に落ちてくる事はないように、海水が〈海の九王国〉に流れ落ちてくる事はない。時折、雨となって〈海の九王国〉を潤すだけだ」
「空が水で………」
カナンは空を見上げた。
頭上が水で満たされている世界など、想像出来ない。
エイデンは説明を続けた。
「大海は二つの層で形成されている。魚や海の獣たちが棲む表海と、その下に広がる下海。そして、下海のさらに下に〈海の九王国〉がある。表海の水は大地の川や湖の水と同じく透明で、色はない。今、見えている大海のあの色は、下海の色が透けて見えているのだ」
エイデンは、海面に乱反射する夏の日差しに眩しげに目を細めた。
「かつて大海は『至高の青』と呼ばれ、深く美しい青色をしていた。下海に海の水晶が溶け込んでいるからだ。真っ青な水に満たされた『空』の下、〈海の民〉は〈地の民〉と同じように生活を営んでいた。街で商いをし、村で作物や家畜を育て。………九人の魔王たちが引き起こした戦で、滅びるまでは」
まるでその悲劇の場にいたかのように、黒衣の男の声は暗く沈んでいた。
「〈海の民〉が最期の吐息と共に吐き出した膨大な穢れは〈海の九王国〉を覆い尽くし、やがて下海までをも侵食していった。今、見えている大海のあの不吉な色は、穢れに染まり濁った〈海の九王国〉の空の色が表海越しに透けて見えているのだ」
エイデンは、カナンの服の下に隠れて見えないアリアンテを一瞥した。
「………ワクトーは大海には近づきたがらなかった。大海から漂ってくる海の水晶の歌はか細く弱々しかったが、気が滅入るほど暗く、歪んでいて、断末魔の呻き声のようだからと言って。悲痛すぎて胸が締めつけられると」
カナンはきゅっと唇を引き結んだ。
水晶の歌が歪むのを、カナンも聴いた事がある。
ガラハイド国攻防戦で。
天の水晶で造られた空中砦が傷つき、地に堕ち、そして………
ハランの歌声が重なった時に。
あの、無数の針が体中に突き刺さるかのような、身を引き千切られるような苦痛。
あれは天の水晶の悲鳴だった。
あんなもの、二度と聴きたくはない。
「………いつか、大海が元の青色に戻る時は来るのかな」
「さあ。どうだろう。海の水晶にまだその力が残っていればいいが。もしかしたら、未来永劫あのままかもしれない」
カナンは、ゆったりとうねり蠢く不吉な色を孕んだ海面を見やった。
「悲しいね。そんなの。『至高の青』色、見てみたかったな」
「そうだな」
エイデンは暗闇色の瞳を伏せた。
「…………私もだ」
カナンは靄に霞む巨大な建造物を指差した。
「あの白い道の先にある物は何?」
「大地と大海をつなぐ唯一の門〈銀馬門〉と、それを動かす為の装置〈大歯車〉だ。あの門を通らねば〈海の九王国〉へは入れない。もう千年以上閉ざされたままだ」
「あれが………」
ラーキンが言っていた〈海の民〉の遺物。
ディアドラ系譜図書館の〈紋章の間〉と同じ。
「あれはもう動かないの?」
「ああ」
と、低く呟くようにエイデンは言った。
「その方がいい」
「? どうして?」
「〈銀馬門〉が閉ざされ、大海が濁ってから数百年後……今から千年ほど前の事だ、当時の聖王の命で〈銀馬門〉がこじ開けられた事があった。〈海の九王国〉と〈海の民〉に何があったのか調査する為だ。水晶騎士団の精鋭が派遣されたが、戻って来た者はわずかで、そして、皆正気を失っていた」
ある者は誰彼構わず奇声を上げて襲いかかり、またある者は高い塔から飛び降りて自ら命を絶った。心底怯えきり、部屋の片隅に蹲ったまま動けず、ついには餓死した者。奇行を繰り返した為に生涯幽閉された者。夜な夜な剣を引きずりながら幽鬼のごとく徘徊し、恐れをなした近隣住民の手で殺されてしまった者もいる。
獣じみた喚き声以外の言葉を何とか紡ぐ事が出来た者は、ただこう繰り返した。
「骸だ。辺り一面、骸に覆われている。何と恐ろしい光景だ。死と穢れに満ちている」
〈海の民〉は、九人の魔王たちが引き起こした戦のせいで一人残らず死に絶えてしまったのだ。
そして、〈海の九王国〉は彼らが最期の吐息と断末魔の悲鳴と共に吐き出した穢れに覆い尽くされ、大海を不吉な色に濁らせ、それが勇猛果敢な騎士たちの正気を奪ったのだ。
そう結論づけた当時の聖王は再び〈銀馬門〉を閉じ、二度と開けてはならぬと定めた。
以来、〈銀馬門〉も〈大歯車〉も巨大な遺物と化した。今では動かし方を知る者もない。
エイデンは苦い吐息をついた。
「海の水晶が溶け込み、青いはずの海水を、不吉な色に濁らせたほどの穢れだ。正気を失って当然だ。騎士たちは自らの意思ではなく、聖王の命で行った。気の毒な事だ」
自身の愚かな好奇心によって忠実なる水晶騎士団の精鋭を失った当時の聖王は、勇敢な騎士たちの正気を奪った〈海の九王国〉に満ちる穢れが大地にも溢れてくるのではないかと極端に恐れた。
彼は、〈銀馬門〉へと続く唯一の道や沿岸一帯に、穢れを浴びると暗い赤に染まるという〈海の九王国〉を象徴する花・白百合を植え、常に監視させた。
以来、大地と大海を分け隔てる沿岸部は、延々と続く白百合の純白の帯に縁取られている。
〈銀馬門〉をこじ開け、忠実なる騎士たちを狂気の淵に追いやった当時の聖王を、民は皮肉を込めて〈白百合王〉と呼んだ。
「ガラハイド国で使ったあの海水も、その時に持ち帰られた物?」
「いや。あれはもっと後の時代に汲み上げられた物だ。硝子の器に密閉すれば穢れが外に漏れない事に目を付けたある男が、下海から汲み上げた海水を硝子壺に詰めて売ったのが始まりだ。孔雀石を溶かしたような不可思議な色の水は、珍し物好きの貴族や裕福な商人たちを喜ばせた。〈海の民〉ゆかりの品は高額で取り引きされる。その男は莫大な富を手に入れた。以来、男と同じように富を求める多くの者がこぞって海水を汲み上げようとした」
しかし、〈海の九王国〉の空………大海のはるか深くにある下海の海水を汲み上げるのは、非常に困難な作業だった。当然ながら〈銀馬門〉は通れないので、その代わりに人々は最初に海水を汲み上げた男のように舟で沖へと漕ぎ出して、とてつもなく長い紐にくくりつけた桶と重りを海中に沈め、少しずつ下海から孔雀石色の海水を汲み上げた。突然の嵐や大波に見舞われて舟が転覆したり、巨大で獰猛な海の獣に襲われる事も多々あった。
あまりにも多くの者が命を落とした為、後に海水を汲む事は禁じられたが、その後も密かに大海へ出る者は後を絶たなかった。
莫大な富を得る為に。
カナンは「理解出来ない」というふうに顔をしかめた。
「そうまでして富を手に入れたいものなのかなぁ。死んでしまったら元も子もないのに」
しかし、その海水のおかげで、ガラハイド国が〈天の民〉の空中砦を墜とせたのもまた事実だ。
アニガンがもたらした、海水を詰めた硝子壺のおかげで。
何故、彼はあれをガラハイド国へもたらしたのだろう? ガラハイド国を勝たせたかったのだろうか?
それとも、他に何か意図があったのだろうか?
去り際に彼がエイデンに言い捨てたあの台詞は、そして、カナンの耳に囁いたあの問いは、一体どういう意味だったのだろう?
カナンはエルレイの墓に再び視線を戻した。刻まれた碑文にそっと指を触れる。
驚くほど冷たかった。
命の灯火が消え失せた骸のように。
「…………以前、話してくれたよね。じいちゃんが、冬山で遭難しかけてたエルレイさんを助けたって」
「ああ。そうだ。『逆さ山』の麓にある、氷に閉ざされた真冬の川の底にしか生えない貴重な薬草を探す為に訪れた際、友人のドン=エスと共に凍死寸前だったエルレイを発見した。当然ながら、ドンは最初エルレイを助ける事に難色を示した。〈獣使い〉の一族であるドンにとって、〈天の民〉で、しかもハランのエルレイは言わば不倶戴天の敵なのだから。だが、ほどなくしてドンとエルレイは心打ち解けた。ワクトーほど親しくはなかったかもしれないが、それでも互いを友と呼んだ。良き友と。………どうした?」
カナンが何とも言えぬ表情をしている事に気付いたエイデンは、怪訝そうに眉間に皺を寄せた。
カナンは薄く笑んだ。
「ううん。ただ………まるでその場にいたみたいに話すんだなぁって、思って」
エイデンは微かに目をみひらいた。
「そんなふうに見えたか?」
「うん」
「私はただワクトーから聞いた話を語っているだけだ。私はその場にはいなかったのだから」
「うん。わかってる。ただ、じいちゃんの話をする時のエイデンは、いつも懐かしそうだから」
初春の陽にゆるむ残雪のように、表情が和らぐ。口調も。
この黒衣の男にとって、ワクトーという存在がいかに大きく大切であったかを表わすように。
そして、同時に、エイデンのこんな表情を見る度に、カナンは思い出してしまうのだ。ディアドラ系譜図書館でアニガンが告げた、
「イグリットにとって、君はワクトーの身代わりに過ぎないのだよ」
という、あの言葉を。
たった一滴、インクを落とせば、もはや清水は清水でなくなるように、アニガンが放ったあの言葉がいつまでもカナンの心を曇らせている。
エイデンは、しばしの間カナンの指摘に困惑したように沈黙した後、再び口を開いた。
「〈天の民〉にとって〈黄金の鷺〉を追放される事は死刑よりも酷い刑罰だ。〈地の民〉とは異なり、彼らは穢れに対し極端に免疫がない。穢れにさらされ続けると身も精神も蝕まれ、体調を崩し、病に罹る。死に至る病だ。寿命も極端に縮む。〈獣使い〉の一族が短命なのもそのせいだ。………尤も、〈氷雪王〉サローエンに〈石の鎖の庭〉を与えられた当時に比すれば、彼らの寿命はいくらか伸びているが。四十才を超えてもまだ存命している者が、少しずつではあるが増えているのだ。何世代もかけて新しい地に順応しつつあるのだろう」
「そうなんだ………」
カナンは呟いた。
でも………
それでも短い。
ジーヴァも、長くてあと三十数年しか生きられないという事になる。
彼女は、カナンとは異なる時間の流れを生きているのだ。
でも、きっとジーヴァはそんな事など気に病んだりはしないのだろう。爽やかな夏の風のような彼女は。
ディアドラ系譜図書館で別れたのが、ずいぶん昔の出来事のように思える。
また彼女に会いたい。
声が聴きたい。
あの情熱に満ちた青銀色の瞳や、輝く笑顔が懐かしい。
「…………ちょっと待って」
ふいにある事に気付いたカナンは、思わず声を上げていた。
「それじゃラーキンは? 彼はドンさんの孫だから、寿命も〈獣使い〉の一族と同じくらい短いの?」
「大丈夫だ。どういう仕組みなのかはわからないが、〈獣使い〉の一族と〈地の民〉の間に生まれた者は、皆〈地の民〉と同じ年の取り方をする。だから、ラーキンの寿命は〈地の民〉と変わらぬはずだ。彼の父親がそうであったように」
「そうなんだ。良かった」
カナンはほっと安堵の吐息をもらした。
「ラーキンはその事知ってるのかな」
「ああ。ロザリンドから全てを打ち明けられた時に聞いたそうだ。〈地の民〉として年を取り、一生を送れると」
そして黒い剣を操る者の予言も。
王都に着いた日にエイデンに言っていたように、ラーキンは水晶騎士団の騎士である義理の兄アシュエン=イルクーデンの家を訪れていた。初めて会う小さな甥や姪との交流はとても楽しいものだったようだ。
しかし、彼がアシュエンの家を訪ねたのはその一度きりだった。ロザリンド=アンダーレイの孫である自分のせいで、義兄一家に害が及んでしまう事を危惧したからだ。ディアドラ系譜図書館に残してきた最愛の妻キリの、自分と出会う前の頃の彼女を知る義兄とは、もっといろいろ語り合いたかったろうに。
ディアドラ系譜図書館を発ってから、ラーキンが二日とあけずキリへ手紙を書き綴っている事を、カナンは知っていた。
きっと、ディアドラ系譜図書館にもアンダーレイ家処刑の報は届いている事だろう。キリも夫の身を案じているに違いない。
「…………ごめん。話の腰を折っちゃって。エルレイさんの話だったよね」
「謝る必要はない。君がラーキンの身を心配するのは当然だ」
淡い笑みを口の端に刻み、エイデンは再びエルレイの話に戻った。
「エルレイはアリアンテのおかげで何とか穢れから身を守ってはいたが、〈黄金の鷺〉に住む他の〈天の民〉のようには長生きは出来なかったろう。………穢れに寿命を削られる間もなく死んだが」
「エルレイさんは戦って死んだの? クレメンツ公が『戦死した』って言ってたけど」
「………いや。正確には違う」
エイデンは、カナンの顔から目を背けるようにエルレイの墓碑に視線を移した。
「〈天の民〉にとって、エルレイは敵に寝返った許しがたい裏切り者だった。エルレイが、間もなく〈天の民〉が攻めてくると事前に知らせてくれたおかげで、〈地の民〉は万全の態勢を整え、〈天の民〉を迎え撃つ事が出来たのだから。翼の王グロフトや〈天の民〉軍の想定では、戦は彼らの圧倒的優位のもと短期間で終結するはずだった。だが、エルレイのせいでそれは叶わず、またオニール率いる〈地の民〉軍の攻勢は彼らの予想をはるかに超えていた。『たかが〈地の民〉ごとき』と侮っていた感も否めない」
ロザリンド=アンダーレイという希代の予言者の存在も想定外だった。〈天の民〉には予言者という存在がいないのだ。ロザリンドの正確無比な予言は〈天の民〉軍を大いに苦しめた。もし、ロザリンドがいなければ、戦況はもう少し変わっていたかもしれない。
その偉大なる功績ゆえに、〈地の民〉は彼女を「聖女」と呼び、〈天の民〉は「魔女」と呼んだ。
「戦は長引き、〈天の民〉は彼らが想定していた期間より長く大地に留まる事を余儀なくされた。彼らは穢れにさらされ続け、士気は落ちる一方だった。ゆえに、彼らは自分たちをこのような状況に陥れる一因となったエルレイを憎悪し、執拗に狙った。ある時、戦とは全く関係のない、ドンの血族が守っていた〈獣使い〉の一族にとって神聖な場所を〈天の民〉の一師団が急襲した。彼らはドンの血族の半数を殺し、残りの半数の命と引き換えにエルレイの身柄を要求した。………人質の中にはドンもいた」
「そんな………」
カナンは息を飲んだ。
エイデンは淡々と続けた。
「エルレイはもちろん要求に応じようとしたが、周囲は反対した。例え要求を飲んだとしても、〈天の民〉側が約束を守る保証はない。彼らにとって〈獣使い〉の一族は『堕ちた者』であり、例え女子供であろうと命を奪う事に何の痛痒もないのだから。七賢者の一人にして〈獣使い〉の一族の長カハンティ=テュボーは、ドンたちを救出する為の援軍をオニールに要請したが、距離的にも時間的にも………そして戦況的にも難しかった。結局、エルレイは自身のアリアンテを形見としてワクトーに譲り、〈天の民〉軍に投降した。彼がどのような最期を遂げたのかは知る由もないが、後に回収されたエルレイの遺骸は、それは惨たらしい有様だったそうだ」
「人質になっていた人たちは………?」
「全員殺された。………ドン=エスも」
カナンは息を飲んだ。
エイデンは声もなく頬に涙を伝わせるカナンの顔をしばし見つめた後、焼き払われた薔薇の園を見渡した。
「大戦が終結し、〈地の民〉と〈天の民〉の間で相互不可侵の協定が結ばれた際、オニールと〈獣使い〉の一族は卑劣にもドンの血族を人質にしたうえ約束を反故にし彼らを惨殺した師団の指揮官の身柄を要求した。結局、身柄は引き渡されなかったが、名は明かされた。〈天の民〉軍の将軍の一人カデナル=ズヌイ。………エルレイの父親だ」
「!」
「〈天の民〉を裏切った息子がよほど許せなかったのだろう。エルレイを手にかけた後、自らも命を絶ったそうだ。〈天の民〉側の言い分によればな。死体はすでに〈黄金の鷺〉へ搬送されていた為、本当に自死したのか否か、事の真偽はわからない」
カナンは呻くように呟いた。
「…………ひどい」
〈天の民〉が人質を取った事も。
結局、その人質たちが無残に殺された事も。
エルレイが酷い最期を遂げた事も。
それをエルレイの父親がやった事も。
そして、その父親が自ら命を絶った事も。
何もかもが。
理不尽で、惨たらしい。
エイデンは苦い吐息を漏らした。
「戦においてはよくある事だ。残念ながら。例え親兄弟であろうとも、敵味方になれば殺し合う。むしろ血の繋がった者同士であるがゆえに、憎しみは増す。約定はたやすく踏み躙られ、目を背けたくなるような蛮行がいともたやすく行われてしまう」
何故、人はああまで醜悪に、残虐になれるのか。
そうやって、三世界は穢れに満ち溢れていく。
水晶の嘆きの歌も止まない。
「……………ぜひ、君に見せたかったのだがな」
墓碑の銘文をそっとなぞりながら、エイデンは独り言のように言った。
「エルレイの故郷の花を。一面に咲く深紅の薔薇の園を。まるでそこだけ別の世界であるかのように、美しい花園だった」
革手袋が触れる銘文の下に、灰に隠れて何か彫られている事に気付いたカナンは、目を凝らした。
彫られていたのは一輪の花の図柄だった。
カナンは目をみひらいた。
「この花………」
「これが薔薇だ。かつては園一面にこの花が咲き誇っていた。深紅の絨毯のように」
カナンは周囲を見回した。
一面の深紅の花。
なだらかな斜面の彼方の小高い丘の上に、いくつもの尖塔が空を貫く巨大な建物……水晶王宮がそびえ立ち、カナンを見下ろしている。
カナンはハッとした。
そうだ。
ここだ。
自分はここを知っている。
雲ひとつない、抜けるような真っ青な空の下、美しく煌めき咲き誇る深紅の花々。かぐわしく高貴な花の香り。
その只中に自分は立っていた。
弔いの服を着て、弔いの鈴を付けた女性と共に。
ラーキンの家に泊めてもらった夜に見た夢の中で。
「彼の墓があるの」
彼女はそう言った。
…………そうか………
彼女の言う「彼の墓」とは………
「…………エルレイさんの墓の事だったんだ………」
焦げた匂いが混じる風に乗って、小さな鈴の音が聞こえた気がした。
あの喪服の女性は一体誰なのだろう?
何故、カナンに夢の中でエルレイの眠る薔薇の園を見せたのだろう?
まるで………カナンが王都に着く頃には、ここは焼き払われてしまっていると知っていたかのように。
先ほどエイデンが語ったように、彼女もまたカナンに一面に美しく咲き誇る深紅の花園を見せたかったのだろうか?
愕然と立ち尽くすカナンの様子に気付いたエイデンが、訝しげな口調で尋ねた。
「カナン? どうした?」
しかし、次の瞬間、エイデンの表情がさっと険しくなった。
近付いて来る複数の足音に振り返ったカナンの目に、こちらへ向かって来る数人の騎士の姿が映った。
*
突如、現れた騎士たちは、半円を描くようにカナンとエイデンを素早く取り囲んだ。
カナンは息を飲んだ。ディアドラ系譜図書館で、ボルトカ国の騎士たちに捕らわれた時の事を思い出したのだ。
あの時の恐怖も。
凍りつくカナンの前に、ス…ッと黒衣が立った。
「何者だ!? ここで何をしている!?」
騎士の一人が一歩前に進み出ると、腰の長剣の柄に手をやったまま厳しい口調で問うた。
騎士たちの制服に、カナンは見覚えがあった。胸に黄金の太陽を刺繍した純白の制服。
シルの邸で会ったトロイ卿が着ていたものと同じ。
水晶騎士団の制服だ。
では、彼らは水晶騎士団なのか?
聖王と王宮を守護する騎士が、何故こんな所に?
その時。
「………良い。下がりなさい」
騎士たちの背後から、凛とした女性の声が投げかけられた。
カナンたちに誰何した騎士が、戸惑って声の主を振り返る。
「は? しかし………」
「構わぬ。下がりなさい」
「御意」
堅苦しい仕草で頭を下げ、左右にわかれた六人の騎士の間から、女官たちを引き連れた一人の女性が現われた。
「女性」というより「少女」と言った方が相応しい年令だった。カナンと大して変わらないだろう。だが、護衛と思しき騎士に対し下がるよう命じた口調も、堂々とした立ち姿も気品に溢れ、常に他者にかしずかれている者特有の威厳に満ちていた。まろやかな光を含んだ琥珀色の瞳が印象的だ。手首に繊細な金の腕輪をはめた白く華奢な手に、真っ白なリボンで結わえた大輪のダリアの花束を持っている。花に白いリボンを付けるのは、〈地の民〉の間では弔いの意を表するものだ。
一番年長と思しき女官が、厳かに告げた。
「この御方はレクサ=アナ王女、次の聖王陛下となられる尊き御方です。礼を尽くしなさい」
「!」
カナンは目をみひらいた。
レクサ=アナ王女って、あの?
レディ・シルが教育係として仕えている、あのレクサ王女?
こんな所で世継ぎの王女に会うなんて。
すぐに我に返ったカナンは、慌てて深々と頭を垂れた。
エイデンも頭を下げる。
年長の女官……クラベッタは眉をひそめた。一応丁寧ではあるが、黒衣の男の頭の下げ方が足りないと思ったのだ。王宮に仕える廷臣たちは、もっと深々と頭を下げる。隣の少年のように。
だが、レクサは全く気にしていないようだった。上から下までまじまじとエイデンを、そしてカナンを凝視する。
まるで思いもよらぬ者に会ったかのような、驚愕と困惑と畏怖が入り混じった表情で。
特に、エイデンの腰の黒い長剣に興味惹かれているように、カナンには思えた。
同じ事を感じたらしいエイデンが、自身の長剣を示して尋ねた。
「この剣が何か?」
レクサは答えず、逆に問い返してきた。
「もしや、そなたはディアドラ系譜図書館の〈前門〉倒壊の折、シルを………パサネスティを救った命の恩人か?」
エイデンは頷いた。
「それほど大袈裟な事はしていないが、そうだ」
「無礼な!」
世継ぎの王女に対し敬語を使わない黒衣の男に、クラベッタが怒りの声を上げる。
しかし、激高する忠実なる女官を、レクサは煩わしげに遮った。
「クラベッタ、黙っていなさい」
「ですが………!」
「同じ事を二度言わせないで。わたくしは彼らと話がしたい。下がりなさい。園の外で待つように。お前たち全員です」
主君の無茶な命令に顔を見合わせ困惑する女官や護衛の騎士たちの様子を眺めながら、エイデンが言った。
「それは無理というものだ、王女。彼らの使命は貴女を護る事なのだから。騎士は剣で貴女を護る。それが叶わぬ時は、女官が貴女の代わりに自らの身で暗殺者の刃を受ける。普段、貴女が口にする物も、全て女官が先に毒見しているはず。『エギンテの反乱』後、父王に代わって荒廃しきった大地を再建した〈麗明王〉グナワルダは、賢王であるがゆえに敵も多かった。彼女の盾となり、何人の騎士や女官が命を落としたことか。身命を賭して忠誠と献身を尽くす彼らを安易に遠ざけるべきではない。それは愚かな行為だ」
レクサは驚いて目をみひらいた。これほどはっきりと、遠慮のかけらもない言葉で王女たる自分を諫める者など、彼女の周囲には誰一人としていなかったからだ。あのシルですら、もう少し穏やかな表現でやんわりと彼女を諭しただろう。
しかし、エイデンの言葉は全く正しかった。背後から、女官や騎士たちが黒衣の男の言葉に感動している気配が伝わってくる。
レクサは琥珀色の目を伏せた。
「………確かに。そなたの言う通りです」
背後に控えるクラベッタを振り返り、
「きつい物言いをしました」
「いえ……! 勿体なきお言葉でございます、王女」
ひざまずかんばかりの勢いで腰を屈め、クラベッタは頭を垂れた。
カナンは、女官や騎士たちがエイデンを見る目つきが明らかに変わったのを感じた。
やっぱりエイデンは凄い。彼の言葉は常に真実を突き、人の心を打つ。
的確かつ簡潔であるがゆえに。
クレメンツ公のように、このレクサ王女のように、彼は本来人の上に立つ人物なのではないかと、時々そう思う。
それとも………かつてはそうだったのだろうか?
だとしたら、一体何故、いつからそうではなくなったのだろう?
エイデンはレクサが持つダリアの花束を示した。
「それはエルレイの墓に手向ける為に? 貴女は月に一度ここを訪れていると、レディ・シルが言っていた」
「そうです。美しさ華やかさでは、薔薇とは比べ物にはならないけれど」
レクサは墓碑に歩み寄ると、そっと花束を供えた。
純白の絹のリボンで結わえた赤とピンクの大輪の花は、煤で汚れた墓石によく映えた。
映えすぎて違和感を覚えるほどに。
レクサは、かつての面影など微塵もない、無残な焼け野原となってしまった薔薇の園を悲痛な面持ちで見回した。
「わたくしの無力さゆえにこのような事になってしまい、残念でなりません。エルレイ=ズヌイにも申し訳が立たぬ。我ら〈地の民〉の恩人に対し、父上は何という恩知らずな事をなさったのか」
「貴女は聖王に諫言したと聞いた。それが重要だ。貴女の誠意はエルレイにも伝わっている事だろう」
レクサは弱々しく微笑んだ。
「………だと嬉しいのですが」
「レクサ様。そろそろ………」
進み出たクラベッタが神妙な口調で告げた。
「間もなくユンドラ公がお見えになる時刻でございます。王宮へお戻りになりませんと」
エメルソン国領主ユンドラ=ジュエス=エメルソンは、ナサニエルがウィーアードに蟄居を命じられた後、彼に代わって〈獣使い〉の一族と王宮との連絡役を務める事になった正貴族である。
ユンドラは水晶騎士団を〈獣使い〉の一族の援軍に出すべきと主張している人物の一人であり、また……親子ほども年令は離れているが……ナサニエルとは従兄妹同士だった。ナサニエルの母とユンドラの母が異母姉妹なのだ。先代領主時代にエメルソン国が世継ぎ問題で内乱状態に陥った時には、身の安全の為ユンドラが一時期オルデン国に身を寄せていた事もある。
それゆえ、ユンドラがまだ若年である事も相まって、王宮の廷臣たちは彼女をナサニエルの後任とする事にワーテワンが難色を示すのではないかと思ったのだが、意外にもワーテワンはあっさりと承認した。
もしかしたら、ただでさえナサニエルの件で王宮内がごたごたしているのにこれ以上いらぬ揉め事は起こしたくないと、ワーテワンは思ったのかもしれない。
「わかりました。戻ります」
レクサはクラベッタに頷くと、もう一度エイデンに視線を戻した。
「そなたとはまた話がしたい」
エイデンは頷いた。
「いつでも」
女官と騎士たちを引き連れ去って行くレクサを見送りながら、カナンはそれまで呼吸する事を忘れていたかのように深く息を吐き出した。
「びっくりした………まさか、こんな所で王女様にお会いするなんて」
「そうだな」
エイデンが相槌を打つ。驚いているようには、全く見えない。
カナンは呆れて彼を見上げた。
「エイデンが敬語を使わないんでハラハラしたよ。もし王女様が怒ったらどうするつもりだったの?」
「その時に考える」
カナンは溜め息をついた。
「………エイデンって、わりといい加減なところあるよね」
エイデンは片眉を引き上げた。
「そうか?」
「そうだよ。だからいつもスヴェアを怒らせちゃうんだろ? もう少し気を付けないとダメだよ」
エイデンは一瞬驚いたように目をみひらき、それから苦笑した。
「いつもと立場が逆だな。………わかった。気を付けよう」
カナンは墓石の上で風に揺れる花束を一瞥した後、もう一度レクサが去った方角を見やった。
何故、レクサは自分たちを見てあれほど驚いたのだろう? 彼女とは初対面のはずなのに。
まるで幽霊にでも会ったかのような表情だった
最後まで読んで下さいまして、ありがとうございました。
ようやくカナンとエイデンがレクサに会いました。
次回は〈天の民〉側のお話となります。
引き続きお読み頂けますと幸いです。
ではまた。




