14後悔、夕闇、ナイフ
中学生の頃、ひょんなことから女の子を泣かせ、その日一日、罪悪感がつきまとい夜眠れなくなったのを覚えている。モヤモヤとした不思議な感情が弁となって、いつもなら体外に放出されるなにかをせき止めているようだった。
数年経ち、精神的に少しは成長したハズなのに、胸のしこりはあの時と同じように僕を苦しめていた。
寝転んだベッドはいつもなら励ましの優しさで包んでくれるのだが、今日は責めるみたいにしわくちゃで、シーツが花見川の気持ちを代弁するかのように僕の背中に不快感をぶっかけていた。
女心を弄ぶ気なんてなかったが結果的にはそうなってしまった。
声に出さず、口内だけ反省を呟き寝返りをうつ。景色が変わっても罪悪感に変化はなかった。
夕暮れ時の室内は薄暗く、夏の黄昏にBGMを蝉から夜の虫に引き継がれようとするその刹那。僕は一人自室でぼんやりベッドに横になっていた。眠気はない、ただ身体全体がだるかった。
目を閉じると、これで何度になるかわからない昼間の回想がぶわりと浮かんだ。
事情を説明し終えた彼女の瞳が潤んでいたのは、樒原の恐怖によるものだけではないだろう。僕が彼女に要注意を促した時、彼女は静かに頷きながら、唇をギュッと真一文に結んでいた。
「うん、わかった……」
「今日はもう外に出ない方がいいね。それとさ」
少しだけ悲しそうな表情で彼女は僕を見上げた。
「やっぱりこの問題は僕だけの手には負えないよ。君のお告げを疑うわけじゃないけど荷がかちすぎる」
「ごめんね、迷惑かけて」
「違うんだ。責めてるんじゃなくて……。その、警察に行こう。樒原が脅しをかけてきたのだってそれをおそれているからだ」
「でも、そんな事したら、その人もそっとしておいてくれないんじゃ、」
「最近警察も証言者保護に力を入れ初めたらしいし、大事にはそうそうならないよ。それに、」
目の前の小さな女の子の震える肩にそっと両手をおいた。
「そうならないように僕も努力するさ」
「ありがとう、トウちゃん」
心からの感謝というのは、感覚で理解できる。くさいセリフも言ったかいがあったというものだ。僕もなるたけ柔和な笑みを浮かべた。
「それじゃ、明日一緒に警察に行こう。付き添い人として僕も同行するよ。あっ、通り魔犯に会ったのは僕も同じか。ということは花見川といっしょで僕も証人だ」
「うん」
「ほんとは今すぐにでも行きたいけど、あいつがうろちょろしてるかもしれないからな。とりあえず明日、僕が学校から帰ったら準備して行こうか」
こんな事態でも僕はまだ学生でいたい。
花見川は僕の提案に今度は無言にコクンと頷いた。
それから下げていた顔を上げて、僕をジッと見てから恥ずかしそうに言った。
「それにしても、勘違いしておしゃれしちゃうだなんて、私、ほんとにバカだよねー、たははは」
上気させた頬をわざとらしい笑顔で塗りつぶす彼女の表情と、その乾いた笑い声は、僕の物言いを反省させるには充分だった。通り魔犯に関してではなく、花見川に自虐させてしまった事についてだ。
夕飯の準備は任せてと、キッチンに立っている花見川に僕は心の中でもう一度謝罪を述べた。
「直接言わなきゃダメだよなぁ」
声にだして行動を促してみたものの、実際そんな勇気は起こせそうにない。ヘタレだろうとなんだろうと、過ぎた事に対する謝罪ほど言い辛いものはないし、もし言葉にしてみて自意識過剰と取られるのも、嫌だ。
……うじうじ成分を凝り固まらせるのは、このへんにしておこう。言葉に出さなきゃ伝わらない気持ちというのも確かにある。
僕は孤島になったベッドから床の上に降り立ち、外界との接続を試みた。花見川に対して決心を固め、ゆっくりと息をはく。だけど、とりあえず、
「コンビニ行こう」
昨日はなんだかんだで行かなかったし、花見川に粗品を用意したい。それについさっきもモモちゃんがアイスを食べたいとダダをこねていた。妹の機嫌取りを兄としてはやっていたい。
決して厄介事をおくりだすのではない、とここに誓いをたてておく。
お手伝いのモモちゃんとキッチンに立つ花見川二人に軽い外出先を告げ、僕は外に出た。僕の料理作りは手伝わないモモちゃんが花見川のアシスタントをなぜ務めるのか疑問に思ったが、ともかくすぐに戻るという言葉を受けとった二人は了承してくれた。花見川は少しだけ心配そうな瞳をしていたけど、僕自身が通り魔犯に直接狙われているわけでないのでそれは杞憂というやつだ。
玄関から外にでる。夏の温い風が僕の頬をべったりと撫でつけた。
夜の帳がおりはじめた夏の夜は、昼間溜め込んだ熱気をコンクリートが放出するせいか、冷たさとは無縁で生暖かい空気がじっとりと絡みつく嫌な時間帯になっていた。いつもはカラッと爽やかな夜の匂いが漂っているはずなのに、今日は湿気が高かったのだろう、熱帯夜の言葉通りになっていた。
そんな空気だ。嫌な予感がしなかったわけではない。
だけど油断していたのもまた事実だ。
「よう」
背後から、昼間と同じような口調で声をかけられた。瞬間電流を流されたかのような衝撃を受け、身体がカッと熱を帯びたのを感じながらも、静かな、見せかけだけの冷静さで背後を振り返り、声の主を視認した。予想通りだが認めたくない。
ブロック塀に寄りかかった会いたくもない人物。黒い水彩に気配を溶けこませたのだろうか、忍者のごとく、ひっそりと立っている。オレンジの街灯が彼の雰囲気を不気味に演出していた。
「こんばんは」
出来るだけ平静を装い、僕は赤髪の少年に返事をする。一瞬にして熱くなった血流は、いまは逆に氷水のように冷たくなっていた。
「おーぅ、こんばんはー。久しぶりだな。つっても2、3時間くらいか」
「そうだね。急にどうしたのさ」
恐怖からのパニックを態度に出さないよう抑揚のない冷淡な口調で会話をする。
樒原はもちろんの事、僕をも包みこむ夜の黒色は間違いなく危機的状況を作り出す一要因になりうる。昼間は感じることのなかった“恐れ”という感覚がひしひしと僕に纏わりついていた。
「何か用でもある?」
警戒しているのを悟られないようにするのは勿論、逆なでしないよう慎重になりながら言葉を選ぶ。樒原は僕の言葉に呆れたような息をはき頭をポリポリ掻きながら口を開いた。
「てめぇ早くメール寄越せよ。連絡が取れねぇじゃねーか」
「ああごめん忘れてた。君のアドレスの書かれた紙は僕のズボンのポケットにいれっぱなしになってるよ」
おどける口調に樒原は小さな舌打ちをしてから続けた。
「はあぁ、やれやれ。それより花見川むくげと連絡は取れたのか?」
「あれ、別に連絡はしないでいいんじゃなかったの?花見川が帰って来たら教えろって」
設定上、花見川は今島根県にいるのだ。たしか僕が連絡を取ろうか、と訊いた時彼はきっぱりノーと答えたはずだ。
「あぁん?俺がそんな事言ったか?」「うん、確か。花見川に伝言しようか?って僕が訊いたら別にいいって」
「そうか。そういえばそうだったな。いやわりぃ。気が変わったわ。言付けといてくれねぇか?」
「それは構わないけど、……なんて?」
息のつく間もなく彼は言葉を続けた。
「赤髪の男が“早く”お前と会いたがってるって」
ああ、やっぱり花見川を心労で殺す気か、こいつ。急な心変わりは、彼女に対する脅迫の一手段なわけか。
だがここでゴネるのは不自然だ。
「わかった。伝えておく」
「やけに物わかりが良いな。ま、俺は助かるからいいけどな」
僕の返事に鳩が豆鉄砲を食らったようにキョトンとしていた樒原は、ふざけるように手首をブルブルと回した。
なんの意味があるのだろうと疑問に思ったが、彼との会話に休止符が付いたようなので当初の目的を大義名分にその場を辞することにした。
「それじゃこの辺で。用事があるんで」
「おい、待てよ」
2つ返事でOKしてあげたのに、その場から離れようとする僕を樒原は呼び止めた。
コンビニに向かっていた足を止め、冷や汗をかきながら振り向く。
「なに?」
「俺に訊きたい事があるんじゃないか?」
なにそれ。とんだ自意識過剰じゃないか。僕は会話より早く身の安全を確保したいのだ。目の前の男は、僕と花見川のブラックリストに名前を連ねている危険なヤツだ。
「とくには。ないけど」
「そうかぁ?例えばよーぅ」
彼はイタズラな笑みを浮かべ自分の立つ真下の地面を指差した。
「なんで俺がここにいるのか、とか」
「……」
「お前なら、そんな偶然なんてないことくらい分かってんだろ」
確かに疑問には思っていた。なぜ僕の家の近くの塀に、よりにもよって樒原が寄りかかっているのか、と。そもそも学校にいたことも不自然だ。だけど僕は偶然ということにし深く考えないようにしていたのだ。楽観視して思考を誤魔化そうとしていたのだ。
そこん所を樒原の口から指摘されるとは思ってもみなかった。
「結論から言うぜ」
鼻を鳴らして樒原は続けた。
「俺はお前んチが何処にあるか知ってんだ。住所をな。ちょうど良いタイミングで外出してきたから声をかけたわけだが。…この意味がわかるか?」
「それと言うとつまり、君は」
背筋がぞくぞくしていた。小学生の時のレクリエーションで怖い話を聞かされた時のようだ。
「ストーカー」
「はあ?」
もちろん本気で思っているわけではない。感じた恐怖を誤魔化すための冗談だ。
「何が悲しくて野郎の事をつけ回さなくちゃなんねーんだ。どうせストーキングすんなら、可愛い女の子、花見川むくげの方にするぜ」
やったな花見川、お前通り魔犯に可愛いって誉められたぞ。
「あ、そう。君が僕の家をなんで知ってるのかは知らないけど、頼むから不法侵入だけはしないでくれ。あとプライバシーも守れ。それじゃ」
「いい加減、腹を割って話そうぜ」
コミュニケーションを求められても困、
「俺が通り魔犯だと花見川から聞かされてんだろ」
通り魔、まさかこいつの口からその言葉がでるとは。
「……」
「じゃなきゃ異常に警戒しすぎだ。いくら初対面とはいえな。そうでなくても目立つ頭してんのによぉ、厄介事は宇宙からの素粒子みたいに常に俺にまとわりついてやがる」
へらへらとぼかした言い方をしているが彼は確かに核心をついていた。それはもう、確実に。
「通り魔?なんの話をして、」
「おいおいおいおい。だから腹を割って話そうって言ってんじゃねぇかよ。とぼけんじゃねぇって。別に脅そうとしてんじゃねぇけどよ」
彼はそういうと片手をポケットに突っ込み、何かを取り出した。それをこちらに見えるようにひらりひらりと振るう。
ナイフだった。裸ではなく皮製のカバーがかかっているがカタチからしてそうだろう。
「てめぇの認識通りだ、まあ、とっくにご存知だったようだけどよー。……スーパーサイヤ人成り立てみたいだな」
彼が何を言っているのかよくわからなかったが、僕の危険信号を真っ赤に明滅し、副腎はアドレナリンを大量に分泌していた。これは、危険だ。バレている。
そして何より、目の前で楽しそうに小型ナイフを持つ彼に危険を感じた。カバーがついていても、アレは尖った刃物だ。
「樒原、君が、……通り魔犯なのか?」
「厳密に言うと違うが、まあ、世間を騒がせてるのは俺になるんだろうな。さぁ、俺はカミングアウトしたぜ、白江。そろそろ正直になろうか」
背中をブロック塀からはなし、樒原は僕の正面に立った。身長は同じくらいなのに僕を見下すようにこっちを見ている。
「花見川むくげはお前んチにいるんだろう?」
「だったら、どうする?」
昼間の学食では秘密と濁した言い方をしていたが夜になって気分が高揚でもしてるのか、別段気にした様子なく続けた。
「会わせな。会ってやつに言わなきゃいけないことがある」
「なにを」
「通り魔犯が何をしたいか、を」
湿気が高い熱帯夜は、僕の世界を黒く染め上げていく。
彼は皮のカバーがついたナイフを冗談めかした様子で軽く僕に傾けた。




