十五章《五節 失ったままで》2
視えるのは、青黒い髪の子供だ。少女とも少年ともいえない、あどけない顔立ち。
それが幼い頃のロゼであることが、オルグレンには今はっきりと判ってしまった。
受けた傷で真っ赤に染まった小さな体。
白い獣に縋りつき、泣きじゃくる姿。鼓膜に残るその慟哭までもが蘇りかけ……オルグレンは強く拒否した。
聞きたくないと、その思いのせいか耳の奥に、強い痛みが走る。
苦痛の最中、オルグレンの胸にせり上がったのは、確信だった。
彼と出会っていたのだ、とうの昔に……。
あの時何があったのか。あの光景は何なのか……。厚い霧の向こうにあるはずのそれが、じわりと像を結びかける。
だが、オルグレンは拒否をした。あれほど切望した記憶の一片。
荒波の彼方から、取り戻したいと願っていた物を振り払う。
思い出したくない。
――失ったままで居させてくれ、と。
すべての過去を、思考を、幻を、振り払う。
それら全てを置き去りに、オルグレンは踵を返した。
走る。一息に駆ける。
貴賓を守る兵を払い除け、囲いから飛び出す。ただ視界には黒妖犬の姿だけを映し、一気にそこへとたどり着く。
この男は、明確な敵で間違いない、その認識がオルグレンの中で弾けた。
白刃を振り上げる。
隻腕の騎士の背中に。
しかし、利き腕に熱感が走った。痛みと衝撃に腕が狂う。
思うような剣筋を描けない。オルグレンの腕を斬り裂いたのは、投げ放たれた短槍だ。
それを放ったのは――唇を、矢が突き立つ胸を、赤に染めた女騎士ノージス。
鏃が胸骨に当たったか、瞬時に死を得る事が出来なかったらしい。
とはいえ、口元から溢れる赤と、裏腹の血の気を失った顔が彼女に先がない事を感じさせてくる。
胸の中が鏃に貫かれているのは明白だった。事実、投擲が最後の力であったかのように体を傾がせる。
倒れる様を見送る間などない。
オルグレンは咄嗟に構えた。迫った鋼を受ける。
振り返ったベイセルの、一撃。
片腕の者が振るったとは思えない、その重量。痛みが、痺れが突き抜ける。手傷を負った腕で受けるにはあまりに重い。
その衝撃は、オルグレンの手から剣をもぎ取るに十分だった。
隻腕の騎士が動く。その動きに一切の躊躇はない。
回転の力を得た、朱殷に濡れた剣。それが、オルグレンの首へと迫った。
獲られると、悟る。顔が血に濡れ、腹からも赤い命を滴らせる黒妖犬が、止まるつもりがないのがわかる。
空白のような、不思議な一瞬。
思考のどこかで、それで良いのかもしれないと、オルグレンは片隅で考えた。
それで、気づく。
自分は逃げたかったのだと。怖いのだ。
今蘇りかけている記憶が何よりも、何よりも恐ろしい。忘れたまま、分からないままで居たい。
……なにせ。
死が迫る中、オルグレンはロゼを見た。
しかし――その時、白が膨れ上がった。眩いほどの白。
ロゼがいた場所から、それが起こる。
額から血を流し、膝を着いていた姿が掻き消され、圧倒的な何かが動く。
オルグレンの耳には、剣のような、斧のような奇怪な音が届いた。
目の前でベイセルの鎧を纏った体が、唐突に倒れ伏す。
オルグレンは圧力に押され、石段に座り込んだままそれを見た。
周囲の者もまた同じく薙ぎ倒されている。離れた位置からは混乱の声が上がっていた。
「め……」
獣の足元でベイセルが呻く。その姿は鈍い赤に染まっていた。半曲刀のような爪に半身を裂かれ、溢れ出る命の中でもがく。
「呪わ、れろ……」
黒妖犬が呪詛を吐く。言いながら隻腕を伸ばそうとしたように見えた。しかし、男に残されていた右腕は、今はもう肩から先が裂かれ、失われている。
それでも、絡め取り地の底へと引き摺り込むように言う。
「ばけ、もの、め……」
確かに、化け物だった。
だが、同時にあまりにも違う。
オルグレンは固まったように感じる視界の中で、ただロゼの姿を見た。
助けられてしまった。そう感じる。ただ繰り替えす息の中で、まだ生きていると乾いた心地で思う。
感嘆と畏怖、それが綯い交ぜになったざわめきが耳に届いた。
誰もが束の間、闘争を忘れたような空隙。
目の前には、血と粉塵が立ち込めるこの場に、似つかわしくない純白がある。
降ったばかりの雪のような、夏の強い陽射しに照らされた、雲のような白い姿。
馬車程の大きさの四足獣――鷲獅子。
その名をオルグレンは胸中で呟いた。
ロゼが転じたその姿は、オルグレンの脳裏に蘇ったそれとは少し違う。
思い出してしまった記憶にある鷲獅子は言葉の通り、獅子の身体に鷲の翼と頭だ。
純白の体色、薄赤い目、身体と翼こそ同じだが、今のロゼの姿とは少し異なった。
頭部は鷲ではなく、狼と豹を合わせたものを思わせる。
狼 竜……ふと、その名がオルグレンの中に過る。荒野で出会った始まりの種族の、本来の姿と言うものをオルグレンは知らない。
だが、恐らくは似たような特徴を持っているのだろう。
証も何も無い、直感に過ぎない。
しかし、自分たちの旅路の中で出会い接触があった、始まりの種族たちの特徴をその身に有しているように感じられた。
ふと、低い声が落ちる。
「昊天の峰の獣か……」
それを呟いたのは、クゼリュス王だった。




