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北塔の窓から放り出された体は、夜の風を切り裂き、空の闇へと叩きつけられた。冷たい風が肺の空気を奪い、意識を削ろうとするが、リュカの強靭な腕が私を離さない。
リュカ曰く、ラペリングで崖下へ降下するのは、私にとって、かなりの恐怖だった。でも、いま私は、リュカを心から信じていた。
無事岩場に降り立ち、恐怖で震える体で岸辺の深い森へと、リュカと一緒に逃げ込んだ。
背後からは、幾十もの松明の火が崖上を埋め尽くし、怒号が響いている。
「……リリアーナ様、休んでいる暇はありません」
リュカが周囲を警戒しながら、懐から小さな革袋を取り出した。中には、どろりとした、鼻を突くような悪臭を放つ泥状の塊が入っている。
「エドワードは、私兵だけでなく『オルトロス』まで放ったようだ。二つの頭を持つあの猟犬は、標的の魔力と……その肌の香りを、地獄の果てまで追い続ける」
リュカの声は冷徹だ。彼はその泥のようなものを、迷いなく自分の顔や首筋、逞しい腕へと塗りたくっていく。
「奴らの鼻を欺くには、これが一番だ。……焦げたラズベリーのような、我々の魔法の香りを消す事ができる。……これを塗れば、あなたは公爵家の至宝ではなく、ただの腐った土の塊になる」
差し出された錬金の泥。それは、かつて手入れを放棄され、腐った落ち葉と泥が混ざり合った、私邸の裏庭にある池のような……鼻が曲がるほどの腐敗臭を放っていた。
数日前までの私なら、悲鳴を上げて逃げ出しただろう。
けれど、私は震える指でその泥を掬い上げた。
「…………私はもう、あの牢獄には絶対に戻りたくない」
覚悟を決めて、頬に泥を塗りつける。冷たい泥に一瞬ヒヤッとする。しかし躊躇わずに、首筋、鎖骨、そして丹念に整えられていた艶やかな髪にも。爪の間に土が入り込み、皮膚が少しひりつく。
エドワード様が「不潔だ」と切り捨て、排除しようとした世界の断片。それを自ら纏うことで、私は彼との決別を誓った。
「……いい覚悟だ。リリアーナ様。さあ、行きましょう。しかし静かに、ここには先客がいる」
リュカは私の手を掴んだ。その手は泥だらけで、けれど驚くほど温かかった。
森の深部へ進むにつれ、空気は重く、湿り気を帯びていく。
『――キャァァァァァーーーー!!!!』
突如、闇の向こうから、身の毛もよだつような叫びが上がった。喉を引き裂くような女性の悲鳴だった。
私は思わず足を止めたが、リュカは私の手を強く引き、前へと突き進む。
「……立ち止まってはいけない。足元や、私の背だけを見ていて進んで下さい」
恐怖とパニックで私は振り返った。
遠く、追いかけてきていた私兵たちの悲鳴が聞こえた。
彼らは鍛えられた兵士であっても、この「生きた地獄」のような森の洗礼には耐えられなかったのかもしれない。松明の火が次々と消え、追跡の足音が遠ざかっていくのを感じた。
エドワード様の統率された「部隊」は、この混沌とした野生の前では無力のようだった。或いは……賢い。
「あっ!?……」
地面に這う木の根に足を取られ、何度も転びそうになる。
視界はほとんどない。泥と涙と汗が混ざり合い、目を開けることさえ苦しい。
けれど、繋がれた手だけは、決して離れなかった。
リュカは何も言わない。「大丈夫ですか」とも「頑張れ」とも。
けれど決して手を離さず、無言で私の歩調をギリギリのところで支え、前へ、前へと導いてくれる。
その沈黙が、今の私には何よりも安心できた。
私を「守るべき人形」として扱うのではなく、共にこの泥濘を這い進む「仲間」として扱ってくれている。
しばらくして……。
どのくらい歩いただろうか。
背後の追っ手の声は完全に消え、聞こえるのは不気味な魔物の遠吠えと、私たちの荒い息遣いだけになった。
「……ここまで来れば、もう追ってこられない。スケイルが盾の代わりになるでしょう」
リュカが立ち止まり、ようやく私の手を緩めた。
私はその場にへたり込み、泥だらけの顔を上げて、わずかに白み始めた空を見上げた。
朝靄の向こう。
公爵邸の黄金の屋根は、もう見えない。
代わりに広がっていたのは、険しく、けれど果てしなく続く、名前も分からぬ山並みだった。
「……リュカ。私……、本当に逃げ出せたのね」
泥だらけの手を見つめ、私は小さく笑った。
空腹で、全身が痛くて、ひどい臭いがする。
けれど――。
……お腹いっぱいだった愛の代わりに、これからは自分ですべてを探さなきゃならない。でもどこか清々しかった。
リュカが、わずかに口角を上げて笑う。
「リリアーナ様。まだここはゴールではありませんよ。さあ」
私はその顔を見て、初めて心の底から深い呼吸をした。そして、リュカの差し出した手を取る。
けれど、背後のどこかで、エドワードがじっと、私達を見ているような気がした……。
山へ向かい、先に進み始めた傍ら。
「ねえ、リュカ。弟の事が……心配で」
「もちろん、分かっています。ですが、心配はいりません。既に手は打ってあります。それも信頼できる者に。これからサンストベルクへ向かいましょう」
「ありがとう、リュカ」
────
森の入り口で立ち止まる、一人の男の影があった。
泥にまみれた「黄金の鳥」の羽が一枚、エドワードの手の中に落ちていた。
「閣下、申し訳ありません。スケイルがこの森に来ているとは……。兵の再武装後、森へ追撃部隊を……」
「構わない。引き揚げさせろ。」
「……畏まりました。」
……逃げれば逃げるほど、追い詰める楽しみが増えるというものだ。……なあ、リリアーナ。君がその泥を洗い流したくなる瞬間を、私は特等席で、いつまでも待っているさ。
エドワードの瞳は、朝日を浴びて、狂気を含んだ美しさで輝いていた。




