きみといた夏を抱きしめて
「キミト……ッ!」
俺の声が、雨の降る淵に響き渡った。
水面の中央に佇むキミトの身体は、まるで朝靄のように淡く、今にも夜風に拐われて消えてしまいそうだった。
俺たちがすべての記憶を、そして彼女の三百年前の哀しい過去までをも思い出したことで、キミトの瞳に、確かな光が灯る。透明だった彼女の身体に、生きた色彩が、あの向日葵のワンピースの鮮やかな黄色が、じわじわと戻っていく。
人々に忘れられ、概念となって消えかけていた神様は、俺たちの確かな「認識」によって、この地の守り神としての還る力を取り戻そうとしていた。
だけど、それは同時に、本当の別れが来たことを意味していた。
消滅は免れても、彼女はもう人間ではない。この冷たい、現世の境界である水底へ還らなければならないのだ。
俺は一歩、また一歩と水際に近づき、膝まで水に浸かりながら、泣きじゃくりながら声を絞り出した。
「忘れてしまって、ごめんなさい。……十年間も、一人にしてごめん。俺たちを助けてくれて、本当にありがとう。……ずっと、ずっと、大好きだったんだ!」
初めて口にした、十年前の、そして今の、生々しい初恋の告白。
キミトは、透き通るような細い指先を胸の前にきゅっと握りしめ、目から大粒の、きらきらと光る涙をこぼした。その涙は水面に落ちる前に、光る粒となって夜空へ溶けていく。
『……私を思い出してくれて、ありがとう。好きになってくれて、ありがとう』
キミトが、一歩、俺の方へと近づいた。
鈴が転がるような声。その声は神様としてではなく、三百年前に愛する人から引き離された、一人の少女・希未叶としてのものだった。
『ねえ、最後に一つだけ。お願いあんねん』
キミトは、愛おしそうに俺の顔を見つめ、優しく微笑んだ。
『――うちの名前、呼んで?』
もう、世界に邪魔されることはない。
俺の脳の、胸の真ん中に、彼女の本当の名前が、確かに刻まれている。
俺は大きく息を吸い込み、彼女に向かって、世界で一番大切なその名前を叫んだ。
「助けてくれて、ありがとう。希未叶」
その瞬間、キミトの身体が、まばゆいばかりの青い光の粒子となって爆ぜた。
光の粒は、荒れ狂う雨を押し戻すように空へと舞い上がり、暗雲を割って、夜空の向こうへと消えていく。
後には、ただ静かで、鏡のように美しい青い淵だけが残されていた。
激しかった雨は嘘のように止み、雲の隙間から、祝福するような満天の星空が顔を覗かせていた。
◇◆◇
翌朝。
龍水村の空は、昨日までの嵐が嘘のように、すっきりと晴れ渡っていた。
どこまでも高くて、突き抜けるように青い夏空。
ローカル線の小さな駅のホームで、俺は慧と勿忘の前に立っていた。
電車が、ガタゴトと遠くからレールを鳴らして近づいてくる。
「本当に、もう行くんだな」
慧が、いつものぶっきらぼうな声で言った。だけど、その目にはどこか、憑き物が落ちたような清々しさがあった。
「ああ。東京に戻って、また仕事だよ。でも……もう、前みたいに心が削られることはないと思う」
「奏なら大丈夫。私、いつでもここで応援してるから」
勿忘が、柔らかく微笑む。彼女の髪には、新しく自分で織ったという、淡いひまわり色のリボンが結ばれていた。
プシュー、と気の抜けた音を立てて電車のドアが開く。
「じゃあな。二人とも、また連絡する」
「おう。たまには帰ってこいよ」
「うん。待ってるね」
車内に乗り込み、動き出した電車の窓際から、俺は小さくなっていく二人の姿に手を振った。
東京での毎日は、きっと相変わらず忙しくて、理不尽なこともたくさんあるだろう。
けれど、俺の胸の中には、もう消えることのない「忘れない」という確かな絆と、淡く、ビターな初恋の痛みが宿っている。
ガタゴトと揺れる車内。
俺はズボンのポケットから、あの小さなガラスの髪飾りを取り出した。
手のひらに載せた龍の鱗は、もうあの時のような痛いほどの冷たさはなかった。どこか、誰かの体温のような、ぽかぽかとした優しい温もりを帯びている。
窓から差し込む強烈な夏の日差しを浴びて。
ガラスの鱗は、いつまでも、いつまでも、俺の手の中で眩しくきらめいている。
きみといた夏を、俺は忘れない。




