2
部屋を支配したのは、耳が痛くなるほどの静寂だった。
背後に控える騎士たちの気配さえ、恐怖に凍りついたかのように消え失せている。
エドワード様は、手にしていたワイングラスをゆっくりとテーブルに置いた。カチリ、という微かな音が、まるで死刑宣告の合図のように響く。
「……お腹、いっぱい?」
彼は私の言葉を、未知の言語を解読するかのように、一文字ずつ反芻した。その顔から笑みが消え、無機質な美貌が露わになる。
「リリアーナ。冗談にしては、少しばかり悪趣味だね。私が君のためにどれほどの心血を注いできたか、君が一番よく知っているはずだ」
「冗談ではありません。……本心です」
私は震える拳を膝の上で握りしめた。一度口にしてしまえば、止まっていた時間が濁流のように流れ出す。
「あなたが私に贈るドレスも、宝石も、この贅沢な食事も……。私には、すべて喉を詰まらせるための綿菓子のように感じられます。その……ふわふわとしていて、甘くて、けれど形がなくて、呼吸を奪っていく。……もう、私は……私はこれ以上飲み込めないんです……」
エドワード様は立ち上がった。
長い影がテーブルを這い、私と、私の精神を飲み込んでいく。彼は優雅な歩調で私の隣まで来ると、椅子の背もたれに手をかけ、私を閉じ込めるように身を乗り出した。
彼の髪から、いつもと同じ、清涼感のある白檀の香りが漂う。かつては安らぎを与えてくれたその香りが、今は恐怖を催す。
「君は、自分が何を言っているのか分かっているのかい? 没落の淵から君を救い上げたのは誰だ? 君の弟に、二度と歩けないと言われた足に、最高の魔導義足を与えたのは誰だ?」
「……か、感謝しています。それは、一生をかけても返しきれない恩義です」
「ならば、なぜそんな顔をする?」
彼の手が、私の顎を強引に掬い上げた。
視線が交差する。彼の瞳は、もはや愛を囁く男のそれではない。獲物を追い詰めた捕食者の、冷徹な光を湛えていた。
「私の愛が重い? お腹がいっぱい?……浅はかだよ、リリアーナ。君はまだ空腹を知らないだけだ。凍える夜に、明日の食事さえなく、誰にも顧みられない孤独。それを忘れたから、そんな贅沢な弱音が吐けるんだ」
「そ、それは……!」
「私の愛は、君を守るための殻だ。外の世界は汚れている。下賎な男たちの視線、家柄を嘲笑う貴族の陰口、君を傷つけるすべてのものから、私は君を隔離してあげているんだよ」
彼の声は低く、慈しむような響きを帯びていた。それが何よりも恐ろしかった。彼は、自分が「正しい」と信じて疑っていない。私を壊しているのが、自分自身だということに気づいてさえいない。
「……隔離ではありません。監禁です」
私が言い返した瞬間、エドワード様の指先に力がこもった。
顎に痛みが走る。けれど、私は目を逸らさなかった。
「庭を歩くのにも許可がいり、本を一冊読むのにもあなたの検閲が必要。私が誰かと話せば、その相手は次の日には解雇されるか、遠くへ飛ばされる。……エドワード様、これは愛ではありません。ただの、コレクションに対する管理です」
エドワード様は、ふっと短く笑った。
その笑い声は、冬の夜の風のように冷ややかだった。
「管理。……ああ、そうかもしれないね。私は君を完璧な状態で保存したい。一ミリの傷も、一滴の涙も許さない。それが私の愛の形だ。……それを拒むというなら、リリアーナ。君はどうなりたいんだ? この屋敷を出て、また泥にまみれて生きたいとでも?」
「……ええ。たとえ空腹に喘いでも、自分の足で泥を歩きたい。誰の許可も得ず、自分の意志で、また空を見上げたいんです」
エドワード様はゆっくりと手を離し、私の前から一歩退いた。
そして、背後の騎士たちに冷たく命じた。
「……リリアーナを北塔の自室へ。今夜からは、扉の外に守衛を。……ああ、それから。部屋にある本と筆記用具はすべて没収だ。外部との接触を連想させるものは、一切必要ない」
「エドワード様……っ!」
「お腹がいっぱいなら、少し『断食』が必要だろう? 何も与えず、誰とも話さず、暗闇の中で過ごせば……君も、自分の言葉がいかに愚かだったか気づくはずだ。私の愛がどれほど温かく、甘美だったかを、その身で思い知るがいい」
騎士たちが、事務的な動きで私の腕を掴んだ。
抵抗しても無駄だということは、私の体が一番よく知っていた。
引きずられるように部屋を出る間際、私は振り返って、冷たい瞳で私を見下ろすエドワード様を見つめた。
「……あなたは、私を愛しているのではなく、私を所有している自分を、愛しているだけです」
その言葉が、彼の表情をわずかに歪ませたのを、私は見逃さなかった。
――――
北塔の部屋は、これまでの贅沢な寝室とは打って変わって、簡素なものだった。
豪華な絨毯はなく、石造りの壁が夜の冷気をそのまま伝えてくる。窓には太い鉄格子が嵌められ、下を見下ろせば、常に二人の騎士が交替で見張りに立っているのが見えた。
食事は、日に一度。
運ばれてくるのは、味の薄いスープと硬いパンだけになった。
あれほど「お腹いっぱい」だと言ったのに、いざ奪われてみると、お腹の底に空いた穴が疼く。
……私がわがままだった? いいえ、これはおかしい。
ベッドに横たわり、私は天井を見つめた。
暗闇の中で、エドワード様の執着が、物理的な重みとなってこの部屋を埋め尽くしているような気がする。
けれど、絶望はしていなかった。
少なくとも、あの息の詰まる「優しさ」を浴びせられ続けるよりは、この冷たい孤独の方がマシだと思えた。




