第5話「波」
警報が鳴ったのは、昼過ぎだった。
いつもの警報とは違う音だった。
防衛区の戦闘開始を告げる通常の警報は、低く長い音が三回続く。それはもう聞き慣れた音で、スラムの住人たちもそれを聞いても特に慌てない。どうせ防衛区の話だ、自分たちには関係ない、とばかりに日常を続ける。
でも今日の警報は違った。
短く鋭い断続音が、途切れずに鳴り続けている。
ソウマは残骸の選別をしていた手を止めた。
その音を聞いたのは、スラムに来て初めてだった。でも意味は知っていた。母親が生きていた頃に、一度だけ聞かされたことがある。
——あの音が鳴ったら、すぐに内側に逃げなさい。
防衛ラインが突破された時の警報だ。
ソウマは立ち上がった。
路地に出ると、すでに人が走っていた。老人、子供、怪我をした住人——みんなが内側へ、商業区の方向へ向かって走っている。顔に怯えの色がある。叫んでいる人もいた。
「アビスだ!こっちに来てる!」
「防衛ラインが押された!早く逃げろ!」
「何体来てる!?」
声が飛び交う中、ソウマは逆方向を見た。
廃棄区画の外れ——防衛区との境界に近い方から、黒い影がいくつか動いていた。
まだ遠い。
でも確実に、こちらへ向かっている。
「ソウマ!」
背後から声がした。振り返るとルドルフが走ってきていた。息を切らして、それでも足を止めずに声を張り上げる。
「逃げろ!早く内側へ——」
「ルドルフさん、足は」
「動く!心配するな!」
ルドルフの右足は古い怪我がある。走れないわけじゃないが、長くは続かない。ソウマはルドルフの腕を掴んで、内側の方向へ引っ張り始めた。
「離せ、お前が先に——」
「一緒に行きます」
「馬鹿、足手まといに——」
「黙って走ってください」
ルドルフが黙った。
二人で路地を走る。足元に瓦礫が転がっていて、何度か躓きそうになった。ルドルフの息が上がっていくのが分かる。ソウマは速度を落とさずに、腕を引き続けた。
路地の曲がり角を抜けた瞬間——前方に人の波が詰まっているのが見えた。
狭い路地に人が集まりすぎて、動けなくなっていた。老人を抱えた男。小さな子供の手を引いた女性。怪我をして動けない住人。そのせいで流れが止まっている。
「詰まってる」とルドルフが言った。
「見えてます」
後ろを振り返った。
黒い影が、近づいていた。
さっきより明らかに近い。六肢の黒い体が、路地の暗がりの中で動いている。赤い単眼が光っていた。アビス・ポーンだ。数は——三体、いや四体。
「逃げ切れるか」
「無理です」とソウマは言った。
計算は早かった。詰まった人の波が動くまでに時間がかかる。その間にポーンが追いついてくる。全員が逃げ切るのは難しい。
ソウマはルドルフの腕を離した。
「ソウマ——」
「先に行ってください」
「お前は——」
「行ってください」
ルドルフが一瞬、動かなかった。
ソウマは振り返らなかった。
足元を見ると、壊れた鉄パイプが転がっていた。拾い上げる。重さを確認する。悪くない。これなら振れる。
後ろでルドルフの足音が遠ざかっていった。
ポーンが止まった。
四つの赤い単眼が、ソウマを捉えた。
ソウマは鉄パイプを両手で握り直した。
武器としては最低だ。装備もない。アーマーもない。イージスシステムもない。ただの鉄パイプ一本で、アビス・ポーンの前に立っている。
怖くないと言えば嘘になる。
でも腹の底から、奇妙な落ち着きがあった。
やれることをやるだけだ。それ以上でも以下でもない。
ポーンの一体が動いた。
六肢を使って、地を這うように突進してくる。ソウマは横に跳んだ。ポーンが空振る。地面に爪痕が走った。鉄パイプを振り下ろす。ポーンの外皮に当たったが、たいしたダメージにならなかった。硬い。
もう一体が来た。
横から跳びかかってくるのを、ソウマはギリギリで身体を捻って避けた。バランスを崩しながらも倒れない。足元の瓦礫を蹴り飛ばして牽制する。ポーンが一瞬、動きを止めた。
その隙に、前方を確認する。
人の波が、少しずつ動き始めていた。
もう少しだ。
三体目が来る前に、ソウマは走った。
ポーンから距離を取りながら、人の波とポーンの間に立つ。一対三。正面から勝てる相手じゃない。ただ時間さえ稼げれば——。
四体目のポーンが、側面から来た。
見えなかった。
衝撃が走る前に、ソウマの体が動いた。
反射的に腕を上げて、衝撃を受け止める。ポーンの爪がソウマの腕を掠めた。痛みが走る。それでも倒れなかった。
鉄パイプを振り回す。当たった。ポーンが怯む。
「早く!」
後ろで誰かが叫んだ。
振り返ると、人の波が動き始めていた。老人を抱えた男も、子供を引いた女性も、怪我人も——少しずつ、内側へ向かって流れ始めている。
もう少し。
ポーンが三体、同時に動いた。
ソウマは鉄パイプを構えた。
その時——。
空気が、変わった。
ポーンたちが止まった。
見えない力に押しつぶされるように、一斉に動きが鈍る。ポーンの脚が折れるように地に伏した。重力が——変わった?
「そこまでだ」
声がした。
冷たい声だった。
ソウマが振り返ると、白いアーマーを纏った少年が立っていた。
金髪。鋭い目つき。ソウマよりも頭一つ分背が高い。その手がわずかに持ち上がっていて、ポーンたちの方向に向けられていた。
知っている顔だった。
Re:cordで何度も見た顔だ。
「シエル——」
少年はソウマを見た。
一瞥だった。ソウマの全部を一秒で計算したような目だった。
「怪我は」
「……かすり傷です」
「そうか」
シエルはポーンに視線を戻した。重力操作が続いている。ポーンたちはまだ地に伏したまま動けない。
ソウマは鉄パイプを持ったまま、動けなかった。
後ろで、住人たちが逃げていく足音がしていた。




