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石の剣の王3 集結  作者: 水崎芳
第十章 滅びの地の王
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13/15

第十章 滅びの地の王

新年あけましておめでとうございます。

本年もよろしくお願い申し上げます。

皆様にとって本年が充実した良いお年となりますように。


それでは、2026年最初の投稿となります 第十章 滅びの地の王 をお届けします。

最後までお読み下さいますと嬉しいです。

    第十章 滅びの地の王


 夜のガラハイド国領主邸は静寂に押し包まれていた。

 夜勤の騎士が邸内を見回っているはずなのだが、人の気配は全く感じられない。まるで邸内にはカナン一人しかいないかのように。広くて大きな邸だから、そう感じてしまうのだろう。自分の心臓の鼓動まで聞こえてくるような静けさだ。

 今夜は特に静かに感じる。

 カナンは手元の器に視線を落とした。

 乳白色の陶器の器の中には、砂糖水と混ぜてほぼ水分がなくなるまで煮詰めたアミガサユリの球根が入っていた。ずっと咳が止まらなくて困っているという領主邸の侍女に薬草の処方を頼まれたのだ。

 器に細かく砕いたオワンタリアの葉を加えてすり潰し、練り混ぜ、侍女の体格を考慮しつつ慎重に量を測ってひとつひとつ丸薬にしていく。ビューグラスにしようかとも考えたのだが、薬は苦手だという侍女の為にこちらを選んだ。

 ガラハイド国の故郷の村を遠く離れ、今年の春の終わりから領主邸で働き始めたばかりだというその若い侍女は、まだ顔立ちに幼さが残る鶏の脚のように痩せた娘だった。かなり貧しく厳しい環境で育ったのだろう。もしかしたら、貴族の邸で働く多くの使用人がそうであるように、口減らしの為に家を出されたのかもしれない。

 侍女頭や筆頭侍従にかなり厳しく鍛えられているらしく、カナンは彼女が庭の片隅で涙を拭っているのを何度か見かけた事がある。貧しい実家よりははるかに衣食住環境はましだろうが、それでも使用人としての生活は大抵辛いものだ。

 ナタリア公妃に仕えるあの双子の姉妹のように。

 彼女たちは今頃どうしているだろう? あの残酷で癇癪持ちの公妃に折檻などされていなければいいのだけれど。

 作り終えた丸薬を一回の服用量ごとに包み終え、カナンはふうとひとつ息をついた。

 時刻はもう真夜中をとっくに過ぎており、テーブルに置いた燭台の蝋燭もだいぶ短くなっている。薬草の調合に集中していたせいで時間が経つのを忘れてしまった。

 いつもの事だが。

 薬草を摘んでいる時も、よく時間を忘れてしまって気が付けば辺りは真っ暗だったという事がよくあった。

 ワクトーもそうだ。

「遅いので心配した」

 と、お互い言い合ったものだ。

 カナンは強張った体をほぐすように「うーん」と大きく伸びをした。

 温かみのある燭台の灯火で照らされた室内を、何とはなしに見回す。

 ガラハイド国領主邸に到着した日にカナンにあてがわれたこの部屋は、カナンがたじろぐほど広い部屋だった。居間と寝室が別々の続き部屋になっており、湯浴みをする為だけの小部屋や、書斎まである。来客を迎える小広間ほど豪奢ではないが、調度も使うのを躊躇うほど立派なものばかりだ。

 もっと質素で小さな部屋でいいとカナンは言ったのだが、筆頭騎士のヨーント卿が、

「恐れ多くもクレメンツ公とレディ・マリエルの親しいご友人に狭苦しい部屋を使わせるなどとんでもない」

 と言って譲らなかったのだ。

 ヨーント卿は滅多に笑わない強面で厳格な騎士だが、遠く離れた故国(ガラハイド)で生まれたばかりの初孫の小さな肖像画を常に身に付けている事を、カナンは知っていた。一見、声をかけただけでじろりと睨みつけられそうな近寄りがたい雰囲気の持ち主だが、実は親切な老騎士だ。

 それにしても………

 百歩譲って……それもものすごく大股での百歩だが……ずっと一緒に旅をしてきたマリエルはまだしも、一体いつの間に自分はクレメンツ公の「親しいご友人」になってしまったのか。

 だんだんと話が大袈裟になっていっている気がする。

 広すぎてどう使えばよいのか途方にくれたカナンだったが、書斎を薬草の保管や加工や調合する場所にしようと思いついてからはそれなりに快適に過ごしている。

 スヴェアには、

「ここで薬屋でも始めるつもりか?」

 と、呆れられたが。

 換気の為……と言うか、暑さに我慢出来なくて……鎧戸を開け放っている窓に視線を移すと、トネリコの枝葉を(かたど)った飾り格子の向こうに薄雲で化粧した月が見えた。窓から吹き込む夜風は生ぬるかったが、それでも昼間よりは涼しい。時折、密やかなフクロウの鳴き声が耳に届く。領主邸の敷地内に棲みついている(つがい)だろう。お互いに呼び合っている。

 昔、領主邸で一番古いトネリコの巨木に雷が落ち、その時出来た(うろ)にいつの間にかフクロウが棲みついたのだと、いつだったか古参の侍女が教えてくれた。今何代目なのかはわからないが、以来ずっとこのトネリコの古木にはフクロウの一家が棲んでいる。貯蔵してある食料を食い荒らすネズミを捕ってくれるので、領主邸の使用人たちからは勝手に台所に入ってくる野良猫と同じくらいありがたがられているらしい。低く密やかな鳴き声は心が落ち着く。シエル村の夜を思い出すからかもしれない。

 尤も、シエル村ではフクロウの鳴き声よりも狼の遠吠えの方がよく聞こえていたが。

 ほんの短い夏の間は、カエルの合唱が。

 燭台の蝋燭の炎が、窓から吹き込む夜風にゆらゆらと揺れている。

 それに合わせて、床に落ちたカナンの影も。

 肺の中の空気を全て吐き出すように、カナンは深く溜め息をついた。

 レクサに水晶王宮へ招待され、あの隠し部屋で起きた出来事から、すでに三日が過ぎようとしていた。

 あの日以来、カナンはエイデンとは顔を合わせていなかった。カナンが彼を避けているせいもあるが、エイデンの方も全く姿を見かけなかった。領主邸内にいるのかどうかすらもわからない。

 スヴェアや他の騎士に尋ねても、

「さあ? 姿が見えないのならまた外出しているのでは?」

 という曖昧な答えが返ってくるばかりだった。

 スヴェアは二人の間に何かあった事に薄々気付いているふうだったが、カナンの方から話してくるのを待つつもりなのか尋ねてくる事はなかった。雄牛のようにごつい体躯の持ち主だが、スヴェアはいつも心遣いが細やかだ。

 カナンは作り終えた丸薬の包みを見下ろした。

 …………一体、自分はここで何をやっているのだろう?

 王都に到着して早二ヶ月余り、カナンは何かの拍子にふとそう思う事が増えていた。

 この旅の目的はむろん覚えている。エイデンの『約束の予言』の結末を見届ける為だ。ディアドラ系譜図書館で、カナン自身がそう決めた。だから王都(ここ)へ来た。エイデンが王都へ行くと、そう言ったから。

 そう………なのだけれど。

 今の自分は、スヴェアやヨーント卿らガラハイド国の騎士たちが警備する安全な領主邸で、ただ平穏な毎日を送っているだけだ。衣食住の心配はなく、こうして心置きなく薬師の仕事も出来ている。

 ディアドラ系譜図書館で別れたジーヴァは、今も一族と共に〈天の民〉と戦っているというのに。

 カナンたち〈地の民〉の盾となって。

 このままでいいのだろうか? と、そう思ってしまうのだ。

 他人に戦わせて、守ってもらうばかりでいいのだろうか? と。

 だからと言って、今すぐ自分もジーヴァと肩を並べて戦えるとは、もちろんカナンは思っていない。スヴェアに剣を習ってはいるが、今の自分の技量程度ではほとんど役には立たないだろう。

 いや、それどころか足手まといになってしまうのがおちだ。

 だが、かつてワクトーが冠鷲に対するヨモギの効果を発見したように、剣ではなく薬師の知識と技でジーヴァたちに貢献する事は出来るのではないだろうか?

 何か………自分にも出来る事が。

 胸元に視線を落とす。

 服の下に隠れたアリアンテに。

 それとも……自分は全く覚えていないが……ガラハイド国攻防戦で〈天の民〉の槍騎兵と空中砦を一瞬で消し去ったように、この水晶の首飾りをうまく利用出来ないだろうか?

 ナタリア公妃はこれを武器だと思っていたけれど、実際にそういうふうに使えるのであれば………

 ふいに燭台の蝋燭の芯がジジ…ッと音を立て、カナンははっと我に返った。

 自分が恐ろしい考えに陥っていた事に気付く。

 アリアンテは武器じゃない。

 祖父ワクトーが遺してくれた、たったひとつの大切な形見だ。

 そして、祖父の友人だったエルレイの形見でもある。

 この首飾りは穢れを祓う水晶なのだ。そんな(よこしま)な使い方をするべきではない。それではあのナタリア公妃と同じではないか。

 忌まわしい考えを振り払うように何度か軽く頭を振り、カナンは立ち上がった。

 用意していた小さな布袋に丸薬の包みを入れ、キュッと口を縛る。

 侍女に薬を渡すのは明日の朝でいいだろう。領主邸の使用人たちは夜明け前から夜遅くまで忙しく勤勉に働いているが、さすがにこの時間ではもう休んでいるはずだ。

 第一、深夜に女性の部屋を訪ねるなど礼儀にもとる。周囲にいらぬ誤解を与え兼ねないし、彼女の名誉にも関わる。万一そのせいで彼女が解雇でもされたりしては大変だ。

 薬草を調合する道具を片付け、燭台を手にカナンが寝室に向かおうとした時。

 誰かが遠慮がちに入口の扉をノックした。

「はい?」

 こんな時間に誰だろう? と訝りながら扉を開けたカナンは、相手の姿を見て表情を固くした。

 立っていたのはエイデンだった。

 いつもと同じく、人の形をした暗闇のように。

 いつもと同じ、表情の乏しい端正な顔で。

「もう休んでいるかとも思ったのだが、扉の下から明かりが漏れているのが見えたので………入ってもいいだろうか?」

 静かで、遠慮がちな問いだった。

 一瞬だけ躊躇った後、カナンは頷いた。

「………どうぞ」

 一歩退き、エイデンが通れるよう場所をあける。

 エイデンは黒い霧のように入って来た。

 ス…ッと、室内の温度が一気に冷えたような気がした。

 いつもそうだ。この黒衣の男が近くにいると、空気が変わる。ハネストウの薬屋で出会って以来ずっとそうだ。いつだったかスヴェアも同じ事を言っていたので、カナンの気のせいではない。

 彼が常に腰に佩いている刃から穢れを滴らせる黒い剣のせいなのかもしれないが、何故そう感じるのかわからぬままそのうちカナンは慣れてしまっていた。

「どうぞ。座って」

 カナンが長椅子を示すと、エイデンは素直に従った。

 カナンもテーブルを挟んだ向かいの席に座る。持っていた燭台はテーブルに置いた。

「王宮ではすまなかった」

 カナンが腰を下ろすとすぐにエイデンが言った。

「君を置いて先に帰ってしまって」

「そんな事を言いにきたの?」

 自分でも驚くほど棘のある言い方になってしまった。

 エイデンが押し黙る。

 我に返ったカナンは、反射的に謝っていた。

「…………ごめん。きつい言い方をして」

 エイデンは微かに目をみひらいた。虚を突かれたような表情だった。

 彼はゆっくりと頭を横に振った。

「君が謝る必要はない。悪いのは私だ」

 カナンはきゅっと口元を引き締めた。

「そう思うなら、今度こそ僕の質問にちゃんと答えて欲しい。はぐらかしたりしないで」

「その為に来た」

 黒い革手袋をはめたエイデンの両手が黒衣の膝の上で固く握り締められている事に、カナンは気付いた。

 もしかして………緊張してる?

 あのエイデンが?

 カナンは、蝋燭の炎に照らされ浮かび上がるエイデンの顔を真正面から見据えた。

「………エイデンは………」

 発した声は少し強張っていた。

「エイデンは、どうして七十年前から少しも年を取ってないの? 貴方は、一体な……誰なの?」

 「何」なの? と出かかった言葉を、カナンは辛うじて飲み込んだ。

 張り詰めたような沈黙が降りた。耳鳴りがするほどの沈黙だった。重く、息が詰まるような。足の下で薄氷(うすらひ)が粉々に砕ける寸前のような。

 沈黙は長く続いた。

 ほとんど尽きかけた燭台の蝋燭の炎が、エイデンの衣の裾の続きであるかのように床に影を描いている。

 あまりに続く沈黙に、本当にエイデンは答えてくれるのだろうか? とカナンがそう疑い始めた頃、エイデンはおもむろに腰の長剣を鞘ごと剣帯から外してテーブルの上に置いた。

 そして言った。

「私が年を取らぬのは………年を()()()のは、この剣のせいだ」

「剣の………?」

 カナンは戸惑って、テーブルに置かれた長剣を見下ろした。持ち主と同じように、冷気をまとう漆黒の剣を。

 穢れを浄化する水晶で出来ているはずなのに、刃から絶え間なく穢れを滴らせる漆黒の剣を。

「…………これは、昔は本当に美しい剣だった」

 エイデンの口調は平坦で淡々としていながら、言い知れぬ深い悲哀に沈んでいた。

「深く美しい大海の色を映したような、真っ青な剣だった。一切の光が存在しない闇の中でも、燦然と燃え上がる青い炎のような。海の水晶で出来た剣だ。この剣が私の前に現われた時、私の未来は定まった。それまでの私は、少人数の部隊を率いるだけの一軍人に過ぎなかった」

 エイデンは口の端に苦い笑みを刻んだ。

「………正直、その時は名誉な事だと嬉しかったのだがな。民はそれを【祝福(ダナウファヴィ)】……『祝福』と呼んだ。私もそう思ったが、今では呪いだと思っている。この剣が砕けぬ限り、私は死ぬ事が出来ないのだから。祝福された者は九つのうちのひとつの王座に就き、その国の統治者となった。そして、その統治者が死ぬと剣は砕け、次の統治者の前に新たな海の水晶の剣が出現した。剣が王を選ぶのだ。それが(ことわり)だった」

「それって………」

 カナンは目をみひらいた。

 とある詩文が脳裏をよぎったのだ。

 天空・大地・大海の三世界に住まう、天・地・海の三つの民の間に伝わる、誰もが知っている最も古い詩文。


〈天の民〉の王は翼によって、

〈地の民〉の王は血によって、


 そして………


〈海の民〉の王は剣によって選ばれる。


 言葉が、自然と口をついて出ていた。

「……………〈海の九王国(カリオナスタ)〉の………九人の魔王………」

 エイデンは深く頷いた。

「私はその一人だ」

         *

 カナンはぽかんと口を開けた。

「…………嘘………」

「嘘ではない。君の望み通り、私は正直に話している。魔王となる者の前に出現するこの剣を、〈海の民〉は【魔剣(クラーケン)】と呼んだ。この名は、魔剣に刻まれている『女神の怪物』の名でもある。その長い十本の腕を下海()から〈海の九王国(カリオナスタ)〉に伸ばし、人の(ことわり)に反した罪人(つみびと)を下海へ引きずり込むという伝説の生物。ゆえに【クラーケン】には『裁き』という意味もある」

 エイデンの頬に自嘲めいた影が散った。

「…………あくまで伝説だ。もしそれが本当なのであれば、私などとっくの昔に女神の怪物(クラーケン)によって下海へ引きずり込まれている事だろう。裁きを意味する怪物の姿を刻印した剣を私が持っている事自体、滑稽で皮肉な話だ。魔剣は、持ち主たる魔王が死を迎えるその瞬間まで欠ける事も砕ける事もない。美しく、鋭く、完璧な剣。魔王だけが振るう事が出来る、魔王の証だ」

「え………でも…………そんな………」

 淡々と語るエイデンの言葉が、頭の中に入ってこない。

 はぐかす事なく正直にエイデンは答えてくれたのに、カナンの頭は大混乱に陥っていた。まさかこんな答えが返ってくるとは思わなかったのだ。せいぜい………

 ()()()()

 せいぜい何だと思っていたのだ、自分は?

【…………ヴェ・ネンデ・クカド・ゥム】

「? 何?」

「私が統治していた国の名だ」

 エイデンは、深く長く震えるような息を吐いた。

「他の八つの国の名もまだ覚えている。他の八人の魔王たちの名も。彼らの顔も。だが、もはや何の意味もない。〈海の民〉は死に絶え、九つの国は跡形もなく滅び、何もかも消え去った。それなのに、私だけがこうしてむざむざと生きている。………いや、『生きている』と言えるのかどうか。君も薄々気付いているようだが、私は全く水も食事も取らずにいられるし、睡眠も必要としない。例え怪我を負っても………」

 エイデンは片方の袖口の留め紐をほどくと、肘の辺りまで袖をめくり上げた。

 顔と首筋以外のエイデンの肌を見たのは、これが初めてかもしれない。

 それから、エイデンはベルトに挟んだ短剣を抜くと、露わになった腕に何の躊躇いもなく無造作に刃を滑らせた。

「! 何を……!」

 驚いて身を乗り出したカナンの目前で、ボタボタッと赤い鮮血がテーブルに零れ落ちる。

 ………が。

「………え?」

 カナンの目前で、見る見るうちに傷は跡形もなく消えた。

 エイデンが指で腕に残った血の筋を拭うと、そこには何の跡も残ってはいなかった。

 カナンは愕然とエイデンの顔を見た。

「まるで死者のようだろう?」

 袖を元に戻しながら、エイデンは言った。

「この剣が膨大な穢れを吸い、黒く凍えた時、私の中でも何かが変わった。この剣と同じように、私の身に流れる時間も凍りついてしまったのだ。魔剣に祝福された魔王は皆怪我を負っても常人よりはるかに早く治癒したが、それでもここまでではなかった。食事も睡眠も普通に必要だった。水を飲まねば喉が渇き、食事を取らねば空腹を覚える。眠らなければ睡魔に襲われる。魔王は千年を超える時間(とき)を生きるが、不老不死ではない。氷河が山脈を削りながら流れ下るように、非常にゆっくりとではあったがちゃんと年も取った。だが、今の私は食事も睡眠も必要なく、怪我を負ってもこうして瞬時に治癒してしまう。姿は全く変わらず、年を取る事もない」

「………それって…………」

 まるで死者のようだろう?

 先ほどのエイデンの言葉がカナンの頭の中で木霊した。

 アニガンの姿がそれに重なる。

 まるで疲れ果てた老人のように、エイデンの声は沈み、しゃがれていた。

「……………これで、私は君やサザーやレディ・マリエルと同じく『生きている』と言えると思うか? 自分でもわからぬのだ。果たして私はあのアニガンの同類ではないと、そう言い切れるのか」

 だから………ラーキンの家でカナンが傷の手当てをしようとした時、エイデンはあれほど強く拒んだのか。

 カナンは得心した。

 傷が消えてしまっている事をカナンに知られるのを恐れたのだ。

 カナン自身を拒んだわけではなかったのだ。

「どんなひどい怪我でも、今みたいにあっという間に治ってしまうの?」

「いや。全てではない」

 エイデンは頭を横に振ると、今度は革手袋を外した。

 カナンは目をみはった。

 露わになったエイデンの両手にはひどい傷跡が刻まれていた。恐ろしい傷跡だった。まるで掌を剣か槍で貫いたような。皮膚は引き攣れ、歪み、肉が抉れている。白っぽく見えているのはまさか骨だろうか?

 カナンは、思わずテーブルに置かれたままの漆黒の長剣を見た。

 こんなひどい傷を負った手で、よくこの長剣を自在に操れたものだ。常人ならば剣どころか羽根ペンを握る事すらままならぬだろうに。

「これは、他の魔王の魔剣によって負わされた傷だ」

 深い傷跡が刻まれた自分の手を眺めながら、エイデンは淡々と説明した。

「〈海の民〉を滅ぼした、あの長い戦で。魔剣で受けた傷は永遠に残る。いつまでも疼く古傷のように。魔剣だけが魔王を斃す事が出来ると言われている。魔剣を砕く事が出来るのも。祝福を与えるものが滅亡(ほろび)も与えるのだ」

 言いながら、エイデンは次に額から黄金の額飾りを外した。

 その下からも無残な傷跡が現れる。

 カナンは息を飲んだ。

 「言葉が見つからない」とは、きっとこのような事をいうのだろう。月の化身のごとく端正な顔であるがゆえに、現れた傷跡はよけいに目立ち、そして惨たらしかった。

 戦いに明け暮れた者の姿だった。

 戦場(いくさば)の匂いがする者の。

 ディアドラ系譜図書館の薬屋の老婆は、まさに彼の本質を見抜いていたのだ。

 ショックを隠し切れない様子のカナンに、エイデンは額飾りと革手袋を元通りに戻した。

 傷跡は全て見えなくなり、いつものエイデンの姿に戻った。

「見てあまり気分のよいものではないからな、いつもこうして隠しているのだ。不快な思いをさせて悪かった」

「そんな事………」

 否定めいた言葉を返したが、革手袋と額飾りを凝視しないようカナンはかなり苦労しなければならなかった。

「貴方の事………じいちゃんや〈勝利王〉や、他の七賢者たちは知っていたの?」

「知っていた。いろいろ障りがあるので、彼ら以外の者には秘していたが。ただ、私の素性を知ったナセル………ホーデンクノス卿がふざけて私の事を『陛下』と呼び、それを面白がったオニールまで私をそう呼ぶようになってしまい、困ったが。王宮の廷臣たちはオニールのいつもの悪ふざけだと思っていたようだがね」

 最後の台詞には微かに苦笑が混じっていた。

 ワクトーの事を話す時のエイデンのようだと、カナンは思った。〈勝利王〉や七賢者との思い出を語るエイデンの口調、そして表情が。

 先ほどかつて自分が治めていた国の名を口にした時の、悲哀と苦渋に満ちた彼とは全然違う。

 冬氷(ふゆごおり)に水が染み渡るように懐かしげに語る黒衣の男の顔を眺めながら、カナンはふとある疑問を(いだ)いた。

 〈海の九王国(カリオナスタ)〉の魔王であるこの人が、一体何故、そしていつ、故郷である〈海の九王国(カリオナスタ)〉を遠く離れ大地(こちら)に来る事になったのだろう?

最後までお読み頂きましてありがとうございました。

お察しになった方もいらっしゃるかもですが、エイデンの剣に刻まれている「女神の怪物クラーケン」のモデルはダイオウイカです。……………改めてイカって書いちゃうとあまり格好良くないな(笑)

昔NHKスペシャルで生きているダイオウイカの撮影に始めて成功したドキュメンタリーを観て、その神秘的な姿に感動しましてですね。どこかの水族館では等身大のぬいぐるみが販売されていたはず。今もあるのかは不明ですが。めっちゃお高かった(笑)


エイデンの剣のクラーケンの意匠については 第一巻 約束の予言 第七章でも書いてあります。改めてお読み頂けますと「これイカじゃん」とおわかり頂けるかと(笑)


尚、以降〈海の民〉の言葉は【 】で表現させて頂きます(〈地の民〉の言葉は「 」、〈天の民〉の言葉は『 』です)


次章では、何故エイデンがこちら側へやってきたのか、その理由が語られます。

先の大戦よりはるか以前の、彼の過去のお話です(全てを話しているかどうかは不明ですけどね)

次章も引き続きお読み下さいますと嬉しいです。

ではまた。

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