2-11
ご主人様。
それは男なら誰もが一度は呼ばれたいと思うあこがれの敬称である。
陛下、殿下、君に卿。
世の中にさまざまな敬称あれど、ご主人様ほど思慕に満ち溢れた呼び方は無い。
最大限に尊重されつつ、しかし心の壁を感じない絶妙な距離感。
だからこそ呼ばれたいのだ。
それなのに、それなのに……
「さぁ、早くにゃんに向かってご主人様と言ってみるにゃん」
「ご、ご主人様」
「全然だめにゃん。もっと心をこめてご主人様を敬うにゃん」
俺は敗北感にひざを屈し両手を地面に着いてプリニャンカの前にひれ伏していた。
なぜだ。
なぜこんなことになった。
俺はプリニャンカともっと仲良くなりたかっただけなのに。
もともとご主人と呼んでくれていたくらいだからちょっとだけ、一時的にご主人様って呼んでみて欲しかっただけなんだ。
そんな些細な下心をもって挑んだ料理対決に、俺は見事に敗北した。
大誤算だった。
料理人たちの心をつかんだのはプリニャンカの作った料理だった。
料理と言うかただ単に肉を焼いただけのものだったのに、俺の賢者メシ『季節の野菜盛り合わせエルフの里風ソース仕立て。〜わがまま師匠への哀悼と悪意を添えて〜』が負けるなんて信じられない。
あれは野菜たっぷりで体にいい俺の自信作なのに、カルクトスの料理人は健康意識が低いのだろうか。
「とにかくこれでお前はにゃんの子分にゃん。これからは誠心誠意にゃんのために働くにゃん」
ともかく料理対決に勝利したプリニャンカは俺を前にしてふんぞり返っている。
俺のちょっとしたいたずら心に対して神が下した天罰がこれなのか。
……いいだろう。
たとえ自業自得でもそのまま突き進むのがパルメディア派のゆく道である。
覚悟を決めた俺は立ち上がりプリニャンカをエスコートする。
「ではご主人様。こちらへどうぞ」
「どこに行くにゃん?」
「俺はこの戦いでカルクトス軍の軍師を任されています。もうすぐ開戦するので指揮官殿のところに戻らないといけません。ご主人様もいっしょに来てください」
「行ってもいいにゃん?」
「もちろん。俺のご主人様ですから」
「にゃはー。そういうことなら苦しゅうないにゃん。指揮官っていう奴に会ってやるにゃん」
プリニャンカもさっそくご主人様という立場にノリノリだ。
こんな状態のプリニャンカを連れて戻ったらレーンや指揮官がどんな顔をするのかある意味楽しみではある。
「ちょっと。二人とも、その格好で戻るつもり?」
『ささ、こちらです』、とプリニャンカをエスコートしようとするとクーネリアから待ったがかかった。
どうやら俺たち二人に呆れているようだ。
表情ではなく肩がそう言っている。
肩が。
「何だ。俺たちがどうかしたか?」
「どうしたもないわよ。自分たちの服を見てみたら?」
「服?」
言われて視線を下げるといつの間にか俺の服は汚れていた。
料理を作っている最中にソースやら何やら付着してしまったらしい。
同様にプリニャンカも同じような有り様だ。
何ぶん急いで調理したのが祟ったらしい。
「まぁ、何だ。どうせこれから戦いだし、今から汚れなんて気にしてても仕方がないだろう?」
「汚れって言っても食べ物の汚れなら話は別よ。そんな戦いの前に腹ごしらえしてきました、みたいな格好で戻ったら恥かくのはあたしとレーンなんだから」
「む……」
たしかにそれはまずいかもしれない。
今の俺は勇者レーン・レイ・ソードワースの補佐役。
その俺が命がけの戦いに挑もうとしている味方を差し置いてつまみ食いしていた、と誤解されてしまったらレーンに迷惑がかかってしまう。
やはり戻る前に身なりを整えておかなければいけないかもしれない。
「とは言え着替えの入った荷物は預けてしまったし、魔術を使って汚れを落とすにしてもここだと、な。せめてもっと大量の水があるところじゃないと……」
ここにも水の入った樽はあるが、それはあくまでも料理に使うために用意されたものだ。
それにこんなところで魔術を使えばそれはそれで迷惑になる。
どこか近くに水場があればいいのだが。
「ならちょうどいい池がすぐ近くにあるにゃん。そこで洗えばいいにゃん」
池か。
なるほど、それならたしかに都合がいい。
「すぐ行きましょう。ご主人様。案内してもらえますか?」
「任せるにゃん。ついて来るにゃん」
そうして汚れた衣服を洗うべく、俺たちは調理場をあとにしたのだった。




