9
「皆、今日はマラソンだ! 準備体操は各自で行え~」
アラリック先生は生徒達に向かって大きな声でそう言った。彼の声も脳に響く。
……どうして乙女ゲームの世界なのにマラソンなんてものがあるのだろう?
もしかして、これが友達の言っていたイベントかな? という事は、ヒロインと攻略対象の距離が縮まるという事だ。勿論、この距離は物理的な距離の事ではない。
「リル、勝負ね!」
ソフィアは腕を伸ばしながら私にそう言った。
私はソフィアを見ながらふと思った、彼女はこのマラソンで怪我をすると。
彼女は足を痛めて動けなくなり、攻略対象の誰かがソフィアを探しに行き、お姫様抱っこでもしてソフィアを救うのだろう。
まぁ、これはただ前世で友達が言っていた事を脳で関連付けて予想したに過ぎない。
それに、イベントのメインになる攻略対象は誰だろう。
「リル? 聞いてる?」
「うん! 聞いてるよぉ! 勝負しよぉ~!」
私はそう言って右拳を空に高く上げた。
マラソンなんだからせめて運動しているように見えるように私は髪を高い位置で一つに括った。
「リル、ポニーテール可愛いね」
「アリが十匹、ありがとぉ~! ちゃんと毛先はくるんってなったままぁ?」
ソフィアの言葉に私は喜びの声を上げて、後ろにある自分の毛先を見ようと頑張る女を演じた。
やはり髪の毛を常に気にしておかなければならない。全力でスポーツをやるような女はぶりっ子ではない。まぁ、これは私のぶりっ子に対する偏見だけど……。
「大丈夫、くるんってなったままだよ」
ソフィアは笑顔で答えてくれる。あまりにも妹思い過ぎて私は少しソフィアを心配になってしまう。
「リルがソフィアとの勝負を本気ですると思うか?」
「するわけないだろう。ソフィアは本気で走るだろうけど」
「だよな……。ソフィアが気の毒だ」
「あいつはきっと歩くだろ」
グラントとウィクリフの会話が私の耳に入ってきた。
……彼らの予想はあながち間違いではない。私は歩きはしないが、本気で走るつもりなんてない。
本気で走ると一体どのくらいの負担が私の足にかかるのだろう……。
走っている時は、確か着地時にかかる力は瞬間的には体重の三から四倍って聞いた事がある。
私の歩幅は大体1メートルぐらいだから……このマラソンって何キロマラソンだっけ?
「このマラソンって何キロなのぉ~?」
「確か三キロだと思うわ」
「えええええ! 長いよぉ~。リル、走れるかなぁ?」
私は目を大きく見開き、大袈裟に驚いてみせた。
「汗だくになるのがそんなに嫌か」
ソフィアの隣にニースがいつの間にか立っていた。どうしてそこに立っているんだろう。
もしかして……このイベントで活躍する攻略対象はニース?
まぁ、そんな事は私には関係ない。今は足にかかる負担を考えたい。
「足を痛める事が不安なのかも……」
「ソフィアはリルに甘すぎる。こいつが本気で三キロも走ると思ってるのか?」
「勿論よ!」
三キロという事は歩数は大体3000歩。足にかかる重さを三倍だと考えて、体重約42キロの私は……頭痛が段々酷くなってきているような気がする。頭の回転が遅い。えっと……42×3×3000は37800キログラム……つまり378トン。……人間って凄いな。こんな足にこんな負担がかかるのに耐えれるのか。
「……今日のこいつと走らない方がいい」
「どうして?」
「リルの顔色が……、じゃなくてリルが本気で走らなかったらソフィアが傷つくだろ」
「大丈夫! リルは本気で走ってくれるよ。約束したもの」
そう思うと、やはり足の仕組みは凄い。足の骨は確か、趾骨が十四本、中足骨が五本、足根骨が七本、そして種子骨を二本で片足二十八本、両足五十六本の骨で構成されている。……全体の骨の四分の一を足だけで占めているのだ。そう考えると本当に人の体は凄い。
「おい」
私はニースの少し荒い声で我に返った。ニースにこんなに睨まれるなんて私は一体何をしたのだろう。
まぁ、ヒロイン好きの皆が悪役令嬢である私に敵意をむき出しにするのは当たり前かな。
「ソフィアを傷つけるな。本気で走れよ。走るのが面倒で、……しんどいならもう走るな」
最後は私に囁くようにしてニースはそう言った。
私にマラソンの参加自体を止めさせたいほどソフィアの事が好きなのか。
まぁ、確かにこれはニースの好感度を上げるイベントなのだろう。私は身を引くべきなのか……。
「だから、私は傷つかないって! リルは本気で走ってくれるんでしょ?」
……ああ、走らないという選択肢が一瞬で消えてしまった。期待に満ちたキラキラとした眼でソフィアは私を見つめる。
「もちろんだよぉう! 今のリルは本気元気やる気~!」
そう言って、私は力持ちのポーズをした。この私を見て、満足気な顔をするなんてやはりヒロインだな。普通はニースみたいに顔をしかめたくなるはず。
「そろそろ始めるぞ~! 最初は女子からだ~」
アラリック先生の声が響き渡った。私達はスタート位置に向かった。
ああ、しんどい。苦しい。走りながら喉で息をしていると喉の痛みが倍増する。
本気で走っていないのにこんなにも疲れるのか。
ソフィアの姿はもう私の視界には映っていない。……速いな。きっと今、私は最下位だろう。走ってはいるけど、前に進んでいる気がしない。
後でソフィアに怒られそうだ。本気で走らなかったでしょ、って言われたら、なんとか上手く誤魔化そう。
……視界が歪む。こんなに頭が痛くなったのは初めてかもしれない。まるで誰かが金槌で私の頭を叩いているみたいだ。
そろそろ体力の限界かもしれない。走っている途中で風邪が悪化したのかもしれない。
また、ニース達に馬鹿だって言われるんだろうな。でも、今回の判断は私が馬鹿だった。風邪なんて放っておけば治ると思っていたのだ。まさか悪化するとは思わなかった。
……少しだけ休憩しよう。私はマラソンのルートから少し外れて、そのまま茂みに倒れ込んだ。




