第七十三話 窮鼠猫を噛む
夕暮れの光が廊下の窓から差し込み、長い影を床に落としていた。
アレスは少し疲れた足取りで、自室の扉を開ける。
「ただいま……」
扉の向こうは、いつもの生活の匂いがする空間だった。
部屋は広くはないが、やはりプライベートな場所は落ち着く。
エリスは幻惑擬態を解き、本来の、アレスとの半々の姿に戻る。
ふたりはそのまま壁掛けの魔法陣を潜り抜け、隣の部屋に移動した。
ソファの上には、アーテーが魔導書を読みながら、人型のマケがお菓子をほおばりながらそれぞれ座っていた。
彼女たちはアレスらの姿を目にするなり立ち上がり、挨拶を交わす。
「おかえりなさい、エリス様、アレスどの。……なんか、お疲れですね」
アーテーの声は柔らかく、部屋の空気を少し明るくする。
「主様の魔力が途切れた時間があったにゃ。ただの訓練だけで、そんなお顔になるはずがないにゃ。詳しくお話してほしいにゃ」
マケはアレスとエリスに近づくとその場に座り、心配そうな顔をして見上げてくる。
すると、エリスは揺れる尾を垂れ下げながら、話を切り出した。
「ふぅ……疲れたわい……実はな、島の遺跡でオルクスと戦ったのじゃ」
アーテーの表情が一気に変わる。
「えっ……死神!? 本当ですか……?」
エリスが頷く。
「うむ。あれはユピテルの配下じゃったから、おおかたユノーが旦那に頼んだ……といったところじゃろう」
マケは眉をひそめる。
「卑怯な手は十八番……どうやって倒したにゃ?」
アレスは少し視線を落とし、静かに答えた。
「……アリスが戦ってくれた。あとはスコルピアの時みたいに亜空間で」
アーテーは目を細める。
「では、睡眠効果でみなさんの記憶を……巻き込まないためとはいえ……」
エリスは複雑な気分になり、本音を口にする。
「そうじゃ。わらわとアレスの魔力が重なり、独自の境界魔法として具現化した。この力がわらわの弱体化を補ったのじゃ。アリスがいなければ、あわよくば勝てなかったもしれんな」
アレスは苦笑する。
「……死神の本質を断つには、生と魔の境界が必要だった、とか概念的なのも程があるよ」
「でもアリス様が……全部救ってくれたにゃ!」
マケのかけてくれた言葉に、アレスもエリスも逆に救われるのであった。
一方でアーテーが表情を引き締める。
「ところで……それとは別に、暴走結晶の件、関係してると思いますか?」
エリスも頷く。
「王都の周辺が不安定になってきておる。魔族の干渉は間違いないじゃろうが……死神の奴は関わってなかったようじゃ」
マケは首を傾け、やや考え込みながら喋る。
「にゃぁ……絶対偶然じゃないにゃ」
アレスは机に手を置き、真剣な表情で言った。
「……何か焦りも感じるんだよね、魔族の。一気に攻めてくるわけでもないし、エリスさんと僕への刺客も単発的で、大戦力で叩くというよりも、明らかに暗殺狙ってるし。別の目的があるから、そこまで戦力を割けないのかな?」
アーテーが首をかしげる。
「別の目的……?」
「うん。そもそも、30年前の戦いも目的があったんでしょ? でも話を聞いた限りだと、先代魔王の跡を継いだエリスさんですら、目的を知らないみたいだし……」
エリスが話を続ける。
「うむ。侵略や占領というのは、エネルギーやら人員やらを浪費する金喰い虫での。魔界内ならともかく、転移が必要な人間界まで出しゃばるにはリスクが高すぎるのじゃ。遠い異界では速達性に欠けるゆえ、例えば謀反への対処が遅れるし、自分が異界に出向いては逆に本拠が手薄になる。本来、魔王が城に構えたまま動かんのは、下剋上対策もあるのじゃ。だが、先代は人間界まで出向き、討伐された」
マケは静かに呟く。
「……だから主様が魔王になれたにゃ」
アーテも頷き、見解を述べる。
「エリス様はそれがわかっていたからこそ、人間界で全滅した魔王軍への援軍を断ち、国内安定を優先させたんですよね。敗戦処理でいろいろ苦労させられましたけれど」
エリスがその当時を思い出しながら言う。
「おかげでようやく国力も戻ってきたんじゃがのう。ユピテルの奴め、いったい何を企んでおる??」
アーテーが腕を組む。
「それに……ユノーの件もありますよね。刺客を三回送って全部失敗。しかも今回は人質作戦をとったに……結局失敗した」
アレスは冷静に分析する。
「ユノーは焦っているんじゃないかな? ユピテルの奥さんで魔王軍の中でも高い地位だけど、ミスばっかりじゃ影響力も落ちるよね? もしかしたら、次は直接、ユノー本人が何か仕掛けてくる可能性もあるし!」
エリスは鼻で笑いつつ、気は緩めるどころか逆に引き締める。
「ふん。あやつはもう後がないじゃろう。じゃが、追い詰められた者ほど、何をしでかすかわからぬ。むしろ、警戒を強めねばならんのはこれからじゃ」
マケは静かに言った。
「ユノーは……何を仕出かすつもりかにゃ……?」
エリスはアレス側の肩に手を置く。
「アレスよ。これからが正念場じゃ。鍛錬の精度を上げるぞ」
「うん。みんなを守るために!」




