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石の剣の王3 集結  作者: 水崎芳
第十一章 真実の苦み
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第十一章 真実の苦み

第十一章 真実の苦み をお届けします。

最後までお読み下さいますと嬉しいです。

    第十一章 真実の苦み


 〈海の九王国(カリオナスタ)〉の魔王であるエイデンが、何故今ここにいるのか。

 頭に浮かんだその疑問を、カナンは口にした。

「貴方はいつ、どういった経緯(いきさつ)大地(こっち)に来る事になったの?」

 エイデンは束の間夜の色をした目を伏せた。

「無論、私も最初は〈海の九王国(カリオナスタ)〉を離れるつもりなどなかった。もとより不可能だった。戦火が〈海の九王国(カリオナスタ)〉全土に拡大し、収拾がつかなくなってしまった頃には、〈銀馬門(ガータナス)〉はすでに閉ざされ誰も通れぬようになっていたから」

「誰が銀馬門(ガータナス)〉を閉じたのかはわかってるの?」

 エイデンは頷いた。

「ああ。本人から直接聞いた。〈銀馬門(ガータナス)〉を閉じたのは〈殺戮者メスナー〉と呼ばれた魔王だ。彼が統治していた国【ユニ・カー・サンタ・ル・ルワ】は〈銀馬門(ガータナス)〉に最も近く、そしてその国の魔王は代々〈銀馬門(ガータナス)〉を管理し、鍵を預かる【ユニ】………門番の役目を担っていた」

 カナンは目を丸くした。

「殺戮者って………ものすごいあだ名だね」

「敵に対して全く容赦のない男だったので、いつしかそう呼ばれるようになった。彼が通った後は屍しか残らないとも言われた。実際そうだった。その苛烈さと非情さのゆえに、彼を嫌う者も多かった。〈海の民〉を滅ぼしたあの戦でも、メスナーは最も多くの魔王を斃した。だが、戦場以外では気さくでユーモアのある、情に厚い男だった」

 カナンはわずかに頭を傾けた。

「ひょっとして………エイデンは(メスナー)と親しかった?」

「そうだな」

 エイデンはちらと微笑んだ。淡く、懐かしげに。

「友人と言っていいと思う。長い付き合いだった。〈海の民〉の寿命は百四十年余り。だが、魔王は魔剣の祝福によってその十倍を超える年月を生きる。在位が二千年を超えた魔王も少なくない。肉親も家臣も国民も、皆先に年老いて逝ってしまう。自然と、同じ時間の流れを生きる他の魔王との付き合いの方が長く、深くなる」

「どうしてメスナーは〈銀馬門(ガータナス)〉を閉じてしまったんだろう?」

「我々魔王が引き起こした戦が大地に………〈地の民〉にまで飛び火しないようにする為だ。それと、あの戦で〈海の民〉が死の間際に吐き出した膨大な穢れが〈銀馬門(ガータナス)〉から大地へと溢れ出さぬようにする為に。メスナーはそう言っていた。〈海の九王国(カリオナスタ)〉の問題は〈海の九王国(カリオナスタ)〉の中で解決すべきだ、〈地の民〉を巻き込むべきではない、と」

 エイデンは痛ましげに溜め息をついた。

「〈海の民〉と〈地の民〉は長年交流があり、交易も盛んだった。気の毒なのは〈銀馬門(ガータナス)〉が閉ざされた時たまたま〈海の九王国(カリオナスタ)〉に来ていた〈地の民〉の商人たちだ。突然大地へと通じる唯一の門を閉ざされ、故郷へも帰れず家族とも会えなくなってしまったのだから。同様に、大地側にも取り残されてしまった〈海の民〉の商人がいただろう」

 ある日突然、何の前触れもなく故郷へ帰れなくなってしまう。

 二度と家族や友人の顔を見れなくなる。

 きっと彼らは混乱し、怒り、絶望した事だろう。

 そう想像するだけでカナンは胸を締めつけられた。

 しかし、メスナーがそう決断しなければならなかったほど、とてつもなく悲惨な戦だったのだろう。結局、その戦のせいで〈海の民〉は死に絶えてしまったのだから。

 今、カナンの目の前に座っているこの黒衣の男を除いて。

 エイデンは仄かに怒りが滲む口調で続けた。

「あの戦を始めたのは〈狂人グスタヌ〉と呼ばれた魔王だった。彼は隣国の魔王〈氷の毒蛇〉ハクハと長年対立していたのだが、ある日突然両者は手を組み、自分たちの間に立って仲裁をしてくれていた魔王フラファに牙を剥いた。大軍をもってフラファの国に攻め入ったのだ。グスタヌとハクハの暴挙に憤った数名の魔王がフラファの側につくと、今度はそのフラファ側についた魔王を嫌う別の魔王がグスタヌらの味方につき、戦火は一気に拡大した。当初は中立の立場を取っていた魔王もいたが、戦火が拡がるにつれ自国と自国の民を守る為に参戦せざるを得なくなった。枯れ野を焼く野火のように、戦は瞬く間に〈海の九王国(カリオナスタ)〉全土を吞み込んでいった。…………まるで悪夢を見ているようだった」

「自分たちの仲裁をしてくれていた魔王(ひと)を攻撃するなんて、グスタヌとハクハはどうしてそんな恩知らずな真似をしたんだろう?」

 「殺戮者」とか「毒蛇」とか「狂人」とか、とんでもないあだ名ばかりだな。

 そう思いながらカナンは尋ねた。

 …………エイデンにも何かあだ名はあったのだろうか?

 エイデンはゆっくりと重たげに頭を横に振った。

「何がきっかけだったのかはわからない。何百年もの間互いを〈狂人〉〈毒蛇〉と罵り合い、激しく憎み合っていたはずの彼らの間で一体何があったのか。何が二人の心を百八十度変えさせたのか。ハクハが、自分より美しいフラファに嫉妬したのだという者もいた。確かに、ハクハは己の美貌に絶対的な自信を持っていたからな。性格はかなり難があったが。ハクハは自分に仕える女官や家臣の中に美しい容姿の者がいると、彼女らを宮殿から追放するだけでは飽き足らず、流刑や投獄、果ては処刑までしていた。嫉妬深く、極端で、傲慢な女だった。だが、それ以外では優れた統治を行っていた為、国民からは恐れられつつもそれなりに慕われてはいたようだ」

 カナンは乾いた笑みをこぼした。

「そ……それは凄いね」

 凄いというか………怖すぎる。

 何なんだ、その一方向にだけ全振りした暴君ぶりは?

 さすがは〈氷の毒蛇〉。

 でも、それがグスタヌとハクハが手を組んだ理由にはならないような気がする。ハクハが誰に嫉妬しようと、グスタヌには関係ない話だ。いやむしろ嫉妬に狂うハクハを嘲笑うのではないだろうか? 何百年も互いを罵り合い、憎み合ってきたのだから。

 先ほどエイデンも言っていたように、一体何が二人の心を激変させたのだろう?

「攻め入られた方の魔王……フラファだっけ?……は、どんな人だったの?」

「…………そうだな………彼女は………」

 遠い記憶に思いを馳せるように、エイデンはカナンの肩越しに四角く区切られた窓の外の夜の闇を見やった。

「フラファは非常に優れた統治者だった。海の水晶のように美しく、高貴で、微笑みは柔らかく優しく、気品に満ち溢れた女性だった。彼女ほど思慮深く、知性に溢れ、聡明な人物を私は知らない。フラファの慈愛は自国の民だけでなく、全ての〈海の民〉に注がれていた。国同士や魔王の間で諍いが起こった時は、我が身を顧みず身を挺して仲裁に入るほどフラファはこよなく平和を愛していた。他の魔王たちも何か問題が起きると彼女を頼った。そして、彼女が期待を裏切る事は決してなかった。つまらぬ誤解で対立していた私とメスナーが友人となるきっかけを作ってくれたのも彼女だ。人々は彼女を〈良き仲裁者フラファ〉〈慈悲のフラファ〉と呼び、崇拝した。〈海の九王国(カリオナスタ)〉の長い歴史の中でも、彼女ほど全ての〈海の民〉から尊敬され、愛された魔王はいなかったろう」

 カナンは表情を和らげた。

「素晴らしい人だったんだね」

「ああ。私も彼女を尊敬していた。私など足元にも及ばぬ優れた治政を行い、私よりはるかに長く魔王の座に就く者として。フラファは真珠の宝飾品を好み、よく身に付けていたので〈真珠姫〉とも呼ばれていた。真珠は深い信頼と変わらぬ友情を象徴する宝玉、まさにフラファに相応しい。黒真珠の宝冠(ティアラ)が彼女の髪の色にとてもよく似合っていた………」

 エイデンは黒衣の懐に手を入れると、何かを取り出した。

 革手袋の上で、黒い光沢のある小さな丸い粒がひとつ、燭台の光を吸って仄かに光っていた。深い緑や暗い赤や沈んだ紺などの様々な色が複雑に溶け合っていて、見る角度によってそれぞれの色が浮かび上がる。不可思議で、逆らい難く蠱惑的で、神秘に満ちた色だ。じっと見つめていると魂を吸い込まれてしまいそうになる。

「これは?」

「これが黒真珠だ。普通、真珠はまろやかな乳白色をしているが、稀にこのような色のものが産出される。〈海の九王国(カリオナスタ)〉の宝玉のひとつだ。黄金色の真珠(もの)の方が希少で価値も高いが、フラファはこの黒真珠の方を好んだ。これは、何かの拍子にフラファの宝冠(ティアラ)から落ちたものだ。拾い上げて返そうとした私に、フラファはメスナーとの誤解が解けた記念に持っていて欲しいと言った。また彼と意見が対立しそうになった時はこれを見て心を鎮めて欲しい、と」

 もしかして、エイデンにとってフラファは唯一無二の………特別な女性だったのではないだろうか。

 小さな宝玉の粒を再び黒衣にしまうエイデンの姿を眺めながら、カナンはそう思った。「黒真珠の宝冠(ティアラ)が髪の色にとてもよく似合っていた」などと、エイデンが女性をそんなふうに褒めるのを聞いたのは初めてだったから。あの誰もが思わず振り返るほどの美貌を誇るマリエルにすら、まるで関心がない様子なのに。

 一体、フラファはどうなったのだろう?

 カナンにはそれをエイデンに尋ねる勇気はなかった。

 黒真珠の粒をしまった黒衣の胸元をしばし押さえた後、エイデンは話を続けた。

「戦は長く続いた。何百年も。私はメスナーと共にフラファの側につき、グスタフ・ハクハの軍勢と戦った。何人もの魔王が斃れ、次の魔王もまた先代魔王の遺志を継ぎ、戦列に加わった。メスナーと私は誓い合った。二人で力を合わせ、最後まで轡を並べて戦い、必ずこの忌まわしい戦を終わらせようと固く約束を交わした」

 エイデンは痛みの滲む暗い目で革手袋をはめた自分の両手に視線を落とした。

「…………だが、その約束は叶わなかった。踏みつければ溢れ出るほど血を吸った汚泥の上で、メスナーは死んだ。他の多くの者たちと、同じように」

 わずかに傾け、俯いた白い端正な顔と黄金の額飾りに幾筋かの黒髪が垂れていた。

 それは黒い涙のようにも見えた。

 カナンはかける言葉を見つけられなかった。

 本当に仲が良かったのだ、この人とメスナーは。心から互いを信頼し、尊敬し合い、固い絆で結ばれていた。無二の親友だったのだ。

 先ほどエイデンはメスナーの事を「情に厚い男」と言ったが、エイデンもそうだ。いつも冷やかで、冷徹で、何の感情もないような佇まいをしているけれど、内面は違う。ただ表に出さないだけだ。

 エイデンは疲れたように長椅子の背もたれに寄り掛かった。その表情は、あらゆる辛酸を経験し尽くしたせいで感情が擦り切れてしまったようにどこか空虚で無機質めいていた。

「数え切れぬほどの民が命を落とした。街や村は跡形もなく破壊され、焼き払われ、消滅した。〈海の九王国(カリオナスタ)〉は荒廃していった。夥しい屍と共に絶望と憎悪と怨嗟ばかりが積み重なっていき、やがて戦う理由も目的もわからなくなった。ただ目の前に敵がいるから戦った。剣を向けてくるから殺した。命乞いの叫びも慈悲を乞う涙も、殺し合いが日常となってしまった麻痺した心には全く響かない。ただ事務的に相手の首を落とし、心臓を貫くだけ。(ことわり)も調和も、もはやどこにも存在しなかった。…………そうして、気付いた時には誰もいなくなっていた。敵も味方も。私の剣はかつての美しい姿を失い、不吉な闇色に凍え、刃からは常に穢れが滴るようになっていた」

 エイデンは長椅子の背もたれから身を起こすと、テーブルの長剣を取り再び腰に戻した。

 暗闇に溶け込むように、漆黒の水晶の剣は黒衣の色に紛れた。

 持ち主であるエイデンと一心同体であるかのように。

「後に残ったのは見渡す限りの骸だけだった。川は血と汚泥で淀み、地面からは腐臭がした。〈海の九王国(カリオナスタ)〉は〈海の民〉が最期の息と共に吐いた膨大な穢れに覆われ、海の水晶が溶け込み青いはずの下海は……〈海の九王国(カリオナスタ)〉の空は穢れで濁り果てて、不吉で恐ろしい陰鬱な色に変わってしまっていた。この剣と同様、『至高の青』はもはやどこにも存在しなかった。私は数百年ぶりに剣を下ろし、命を奪い続けたその手で今度は民の亡骸を一人ずつ埋葬した。墓穴を掘り、墓標を立てて。最初は自国の民を、それから他の国の民を。彼らを悼み、弔う者は誰もおらず、骸は野晒しのままだったから」

 骸だ。

 辺り一面、骸に覆われている。

 固く閉ざされていた〈銀馬門(ガータナス)〉をこじ開け〈海の九王国(カリオナスタ)〉に足を踏み入れた水晶騎士団の騎士たちは、狂気と共にかの地をそう表現した。

 何と恐ろしい光景だ、と。

 どれほど陰惨で、絶望に満ちた光景であった事だろう。

 エイデンはそこにいたのだ。

 ずっと。

 たった一人。

 一体、彼はどうやって正気を保っていたのだろう?

 保っていられたのだろう?

 ほんの短い期間足を踏み入れた水晶騎士団の精鋭の騎士たちは、あっという間に心を砕かれ正気を失ってしまったというのに。

 エイデンは、膝の上で両手の指を軽く組み合わせた。

「最初の何十年かは、私以外にも生き残った者がいるのではないかという一縷の望みを抱き、亡骸を埋葬しながら探し回った。だが誰一人見つけられず、そのうち私は諦めた。しばらくして、私は自分がずっと水も飲まず食事も取らず、眠っていない事に気付いた。墓穴を掘っていた時、誤ってひどい怪我を負った事があったが、傷は瞬く間に消えてしまった。〈地の民〉が恐れ、忌み嫌う死者のように。私は驚き、混乱した。そして悟った。これは罰なのだと。このまま老いる事も朽ちる事も許されず、死と沈黙に沈んだ陰鬱なこの呪われた世界で、私は永遠にたった一人彷徨うのだと。護るべき民も国も護れず、全てを滅ぼしてしまった愚かな王に相応しい末路ではないか」

「そんな………」

 エイデンがこんなにも弱々しく、自虐的な言葉を吐くなんて。

 カナンは想像もしていなかった。

 こんなにも打ちひしがれた彼の姿を目にする日が来ようとは。

 エイデンはずっと悔いてきたのだ。失ってしまった大切な人々と、変わり果てた故郷に思いを馳せながら。

 焼き払われたエルレイの薔薇の園で大海についてカナンに説明していた時、彼はどんな気持ちだったのだろう?

 カナンは膝の上でぎゅっと手を握り締めた。

 永遠に消えぬその傷を、自分は今、抉っている。

 革手袋と額飾りで隠してきた、彼の古傷を。

 僕は………なんてひどい事をしているんだろう。

「…………ごめん」

 突然、謝罪の言葉を告げられ、エイデンは困惑して瞳を揺らした。

「何故、君が謝る?」

「辛い話を無理にさせてしまって。エンプリア離宮ではあんなふうに一方的に怒鳴って。エイデンの気持ちなんか、全然考えずに」

 エイデンは目をみはった後、フッと表情を和ませた。

 もしもガラハイド国騎士団長ジルダスがこの場にいたならば、ガラハイド国攻防戦の朝カナンの事を語った時にエイデンが見せた表情と同じだと思った事だろう。

 残雪に反射する暖かい春の陽のような、あの表情に。

「君は優しいな、カナン。………やはり、私は君が羨ましい」

 薄く笑み、しみじみとそう呟いたエイデンは、しかしその直後にはがらりと口調と表情を変えていた。

「ガラハイド国で、私が水晶の共鳴作用について話したのを覚えているか? 同じ種類の水晶同士は共鳴し、振動波を発すると」

 まるで、ようやく優しい恵みの陽の光が訪れた春から一気に厳冬に逆戻りしたかのようだった。

 唐突に話題が変わった事に戸惑いつつも、カナンは頷いた。

「え? うん。覚えてる……けど?」

「魔剣は海の水晶で出来ている。ゆえに九本の魔剣は常に互いの存在を感知し、共鳴していた。そして、君やワクトーや〈天の民〉のハランのように水晶の振動波を………歌を聴くのとは異なるが、魔王もまた魔剣を通じて常に互いの存在を感じる事が出来た。ほとんど無意識に近い感覚で、具体的な居場所まではわからなかったが、それでもその魔剣の持ち主が誰であるかは判別出来た。長く魔王の座にあればあるほど、その感覚は研ぎ澄まされた。だが、黒く凍えた私の剣はいつしか完全に沈黙していた。私は、私以外の魔王が全員命を落とし、彼らの魔剣もまた持ち主の死と共に全て砕けてしまったからだと考えていた。ところが………」

 ス…ッと、エイデンの声が低くなった。

「メスナーが大海と大地を隔てる〈銀馬門(ガータナス)〉を閉じてから数百年後、後に〈白百合王〉と呼ばれる事となる時の聖王によって〈銀馬門(ガータナス)〉がこじ開けられた時、私の剣が反応したのだ。こじ開けられた〈銀馬門(ガータナス)〉の向こう側に、魔剣の………私以外の魔王の存在に。……………それは良く知る気配だった」

 カナンは目をみひらいた。

「! それって………!」

 その時の記憶を手繰り寄せるように、エイデンは眉間に険しく皺を刻んだ。

「最初、私は気のせいだと思った。あり得ないと。何故ならその気配の主が生きているはずがなかったからだ。死んだはずだった。暗く不吉な色に濁った下海()の下、昼も夜も失われた永遠の頻闇(しきやみ)の世界で、膨大な数の骸を埋葬し続ける事に耐えられなくなった私の心が作り出した幻覚なのではないかと。………だが」

 エイデンは目を上げた。

 そこに浮かんでいたのは、自分以外にも生存している同胞が……魔王がいるかもしれないという希望ではなく、恐ろしいほど暗澹とした憎悪だった。

「それでも確かめなければと思った。何故なら、私の考えが間違っていなければ、その者は〈海の九王国(カリオナスタ)〉を滅ぼしたあの戦の真実を知る唯一の者だからだ。だから私は大地(ここ)へ来た。〈白百合王〉がこじ上げた〈銀馬門(ガータナス)〉を通って。………以来、私はずっと探し続けている。この大地のどこかに潜んでいるはずの、私以外のもう一人の魔王を。必ず見つけ出し、真実を問いただし、そして決着をつける。そうしなければ、真の意味であの戦は終わらない。私はメスナーと約束した。彼の臨終を看取った時にも誓った。必ずこの忌まわしい戦を終わらせると。今度こそ、私はその約束を………誓いを果たす。その為ならば私はどんな手段()でも使う。何人(なんぴと)であろうと、立ちはだかる障害(もの)は排除する。何度でも、いくらでも、この穢れで凍えた忌まわしい魔剣(クラーケン)を抜き、無慈悲になろう」

 血を吐くような、執念に満ちた言葉だった。(くら)く、冷酷で、狂気じみた。膝の上で組み合わせたエイデンの指が、強く込められた力のせいでひどく歪んで見えた。

 もう慣れてしまっていたはずの、エイデンの側にいると感じるあの冷気が、四方八方から一気にカナンの方へと押し寄せてくる。手足が冷たくなり、背筋がゾッとした。

 目の前に座る黒衣の男のもうひとつの顔を見せつけられた気がした。

 彼の本性を。

 「あの男からは戦場の匂いがする」

 「やたらと戦慣れしていやがる」

 様々な人の様々な言葉が、カナンの脳裏で鳴り響く。

 プレストウィック国のハネストウの薬屋で始めて会った時から、カナンはこの黒衣の男を恐ろしいと感じた事は一度もなかった。

 自分でも不思議に思うくらい、微塵も。

 優しい人だと思っていた。

 実際にそうなのだろう。一緒に旅をしてきたからわかる。少し説明が足りないところはあるけれど。

 でも………両手や額の(むご)い傷跡と同じように、普段は誰にも見せないよう隠しているだけで、彼は確かに恐ろしい一面を持っているのだ。

 かつて「死と闇」(イル=ファン=イア)と呼ばれたほどに。

「…………もしかして………」

 今すぐこの場から逃げ出したい衝動を懸命に押し殺しながら、カナンは強張った声を何とか喉の奥から絞り出した。

「それが………そのもう一人の魔王が………『あの女』? ガラハイド国で、アニガン卿に言っていた?」

 やはりあの女は生きているのだな。

 あの時、エイデンはアニガンに向かってそう言った。

 憎しみに満ちた表情で。

 毒が滴るような口調で。

 エイデンは重々しく頷いた。

「…………そうだ」

 カナンの強張った表情を見て、ずっと胸に秘めてきた本心を(さら)け出した事でカナンを怖がらせてしまった事に気付いたのかもしれない。高ぶった気分を落ち着かせるように、エイデンはひとつゆっくりと息をついた。

 それから、彼はまるでそこに記憶の中の光景が広がってでもいるかのように、哀愁と懐古と仄かな羨望が入り混じるほろ苦い表情で天井の片隅を仰ぎ見た。

「…………〈銀馬門(ガータナス)〉を通り抜け、大地に一歩足を踏み出したあの瞬間を、私は忘れる事が出来ない。なんと美しいのだろうと。初めて立った大地はかつての〈海の九王国(カリオナスタ)〉のように明るく、光に溢れ、空は澄み渡り輝いていた。風に棚引く薄布のように光の波が揺らめき泡立つ〈海の九王国(カリオナスタ)〉の濃密な下海()とはまた異なる、爽やかで清々しい天藍(てんらん)の蒼天…………青い空を見たのは、久しぶりだった………」

 懐かしげに………愛おしげに語るエイデンの顔を見つめながら、ふとカナンは「アニガン卿は今どこいるのだろう?」と思った。

 ディアドラ系譜図書館での思いがけぬ邂逅以来姿を見せていないが、身を潜めているだけで、彼はまだカナンを………エイデンを付け回しているのだろうか?

 だとしたら………もしかしてアニガンも王都にいるのだろうか? 何か良からぬ事を企んでいるのだろうか?

 カナンは軽く頭を横に振った。

 今ここにいない………姿が見えない相手の事をあれこれ考えても仕方がない。またアニガンが現れた時に、その時に考えればいいのだ。

 しばしの美しい追想から自らを現実に引き戻すかのように、エイデンは目線をカナンに戻すと固く厳しい口調に戻った。

「先ほども説明した通り、魔剣の共鳴作用は相手の存在は感じられても具体的な居所までは特定出来ない。だが、〈銀馬門(ガータナス)〉が開けられた瞬間から、こちらへ来てからもずっと、私は常に魔剣の………もう一人の魔王の気配を感じていた。羽根が地面に落ちる音のように微かだったが、確かに。おそらく相手も私が〈海の九王国(カリオナスタ)〉からこちらへ来た事を察知しているはずだ。私が自分を探している事も。相見(あいまみ)えた時、私が何をするつもりなのかも。それゆえ、あの女はずっと姿を隠しているのだ。狡猾で、策略に長けた女だ。気配は感じるのに、どこに潜んでいるのかはわからない。夜空に浮かぶ月のように、深淵の底の石のように、全く手が届かない。掠りもしない。苛立ちばかりが募り、私は腹立たしかった。……………だが、今の私には『約束の予言』がある」

 『約束の予言』という言葉を発した時のエイデンは、どこか狂気じみた熱情を孕んでいた。あたかもそう唱えれば全ての望みが叶う万能の呪文であるかのように。

 その熱情にやや気圧されながら、カナンは聞いた。

「貴方はどうやって『約束の予言』の事を知ったの? 誰が貴方にそれを教えたの?」

 カナンにとっても全ての始まりとなった、あの予言を。

「私が最初に『約束の予言』について告げられたのは、〈銀馬門(ガータナス)〉を通りこちら側へ来てからかなりの年月が経った頃だった。その頃の私は、いくら探し回ってもあの気配の主を……もう一人の魔王を見つけられず、文字通り万策尽き途方に暮れていた。民の弔いもまだ途中であったのに一体私はここで何をしているのだと、悔恨の念すら(いだ)き始めていた。だが、ある日、とある村に立ち寄った時、その村に住む予言者が私の顔を見るなりこう告げた。『探しものは見つかる』と」

 その予言者は、孫に支えてもらわなければ椅子から立ち上がる事すらままならぬほどひどく年老いた予言者だった。彼は、他の村人たちのように突如現れた得体の知れぬ黒衣の男を警戒するでもなく、むしろ歓迎しているようにさえ見えた。

 おそらく、エイデンが村に来る事を予言()て、ずっと待っていたのだろう。

「その予言者は私に言った。『探しものは見つかる。だが、その為にはお前は『約束の予言』を待たなければならない。お前が『亡き友との約束を叶える為の予言』を。それは、わしよりもはるかに優れた予言者によってもたらされるだろう。お前は一旦探し回る事をやめ、(くだん)の予言がもたらされるその時を待たねばならぬ』……と」

 エイデンは、深く長く震えるような溜め息を膝の上に落とした。

「〈海の民〉である私は予言者にも予言そのものにも懐疑的だったが、もはや他に良い手立ても思いつかなかったので信じてみる事にした。闇雲にもう一人の魔王を探し回る事はやめ、見つけ出せない事に苛立つ事もやめ、出会った人々と交流を持つようにした。〈獣使い〉の一族と知り合ったのもその頃だ。快活で、豪胆で、裏表のない彼らとの日々は私の心に平安をもたらしてくれた。彼らと過ごすのは楽しかったよ。気兼ねのなさが心地好かった」

 カナンは薄く微笑んだ。

「うん………そうだね」

「長い年月が過ぎ去り、偶然から聖王オニールと知り合い彼に助言する立場となった頃、『聖女ロザリンド』と呼ばれる優れた予言者の噂を耳にした。彼女が持つ予言の力は大予言者カラグロワに匹敵するとまで称賛されていた。私は、彼女が『約束の予言』を私にもたらしてくれる『優れた予言者』なのではないかと考えた。しかし、ローザ………ロザリンドは、臨終の床でそれは自分ではないと否定した。それは自分の役目ではないと。………正直言って、そう告げられた時はひどく落胆したよ。私はまだ待たねばならぬのかと。しかし、それからわずか十数年後、ついに私は『約束の予言』を手に入れる事が出来た。レディ・マリエルによって」

 エイデンは革手袋をはめた手をグッと硬く握り締めた。

「ここまでくるのに千年かかった。だが、あと少しだ。あと少しで、『約束の予言』は果たされる。ようやく私はメスナーとの約束を果たす事が出来るのだ」

 エイデンが冷静さを保とうと努力しながら語っているのがわかった。

 しかし、それでもやはりいつものエイデンではなかった。下界を見下ろす月のように冷やかで、感情を表に出さぬいつもの彼では。わずかに身を乗り出し、闇色の双眸をまるで熱に浮かされたように狂おしく輝かせて。

 危うさすら感じた。

 希望を注視するあまり、周りが見えなくなってしまっている者特有の危うさを。

 年老いた予言者から初めて『約束の予言』について聞かされた時のエイデンは、先ほど彼自身が語っていたように懐疑的だったはずだ。

 それなのに、今では頑ななまでに信じている。「縋りついている」という表現の方が正しいかもしれない。

 カナンは『約束の予言』をまるで自分を縛る鎖のようだと思ったが、エイデンにとっても同じなのではないだろうか?

 エイデンもまた『約束の予言』に縛られているのでは?

 彼だけではない。カナンやジーヴァやラーキン………そして、もしかしたら今王都にいるナイヴァルにまで、まるでエイデンの剣に刻まれた女神の怪物(クラーケン)の長い十本の腕のように、七賢者の末裔たち全員に絡みついている。

 予言は最良の選択をする為の道標(みちしるべ)

 マリエルはそう言ったけれど。

 やはりカナンには、予言とは人の行動や意思を縛り操る重い鎖としか思えないのだ。

 今まさに目の前に座っている、この黒衣の男が示しているように。

 エイデンがやっと掴んだ……と信じている……機会を台無しにしたいわけじゃない。

 『約束の予言』を覆したいわけじゃない。

 エイデンの望みが叶えばいいと願っているし、結末を見届けたい気持ちも変わりない。

 だけど………

 カナンは唇を噛んだ。足元に視線を落とす。まるでそこに正しい答えが転がってでもいるかのように。

 言ってもよいものかどうか、カナンは迷った。

 エイデンの希望を打ち砕くような事を。

 苦い真実を。

 しかし、結局カナンは言った。

「でも、エイデン……! もう『七賢者が再び集う』事はないよ? ホーデンクノス卿の血を継ぐ最後の一人はもう死んでしまってたんだから。その事は貴方もディアドラ系譜図書館でラーキンから聞いて知っているはずでしょ? 貴方の『約束の予言』はもう…………」

 果たされる事はない。

 以前、スヴェアが指摘したように。

 口に出した途端、カナンの胸中に激しい後悔と罪悪感が沸き上がった。エイデンの顔を正視出来ず、カナンは俯いた。

「こんな事言ってごめん。でも………」

 重く気まずい空気が流れる。

 エイデンは無言だった。

 とうとう沈黙に耐えられなくなり、恐る恐るカナンが顔を上げると、エイデンは何とも言えぬ表情をしていた。何と言うか………思いもよらぬ事を言われたような。ただの水だと思って口を付けたら薬草入りだったような。

 カナンの方が返って困惑してしまうような、そんな表情だった。

 しばしカナンの顔を見つめた後、エイデンはまるでカナンの言いたい事がやっと理解出来たとでもいうふうにフッと苦笑した。

「ああ、そうか。君はその事を懸念していたのか。当然だな。すまない。また私は言葉が足りなかったようだ。君にいらぬ心配をさせてしまった」

 続くエイデンの言葉に、カナンは心底驚いた。

「ナセル=フレイズ=ホーデンクノスの血を継ぐ者はいる。君もすでに会っている」

最後までお読み頂きましてありがとうございました。

全体的にエイデンの説明台詞の章になってしまいました。すみません。

さり気にノロケまで混じってますし(笑)

残念ながらシャリマーの恋心は報われないようです。恋敵が強敵すぎるので。

ごめん、シャリマー。平手打ちは勘弁して。


次回投稿にて、起承転結の「転」に当たるこの 第三巻 集結 は最終回となります。

引き続きお読み頂けますと幸いです。

ではまた。

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