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窓の外、どこまでも続く青い空を、私はただ眺めていた。
視界を遮るものは何もない。鉄格子も、呪文の刻まれた結界もない。ただ、窓を開けて一歩外へ出ようとすれば、庭の植え込みの陰から、あるいは廊下の曲がり角から、決まって銀色の鎧を纏った騎士たちが現れる。
「リリアーナ様。申し訳ございませんが、これ以上は危険です」
その言葉は、いつも同じだった。抑揚のない、訓練された礼儀正しい拒絶。彼らはエドワード様の飼い犬であり、私という「至宝」を監視するための生きた壁だ。
「……何が、危険なの?」
一度だけ、私はそう問い返したことがある。
騎士は眉一つ動かさず、磨き抜かれた兜の奥で冷徹に答えた。
「エドワード公爵閣下が、そのようにお命じです。閣下はリリアーナ様の御身を案じておられます。あなたが、一筋の傷を負うことも、一粒の涙を流すことも、閣下にとっては耐え難い苦痛なのです」
それは愛。誰もが羨むような、一途で深い愛。
没落寸前だった我が伯爵家を救い、父の借金を肩代わりし、病に伏せっていた弟に最高の医者をつけたのは、他でもないエドワード様だった。彼は私を泥沼から救い出し、この豪華絢爛な公爵邸へと招き入れた。
けれど。
私の足元にある絨毯は、あまりにふかふかすぎて、歩くたびに自分がどこにいるのか分からなくなる。私の身を飾るドレスは、あまりに贅沢な刺繍が施されすぎて、呼吸をすることさえ重苦しい。
コンコン、と控えめだが力強いノックの音が響いた。
返事をする間もなく、扉が開く。
「リリアーナ、ただいま。寂しくはなかったかい?」
甘く、低い声。耳元をくすぐるその振動だけで、私の心臓はわずかに跳ねる。それは決して、恋のときめきなどではない。捕食者を前にした小動物の、生存本能に近い畏怖だ。
振り返ると、そこには夕闇を背景にしたエドワード様が立っていた。
プラチナブロンドの髪を美しく整え、軍服のボタン一つ乱れていない。彫刻のように整ったその美貌には、私に向けるためだけの、蕩けるような微笑が浮かんでいる。
「エドワード様……。お帰りなさいませ」
私が椅子から立ち上がろうとすると、彼は素早い足取りで歩み寄り、私の肩を優しく、だが逃げられない強さで押さえた。
「座っていて。君が立ち上がって、もし立ち眩みでもしたら私は正気ではいられなくなる。……顔色が少し悪いね。今日の昼食は、用意させた鴨肉のコンフィを半分しか食べなかったと聞いたよ。口に合わなかったかな?」
監視。
何を、どれだけ食べたか。何回瞬きをしたか。そんなことまで、彼は把握している。
「いいえ。とても美味しかったです。ただ、あまりお腹が空いていなくて」
「そうか。明日は、君が昔好きだと言っていた隣国の菓子職人を呼ぼう。君の食欲が戻るなら、私は何でもする」
彼は私の頬を、壊れ物を扱うようにそっとなぞった。
その指先から伝わる熱が、ひどく冷たく感じる。
「エドワード様……。私、明日は少しだけ、庭の噴水のところまで歩いてもよろしいでしょうか。お菓子ではなく、外の空気を吸いたいのです」
私のささやかな願い。
けれど、エドワード様の微笑みが、わずかに形を変えた。瞳の奥にある深い藍色が、一瞬だけ鋭く光る。
「リリアーナ。庭にはバラが咲いている。棘で指を刺したらどうするんだい? それに、今日は風が冷たい。君が風邪を引いてしまったら、私はそのバラをすべて焼き払い、庭を管理している男たちを全員処罰しなければならなくなる。君は、彼らを不幸にしたいのかい?」
「そんな……! 私はただ、少し散歩を」
「分かっているよ。君は優しい子だ。だからこそ、私に従っていればいい。ここには君に必要なものがすべて揃っている。本も、音楽も、宝石も。……そして、私の愛も」
彼は私の膝の上に、持ってきた小さな箱を置いた。
開けると、中には大粒の、血のように赤いルビーがあしらわれたネックレスが入っていた。
「今日の贈り物だ。君の白い肌に、よく似合うだろう」
また、増えた。
この部屋の金庫には、一度も身に着けることのない、重たいだけの宝石が山のように積まれている。それらはすべて、私をこの場所に繋ぎ止めるための、目に見える重りだ。
「……ありがとうございます」
「どうしたんだい? もっと喜んでくれると思ったのだけれど。……ああ、そうか。この色じゃなくて、サファイアの方が良かったかな? すぐに替えさせよう」
「いいえ、そういうわけでは……」
「なら、なぜ笑ってくれないんだ? 私は君の笑顔のために、すべてを捧げているというのに」
彼の声に、わずかな「嘆き」が混ざる。
これが、彼のやり方だった。
決して声を荒らげない。決して力で従わせない。ただ、「私はこんなに君を愛しているのに、君はなぜ私を悲しませるのか」という無言の圧力を、静かに、執拗に突きつけてくる。
私は、彼の愛という名の海に沈んでいる。
水面は遥か遠く、呼吸をしようと口を開ければ、塩辛い愛情が喉の奥まで流れ込んでくる。
――――
その夜、晩餐の席。
長テーブルの向こう側で、エドワード様は優雅にワインを傾けながら、今日起きた宮廷の出来事を話してくれた。といっても、彼が排除した政敵の話や、どれほど私を想って仕事を早く切り上げたか、という話ばかりだが。
銀のフォークが、カチリと皿に当たる音がした。
私の手は、震えていた。
目の前に並んだ最高級の料理。その香りが、今は吐き気を催すほどに疎ましい。
「リリアーナ? 震えているね。やはり体調が悪いのか。すぐに寝室へ運ぼう」
「……エドワード様」
私は、彼を見つめた。
初めて、彼が望む「人形のような感謝」ではなく、私自身の意志を込めた瞳で。
「……なんだい?」
彼は不思議そうに首を傾げた。その無垢なまでの傲慢さが、私の心の中で張り詰めていた糸を、プツリと切った。
「……もう、限界なのです」
「……何がだい?」
エドワード様は、まだ微笑んでいた。
これから私が何を言うのか、想像もしていないような、空っぽの微笑み。
私は、深く、深く息を吸い込んだ。
肺の奥まで、彼が用意した「安全で清潔な空気」を詰め込んで、それをすべて吐き出すように。
「正直に言ってもいいですか? ……もう貴方の愛は、お腹いっぱいなんです……」
しんと、部屋が静まり返った。
背後に控えていた騎士たちの鎧の擦れる音さえ、消えたような気がした。
エドワード様の微笑みが、凍りついたように止まっている。
ワイングラスを持つ彼の指先が、ぴくりと跳ねた。
「……お腹、いっぱい?」
「はい。これ以上は、一口も入りません。吐き気がするほどに、重たくて、甘すぎるのです」
言ってしまった。
私がそう告げた瞬間、彼の瞳から光が消え、底知れない闇が広がっていくのが分かった。
恐怖よりも、不思議と解放感が勝っていた。
私は、初めて「私」として、彼と向き合えた気がしたから。




