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石の剣の王3 集結  作者: 水崎芳
第九章 王宮の黒蘭
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第九章 王宮の黒蘭

第九章 王宮の黒蘭 をお届けします。

最後までお読み下さいますと嬉しいです。

    第九章 王宮の黒蘭


 カナンは愕然とエイデンを振り返った。

「…………これ………どういう事……?」

 問う声は掠れ、震えていた。

「何で………エイデンの名前がここに書いてあるの……?」

 エイデンはすぐには答えなかった。ちらとカナンの顔を一瞥し、痛みを覚えたようにすぐに視線を反らす。

 重苦しい空気が部屋全体に満ちた。わずかに指を動かす事すら憚られるような空気だった。地の水晶のように透明な硝子の天窓から射し込む儚い月明りが、黒衣の男の髪と肩に冷たく静かに降り積もっていく。

「……………これは私だ」

 長い沈黙の後、ようやくエイデンは重い口を開いた。

「この肖像画は、七十年前の私の姿を描いたものだ」

「でも………」

 あり得ない、と言わんばかりにカナンは声を震わせた。

「それじゃあ………何であなたは年を取ってないの?」

「私は、君たちとは時間の流れ方が異なるのだ」

 時間の流れ方が異なる?

 カナンはエイデンの言葉の意味を理解しようと懸命に頭をフル回転させた。

「えっと……それじゃあ………もしかしてエイデンは〈天の民〉なの? エルレイさんと同じ? だから七十年前と同じ姿を………」

「違う」

 短く、きっぱりとした否定の言葉が返ってくる。

 エイデンはエルレイの肖像画の方へと視線をやった。

「エルレイはあまり私には近づきたがらなかった。〈天の民〉としての………ハランとしての本能が彼にそうさせていたのだろう」

「じゃあ………」

 カナンはごくりと唾を飲み込んだ。

 〈地の民〉よりはるかに寿命が長い〈天の民〉でもなく、尚且つ穢れに耐性のない〈天の民〉であるエルレイが側に近づきたがらなかったという事は………

 恐ろしい考えが脳裏をよぎった。

 カナンは顔から血の気が引くのを感じた。自分では見る事が出来ないからわからなかったが、きっと今の自分は恐ろしい幽鬼でも見たような表情をしているに違いない。数歩、後ろによろめく。背中がテーブルにぶつかり、その拍子にテーブルに置かれたままだった燭台が揺れ、灯火が描き出すカナンとエイデンの影がぐらりと不気味に蠢いた。

 口にするのも恐ろしい言葉を、カナンは喉の奥から絞り出した。

「………まさか………エイデンは………アニガン卿と同じ死者………」

「それも違う」

 エイデンは言った。

「正確には」

「『正確には』って何? それってどういう意味?」

「そのままの意味だ」

 カナンは体の脇でぎゅっと拳を握り締めた。

「それじゃ答えになってない。意味がわかんないよ」

「それ以上、言い様がない」

「! 何だよそれ!」

 カナンは思わず声を荒げていた。はぐらかし、誤魔化しているとしか思えないエイデンの態度のせいだ。はっきりと答えず、目を反らし、カナンの方を見ようともしない。

 そして同時に、猜疑と恐怖を隠せぬカナンにエイデンが傷ついたような表情をした事への気まずさのせいでもあった。

 何故、自分が罪悪感を抱かなければならない?

 ……と言うか、何故自分はそちらの方により激しく動揺してしまっているのだ? 要領を得ない言葉ばかり並べ、はっきり答えないのはエイデンの方なのに!

 まとわりつく何かを振り払うように、カナンは何度も頭を横に振った。

 歯を食いしばり、エイデンを睨みつける。

 やはりエイデンはカナンの方を見ようとしない。

 これ以上何も答える必要はないとでもいうふうに。

 カナンは、どう言葉をかければ良いかわからないといったふうに困惑した表情で成り行きを見守っていたレクサを振り返った。

「…………すみません」

 今にも泣き出しそうな声になってしまった。

「僕、ちょっと………これ以上ここにいたくありません」

 そう言い残し、カナンは部屋を飛び出した。

         *

 エンプリア離宮の外は真っ暗だった。

 離宮を取り囲む森は気が滅入るような紺滅(こんけし)色に沈み、涼やかだがうるさいほどの虫の声に満ちていた。月は幾重にも枝葉が重なり合う梢に遮られ、どこにあるのかすらわからない。「(イア)」とはこういう様をいうのだろう。

 エンプリア離宮が完全に見えなくなり、かなり走った頃、ようやくカナンは足を止めた。

 深く息を吸い込み、上がった呼吸を整える。

 夜の森の空気は昼間とは正反対に冷たく、湿った土と朽ちた木と強い草の匂いがした。冷たいはずなのに、肺は炎を飲み込んだように熱く、痛かった。

 カナンは自分が走ってきた方角を陰鬱な目で振り返った。

 頭の中がぐしゃぐしゃに混乱して、思わず飛び出してきてしまった。こんな事をしてもどうにもならないし、何も解決しないとわかっているのに。

 わかってはいるが………

 逃げ出したかった。

 あの場所から。

 エイデンから。

 動くものなど何もない、夜の(とばり)に包まれた森の只中に、カナンはたった一人立ち尽くしていた。

 どれくらいそうしていただろうか。まるで森の呼吸音のような虫の声を聴いているうちに、ようやく気分が落ち着いてきた。

 カナンは軽く頭を振った。

 突然、隠し部屋から飛び出してきたカナンに驚いたクラベッタやトロイや他の騎士たちの制止も何もかも全部振り切って出て来てしまった。きっと彼らは一体何事かと思った事だろう。そろそろ戻った方がいいかもしれない。

 どんな顔をしてエイデンと向き合えばいいのかは、わからなかったけれど。

 また彼を罵ってしまいそうで。

 しかし、ずっとここにいても仕方がない。

 ひとつ苦い溜め息を落とし、カナンは踵を返した。エンプリア離宮は多分こっちだったはずと思しき方角へ歩き出す。

 しばらく進んだ頃、重なり合う木々の合間からちらりと微かに光るものが見えた。

「?」

 何となく気になり、カナンはそちらへ向きを変えた。足の下で長い年月をかけて積み重なった枯れ葉がガサガサと湿気を帯びた音を立てる。

 突然、視界が(ひら)けた。

 光っていたのは湖に反射する月明りだった。真っ暗な湖面に、銀粉を固めて形作ったような細い月と星が映っている。まるで夜空が地上に降りてきたかのように。目を凝らすと、数羽の水鳥が水面に浮かんでいるのが見えた。眠っているのか、嘴を背の羽毛に埋めたままピクリとも動かない。水際まで迫る木々が水面に枝葉を垂らし、先端が水に浸かっている。枝が夜風でわずかに揺れるたび、水面に複雑な波紋が散った。

 水を飲みにきていたらしい一頭の鹿が突如現れた人間……カナンに驚いて、弾けるように逃げていった。

 カナンはクラベッタが森の中に人工の湖があると言っていたのを思い出した。

 湖岸へと近づく。

 青臭い水の匂いがした。シエル村の周辺に広がる沼の匂いに似ていたが、あそこまで泥臭くはなかった。とても人の手で造られたとは思えない、大きな湖だ。いくつもの離宮ばかりか森や湖まであるなんて、水晶王宮の庭はどれだけ広いのだろう?

 ………その時。

「夜の湖は美しい。そう思わぬか?」

「!?」

 ふいに耳元で囁かれ、カナンはぎょっとして振り返った。

 その拍子に踵が木の根に引っ掛かり、派手に尻餅をつく。

 すっぽりとフードを目深に被った、黒いマント姿の人物が立っていた。

 いつの間に側に来ていたのだろうか? 草を踏む足音も、気配も全くしなかった。まるで人の形をした影のように。

 尻餅をついたまま茫然と見上げるカナンに向かって、黒マントの人物はス…ッと手を差し伸べた。掴まれという意味らしい。差し伸べられた手は白く細く、長く伸ばした爪は赤く染められていて、フードで顔は見えないが相手が女だとわかる。手首に嵌めた黄金の腕輪が月光を反射して仄かに光っていた。

 恐る恐るカナンが差し伸べられた手を取ると、その細くたおやかな手からは想像出来ないほどの力で一気に引き起こされた。

「驚かせてしまったようですね」

 笑みを含んだ声音でそう言いながら、女は被っていたフードを取った。

「!」

 濡れたようにしっとりとした薄い月明りの下、露わになった女のあまりの美貌にカナンは言葉を失った。

 妖しく謎めいた輝きを秘めた緑玉(エメラルド)色の瞳。うっすらと微笑を刻む蠱惑的な赤い唇。内側から発光しているかのような、(すべ)らかな白磁色の肌。金と虹玉(オパール)の櫛を挿した美しい黒髪が彼女の肌の白さを一層際立たせている。額と頬にかかる後れ毛すらもなまめかしい。孔雀石の玉を連ねた長い耳飾りが白い鎖骨の上で妖しく光っている。その姿は、まるで夜霧漂う深い森の中、一条の月光を浴びて咲く黒い蘭のよう。

 マリエルとは全く異なる、魂を絡め捕られてしまうかのような妖艶な美貌だ。

 恐ろしいとさえ感じてしまうほどに。

「…………貴女は………」

 カナンは、動揺のあまりうわずり掠れた声をなんとか喉の奥から絞り出した。

「貴女はどなたですか? どうしてここに………?」

「どうしてここに? 面白い事を聞く」

 女は軽やかに笑った。

 その笑い声は銀の鈴の音のように涼やかでありながら、常に他人にかしずかれる事に慣れた者特有の驕慢さを含んでいた。

「そう問われるべきは、むしろそなたの方なのではないか?」

「! それは………」

 カナンはぐっと言葉に詰まった。彼女の言う通りだったからだ。聖王が住まう王宮の庭など、本来カナンのような身分の者がうろついて良い場所ではない。怪しまれ、不審者扱いされても仕方がない。

 返事に困っているカナンを見て、女は少し口調を和らげた。

「少し意地悪な言い方でした。そんな顔をしなくても良い。レクサ王女に招かれたのであろう?」

「! どうしてそれを………」

 会った時間や迎えの馬車の様子から、レクサがカナンとエイデンを王宮へ呼んだ事を内密にしていたのは明らかだ。

 それなのに………

 何故、この人はその事を知っているのだろう? もしかして、レクサ王女に近しい………彼女に仕える女官の一人なのだろうか?

 しかし、カナンには彼女がクラベッタと同じ女官には見えなかった。女官にしてはあまりにも妖艶すぎるし、身に付けている宝飾品もはるかに豪華で煌びやかだ。

 女はもう一度湖を見やった。黒髪に縁取られた彼女の横顔は、目を離す事が出来ない………許されないほどの魔的な美しさがあった。

「夜は美しい」

 うっとりと見惚れるような口調で、彼女は言った。

「騒がしい愚か者たちは皆眠りにつき、荘厳なる沈黙に包まれる。まるで全ての厭わしい争い事が世界から消え失せたかのように。わたくしはこの静寂の世界が愛おしくて堪らぬ。永遠に続けばよいのに。………そなたもそう思わぬか?」

 女の問いに、カナンは思案するように足元の草むらに視線を彷徨わせた。

「僕は………そうですね。僕も、争いのない………戦のない世の中になればいいなと思います。現実にはいろいろ難しいけど」

 現に、今この瞬間も〈地の民〉を滅ぼそうと〈天の民〉が攻めてきている。

 女は微笑んだ。望み通りの答えを得られた、とでもいうふうに。

「わたくしもそのような世界を望んでいる。争いが止んだ、平穏に満ちた世界………静寂に包まれた世界を。そのような世界がもたらされるよう、ずっと手を尽くしてきた。気が遠くなるほど長い間。世の常で邪魔をしてくる者もいたが、成功した事もある。わたくしはそれを誇りに思っています」

 カナンは目をみひらいた。

「成功した? 本当に? どうやって?」

「己が持つ力と地位を最大限に利用して。今、わたくしが水晶王宮(ここ)にいるのも、今の地位を得たのも、全てその為。その為だけ。権力(ちから)があれば思い通りに出来る。望む通りに。今、この王宮でわたくしの意のままにならぬ者など片手の指の数ほども存在しない」

 カナンは眉をひそめた。女の傲慢な物言いに驚いたからだ。

 しかし、同時に、女の言葉は事実なのだろうとも思った。

 そう信じさせるだけの何かを彼女は持っていた。

 カナンはもう一度問うた。

「貴女は誰なんですか?」

 女は吸い込まれるような緑玉(エメラルド)色の瞳で真っすぐカナンの瞳を見つめた。

「わたくしはレディ・プルーデンス=スファワン。やっとそなたに直接会う事が出来て嬉しい限りです、シエルのカナン=カナカレデス」

「!」

 カナンはこれ以上開けられないくらい大きく目をみはった。

 ()()レディ・プルーデンス=スファワン?

 〈黒蘭の君〉と呼ばれる、聖王の寵愛を一身に受ける妾妃(アドアディナ)の?

 そんな高貴な身分の貴婦人(レディ)が、供も連れずたった一人で、何故こんな夜中にこんな場所に?

 それに………どうして僕の名前を知っているのか?

 混乱するカナンの様子を面白そうに眺めながら、プルーデンスは続けた。

「そなたの事はよく知っている。七賢者ワクトー=ベルーの孫である事。〈天の民〉のハランのように、水晶が奏でる歌を聴く事。………そして、今はエイデン=イグリットと行動を共にしている事も」

 エイデンの名を口にした時、彼女の声に濁った血のような負の感情が混じった気がした。

 美しい緑玉エメラルド色の|瞳にも。

「これまで多くの困難に見舞われた事も知っています。プレストウィック国では雇い主の薬屋の主人によって役人に密告され、ガラハイド国では〈天の民〉との戦に巻き込まれた。しかし、そなたは槍騎兵と空中砦を文字通り跡形もなく殲滅し、ガラハイド国と領民を救った。そなたの助力を得られたクレメンツ公は運が良い。そうそう、ディアドラ系譜図書館では災難でしたね。あの厄介なナタリア・ピッパに目を付けられてしまって。半殺しの目に遭ったと聞いたが、手足も首も刎ねられずに済んで何よりです」

「そんな事まで………」

 知っているなんて。

 見ず知らずの赤の他人……のはず……のプルーデンスがこうまで詳細に自分の事を知っているという事実に、カナンは戦慄した。

 身ぐるみ剝がされたような気分だった。

 動揺するカナンに、プルーデンスは少し小馬鹿にしたように片眉を引き上げた。

「そなたは自分がどれほど貴重な、価値ある存在であるか自覚がなさすぎる。ナタリア・ピッパのように、そなたを狙う者がまた現れぬとも限らぬというのに。現に、主だった領主たちは皆躍起になってガラハイド国攻防戦の仔細を調べている。すでにそなたの存在を嗅ぎつけた者もいよう。わたくしに言わせれば、そなたは無防備すぎる。見ていて腹立たしいほどに。そなたはもっと身辺に注意すべきです。真に味方である者を見極め、正しい選択をなさい。でなければ、そなたを待っているのは裏切りと死、そして破滅です」

 カナンはきゅっと唇を噛んだ。

「…………僕は………」

「少々怖がらせ過ぎてしまったか? 可愛らしいこと」

 と、言いながら、プルーデンスがさらにカナンに近づいてきた。

 反射的にカナンは後退(あとずさ)ろうとしたが、足が凍りついてしまって動けなかった。きっと顔も強張り引き攣っているに違いない。

 そんなカナンの様子になどまるで頓着しないかのように、プルーデンスはカナンの頬から顎へスーッと赤い爪を滑らせた。次に、美しい白蛇のように、彼女の手がカナンの首筋から胸元を撫でていく。その仕種はまるで愛しい恋人に触れているようでもあり、捕らえた獲物を(なぶ)る肉食獣のそれのようでもあった。あり得ないほど間近な距離で、ぞくぞくするような魅惑的な瞳が見つめてくる。聖王ウィーアードの寵愛を欲しいままにしている妾妃(アドアディナ)からは、甘く瑞々しい花の香りがした。

 カナンはふと眉をひそめた。

 この香り………以前にも嗅いだ事があるような………

 どこでだったろう?

 一瞬、気がそれたカナンの隙をつくかのように、カナンの頬に唇が触れるほどの距離でプルーデンスは囁いた。

「そなたが気に入りました、カナン=カナカレデス」

 舌の上でとろける甘美な毒のような、蠱惑的な声だった。

「そなたが望めば、わたくしが何でも叶えてあげましょう。何か困った事が起きた時は、いつでもわたくしのもとへ来るがよい」

 カナンは肌が粟立つのを感じた。

 押しのけたかったが、足と同じく手も麻痺したように動かなかった。

 相手が高貴な身分の女性だからではない。

 恐ろしかったのだ。彼女が。

 彼女がまとう妖艶な冷気が。

 この人に関わってはいけない。

 カナンの本能がそう告げていた。

 一刻も早く彼女から遠ざからなければ、と。

 そう思うのに、彼女から離れる事が出来ない。

 まともに呼吸する事も。

 唐突に、スッとプルーデンスがカナンから離れた。

「カナン!」

 その直後、遠くからカナンを呼ぶ声が聞こえた。

 カナンは声のした方角を振り返った。

 声の主はトロイだった。カナンの姿に気付いたらしく、真っすぐこちらへ向かってくる。

「こんな所にいたのか」

 カナンの傍らまでやって来たトロイは、安堵と微かな非難が入り混じった口調で言った。

「探したぞ。夜、王宮の敷地内を一人で出歩くのは勧めない。特に、この森は迷いやすいのだから………どうした?」

 カナンの様子がおかしい事に気付き、トロイは尋ねた。

 カナンは周囲を見回した。

「いえ、その……今までここに………」

 プルーデンスの姿は消えていた。

 夜の闇に溶けたかのように。

 あれは夢だったのかと思えるほど、完全に。

 現れた時と同様、忽然と。

「大丈夫か?」

 心配げに問うトロイに、カナンは何度か軽く頭を横に振った。

「いえ………何でもありません」

「………そうか。それならいいが」

 まだ納得してはいなかったかもしれないが、トロイはそれ以上問いを重ねる事はしなかった。

 彼は半歩足を引き、やって来た方角を示した。

「君を探してくるよう、レクサ王女に命じられた。てっきりイグリット殿が探しに行くと思ったのだが………」

 エイデンが探しに行かなかった事が意外だと言わんばかりの口調だった。

 しかし、カナンは内心ほっとしていた。

 今、エイデンと顔を合わせるのは気まず過ぎる。

 困惑を隠せぬ表情と口調でトロイは続けた。

「帰りは私が君をガラハイド国領主邸まで送る事になった。これもレクサ王女の命だ。イグリット殿はもう先に一人で帰ってしまったよ」

「そう………ですか」

 カナンは呟いた。

 顔を合わせるのが気まずいのは、エイデンも同じか。

 帰りの馬車の中でまたカナンに問い詰められるのが嫌だったのかもしれない。

「彼と何かあったのか?」

 トロイが聞いてきた。

 カナンは言葉を濁した。

「ええ………まあ」

「喧嘩でもしたか?」

 カナンは弱々しく微笑んだ。

「そんなところです。………すみません。僕なんかを送る羽目になってしまって」

 恐縮するカナンの顔を、トロイはじっと凝視した。

「君は謙虚だな、カナン。良い素質ではあるが、度を超すと弊害が出る場合もあるぞ」

「え?」

 首をかしげたカナンに、トロイは柔和な笑みと共にまるで我が子を諭すような口調で言った。

「君は自分を過小評価し過ぎているという意味だ。もっと自分に自信を持ちなさい。ガラハイド国領主邸へレディ・マリエルの見舞いに行った時、君は薬師として実に優秀だとあそこの騎士たちが口を揃えて君の事を褒めていたぞ。領主邸の使用人たちからもずいぶんと頼りにされているそうじゃないか」

 カナンは鳩のように何度かまばたきした。

「そうなんですか?」

 トロイは苦笑した。

「ああ。嘘など言ってもしようがなかろう。………さあ、エンプリアへ戻ろうか」

「はい」

 カナンとトロイは歩き出した。正確には、トロイの斜め後ろをカナンがついて行ったのだが。夜の闇が滲んだように、純白のはずのトロイの制服が仄青い。間近で見るトロイの背中は思ったより幅広く、引き締まっていて、日頃から鍛錬を怠っていないのだろうと容易に想像出来た。数回会っただけだが、トロイは性格も実に誠実で、品格があり、礼儀正しい紳士的な男だ。身分や地位を鼻にかけたところは微塵もなく、平民のカナンにもこうやって丁寧に接してくれる。

 初対面の時は生真面目で堅苦しそうな人だなと思ったが、藍玉(アクアマリン)色の瞳は常に穏やかで、柔和だ。物静かな佇まいがクレメンツに少し似ている。クレメンツがあと二、三十才ほど年を取ったら、きっと彼のような風貌になるのだろう。

 すごくいい人みたいなのに、どうしてマリエルは彼との結婚から逃げ出してしまったのか。

 トロイの背中を眺めて歩きながら、カナンはそう思った。

 年令差や叔母夫婦の邪な企みの事もあったし、当時のマリエルは彼の為人(ひととなり)など知らなかったろうから無理もないが………何とも勿体ない。

 他人事ではあるが、カナンはそんなふうに思ってしまうのだ。

 だが、今のマリエルはクレメンツから公妃にと望まれている。あの二人はお似合いだと、カナンも思う。それまで強固に反対していたクレメンツの姉の宰相グラディア公女も、大叔父の騎士団長ハイン卿も、ガラハイド国攻防戦の後は二人の婚姻に賛成に転じたという。

 ガラハイド国の領民全てが、二人が結ばれて欲しいと願っている。

 それに………

 多分、マリエルもクレメンツに好意を抱いている。

 何故かマリエルは態度をはっきりさせぬままカナンたちと共にガラハイド国を発ったが、この旅が終わったら、彼女はクレメンツの求婚に応じるのだろうか?

 あの誠実で勇敢な良き領主であるクレメンツの為にも、そしてマリエル自身の幸せの為にも、そうであって欲しいものだ。

         *

「何故、そなたは出て来なかった?」

 去っていくカナンとトロイの後姿を見送りながら、プルーデンスは背後の森に向かって尋ねた。

「私は姿を見せぬ方がよろしいかと思ったのです」

 木々の影から音もなく姿を現わしたアニガンは、おどけた口調と仕草で答えた。

「残念ながら私はカナンに怖がられているので。まるで片思いに恋焦がれる乙女の気分ですよ」

 プルーデンスは愉快げに笑った。

「相変わらずふざけた男だこと」

 アニガンはカナンとトロイが去った方角に視線を向けた。

 二人の姿はすでになく、あるのはべったりとした夜の闇に沈む森だけだった。頭上を小さな影が掠めたが、こんな深夜に小鳥が飛んでいるはずがないので、影の正体はおそらくコウモリだろう。今は夜に棲まうものたちの時間だ。

「カナンはイグリットと諍いを起こしたようですね」

 プルーデンスと同じく、闇に紛れてカナンとトロイの会話を聞いていたアニガンが言った。

 プルーデンスは蠱惑的な赤い唇に嘲りの笑みを閃かせた。

「いずれそうなる事はわかっていた。エイデン=イグリットは常に身近にいる者を失望させ、裏切る。親しければ親しいほど。あの男の習性のようなものだ。そうして、まるで自分の方が深く傷つけられたような顔をする。彼らが何を巡って対立したのかは知らぬが、あの男がどのような態度であったのかはわかる。目に浮かぶようじゃ」

 プルーデンスは目を伏せた。

「…………本当に、なんと卑劣な男であることか」

「イグリットにそんな真似をされては、カナンとしてはさぞいたたまれなくなった事でしょう。イグリットから離れたいと思うかもしれません」

「そもそもあの男はカナンには相応しくなかったのだ。ワクトーは大事な孫を託す相手を間違えた。老いぼれすぎて耄碌したとみえる」

「ずいぶんと手厳しい」

 アニガンは苦笑したが、すぐに不安と心配の滲む表情になった。

「しかし、イグリットがこれほど早く王宮に入り込んでくるとは思いませんでした。どうかくれぐれもお気を付け下さいますよう。僭越ながら、身辺の警護を強化なさった方がよろしいのでは?」

「構わぬ。あの男の行動なぞ想定内じゃ。(まみ)えてみるのも一興やもしれぬ」

「お戯れを………」

「それに、あの男にはぜひ問うてみたい事もある。心配は無用じゃ。そなたは、ただそなたのやるべき事をすればよい。わたくしの為ならば何でもするのであろう?」

 アニガンは非の打ち所のない完璧な所作で深く一礼した。

「御意。必ずやレディのご期待にお応え致します。この身と魂は御身の為だけに存在しております」

 それから、アニガンは頭を上げると、エンプリア離宮の方角に嘲りに満ちた眼差しを向けた。

「…………それにしても、お行儀が良いだけの小娘かと侮っておりましたが、レクサ王女はなかなかしぶといですね。頼りにしていたナサニエル公が失脚してしまい、おとなしくなるかと思いきや、凝りもせずこそこそと動き回っている。ユンドラ公らナサニエル公派の貴族や王宮の廷臣、母カサンタル王妃の実家オルトー家にまで使者を送り、何とかして自分の味方を増やそうと涙ぐましい努力をしている。…………まあ、貴女には全て筒抜けですが」

 アニガンは、かつて兄弟姉妹の中で尤も美しいと称賛された端正な顔を忌々しげに歪めた。

「今宵、レクサ王女がカナンとイグリットを王宮に呼びつけたのもそれが理由では? 彼らを通じてガラハイド国を………クレメンツ公とレディ・マリエルを味方に引き入れる腹積もりなのでしょう。それとも、カナンがガラハイド国攻防戦で見せたあの強大な力の事を知り、我が物にしようと目論んでいる可能性もあり得ます」

「さて、どうであろうかの」

 懸念と苛立ちを見せるアニガンに、プルーデンスは余裕に満ちた表情で愉快げに(うそぶ)いた。

「最も強力な()()を失い、なりふり構っておられぬのであろう。貴族の中で公然とわたくしに対抗しておったのはナサニエル公だけであったからの。彼の背後に隠れながらうるさく(さえず)っていた小心者たちも、併せて黙らせる事が出来た」

「ナサニエル公は愚か者です。一介の領主ごときが貴女に敵うはずがないというのに」

 プルーデンスは優れた策略家だ。

 彼女は洞察力に優れ、あらゆる事象を見通し、見抜き、見逃さない。

 あらゆる場所に彼女の目となり耳となる者がいる。

 そして、美しい糸で罠を張り巡らせる蜘蛛のように、プルーデンスは巧みに人心を搦めとる。老若男女を問わず。ワゼルダイン国の第一公子オルティスが良い例だ。世継ぎの公子という立場でありながら、婚約者を国に放ったらかして聖王の愛妾にべったり貼りついているオルティスは、世間のいい笑いものだった。プルーデンスに心酔するあまり夫婦生活が破綻した貴婦人もいる。ナサニエルのような強靭な精神の持ち主でもない限り、〈黒蘭の君〉の魅力には抗えない。

 あのウィーアードも、プルーデンスが現れるまではあそこまで愚かな王ではなかった。凡庸で気まぐれだったが、ワーテワンのような優秀な臣を重用するだけの頭はあったし、地味ながらもそこそこ堅実な治政を敷いていた。〈勝利王〉オニールのようなカリスマ性も人気もなかったが、今のように嘲られ嫌われてもいなかった。

 しかし、最愛の王子(むすこ)を亡くし心が弱っていたところに巧みにつけ入ったとはいえ、プルーデンスはウィーアードをいとも簡単に堕落させた。彼を酒浸りの腑抜けな愚王に変え、何代も前の聖王が王宮と(まつりごと)を乱す悪しき制度として廃止した「妾妃(アドアディナ)」の称号を復活させた。王宮は、プルーデンスの息がかかった廷臣や貴族ばかりとなった。

 わずか三年で。

 そんな主君と王宮の有様を嘆き、反発する貴族や廷臣たちは、レクサの周囲に集まるようになった。

 しかし、ナサニエルの失脚後、その数はぐっと減っている。

 さらに、レクサの忠臣であった隻眼の貴婦人シル=エスター=パサネスティ卿も、レクサの不興を買ってしまったらしい。レクサがプルーデンスの宴に出席した事が原因だ。

 シルが怒りに任せて、

「レクサ様があの宴にご臨席などなさらければ、ナサニエル公が陛下の逆鱗に触れる事もオルデン国領主の座を失う事もなかったのではございませぬか?」

 などとレクサをなじったのだという。

 以来、シルは王宮には全く顔を出していない。自邸で謹慎しているとも、性懲りもなく未だに当主の座を狙うパサネスティ家の親族連中によって実家に追い払われてしまったとも噂されている。

 確かにシルのやった事は臣下として身の程をわきまえぬ浅はかな所業ではあるが、結果的にレクサはナサニエルと並ぶ忠臣を自ら遠ざけてしまったのだ。

 なんと愚かな小娘であることか。

 ナサニエル失脚というあの出来事は、レクサにとって文字通り()()()となった。

 世継ぎの王女でありながら、今やレクサは王宮内で完全に孤立している。

 次の聖王となる者がここまで失墜するなど、一体誰が予想し得たろう?

 しかし、プルーデンスは見事にそれをやってのけた。

 そう、今や「無冠の王妃」とまで呼ばれるプルーデンスは、もはや王妃と……いや、聖王と同等と言っても過言ではないほどの絶大な権力を握っている。彼女に面と向かって歯向かえる者など皆無に等しい。正貴族(サストン)随一の権勢を誇っていたあのナサニエルでさえ、今ではあのざまだ。領主の座を剥奪され、国に帰る事すら許されず、王都の自国の領主邸でほぼ軟禁状態に置かれている。オルデン国領主邸は、ウィーアードの命を受けた近衛騎士団によって厳しく監視されている。

 いずれ、レクサも完全にプルーデンスに膝を屈する事となるだろう。

 プルーデンスがやたらと気にする、あの黒衣の男も。

「例の件はどうなっておる?」

 と、口調と表情を変えプルーデンスがアニガンに問うた。

 「例の件」が何の事を指しているのかすぐに察したアニガンは、片手を胸に当てると優雅に頭を下げた。

「全て滞りなく。数日中に近衛騎士団が動くはずです」

「結構」

 プルーデンスは頷いた。

 自分の掌を見つめながら、彼女は独り言のように続けた。

「……………まこと、人とは簡単に親しい者を裏切る」

 プルーデンスの掌は、まるで誤って炎に触れてしまったかのように真っ赤になっていた。

 彼女はぎゅっと掌を握り締めた。

 ほんのわずかな時間、しかも服の布地越しに触れただけだというのに。

 持ち主(カナン)を護っているつもりか。

 忌々しい水晶の首飾り(アリアンテ)め。

最後までお読み頂きましてありがとうございました。

カナン、プルーデンスに結構なセクハラされてましたが、トラウマにならない事を祈ります。

それにしてもプルーデンスは守備範囲が広いですねぇ。ウィーアードみたいなしなびたじじいからカナンみたいな青少年まで(笑)

怖い怖い。


次章は、カナンとエイデンが真正面から向き合います。

次回も引き続きお読み下さいますと嬉しいです。

ではまた。

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