12通話、対話、乙女の祈り
いやはやなんとも。
……書き出しに、その言葉を選ぶのはあまり推奨されるべき物ではない。
しかし僕の心情をあらわすのに、これ以上しっくりくる言葉は他にはないだろう。一山乗り越えた僕に降り注ぐ真夏の太陽は、藤吾グッジョブとまるで祝福するかのように燦々と降り注いでいた。残念ながら優しさとは無縁な、下手したら人を殺しかねない直射日光だけど、爽やかな気分にはさせてくれた。
赤髪通り魔犯(確定的)、樒原と学食を出たところで別れた僕は、彼がいないのを再三再四確認し、校門を抜け路地を何本か折れたところで、こそこそと持っているのを秘密にしていた携帯を取り出した。そこに15年間生きてきてすっかり脳にこびりついた自宅の電話番号を、迷うことなくプッシュする。
花見川につい先ほど僕の身に降りかかった事実を報告しようと思ったのだ。耳に当てた携帯電話が自宅の呼び出し音を伝えてくれる。
帰ってからでも良かったのだが、事は急を要する。彼女を捜す通り魔犯がすぐ側まで来ているという事実は一刻も早く伝えるべきだ。そして僕が彼女に言うべきことは一つ、外出禁止令。
下手に外出して樒原と遭遇しようものならどうなるか分かったもんじゃないが、家にこもっていれば目撃される危険性は少なくなるだろう。
彼女の身を案じ焦る気持ちを助長するように、虚しくコール音が鼓膜を刺激した。しかし、そのまま自宅と繋がることなく留守番電話に突入した。通話を切る。どうやら今家には誰もいないらしい。先ほどまで自宅にかけた電話は繋がったのに、よりにもよってこの短時間に、二人そろってどこかにお出かけを開始したらしかった。
花見川は自分の立場が分かってるのか?外出している場合じゃないだろう。モモちゃんもモモちゃんだ。出会って2日目の女の子と仲良く外出なんかしないでくれよ。
家に戻るように言わなくては、とモモちゃんの携帯番号を呼び出す。もしかした友達と遊びに行っているだけかもしれないが、責任感の強い彼女が預かっている子をほったらかしにして、遊びに行くとは考えづらい。彼女の近くにはおそらく花見川がいるはずだ。
中学生に携帯は早いと思う一方で便利な世の中になったものだと一人関心しながら呼び出した電話番号が繋げたのは『おかけになった電話番号は、現在使用されていません』と淡々と告げる女性の声だった。
「……」
そのまま、その音声相手に、『僕の妹ったらメールアドレスはまだしも電話番号が変わった事さえ教えてくれないんですよ』と愚痴をこぼしたかったが、耳から携帯を外して繋がることのなかった通話を切った。
しょうがない、家に帰るか。
連絡が取れなかったので、そうするしかあるまい。あとは、まあ、自宅で花見川が樒原と出会わないよう祈るくらいしか僕には残されていない。
花見川の携帯番号でも知ってれば直接そっちにかけるのだが生憎彼女と連絡先の交換はしていな……
あ
灼熱地獄のアスファルトから立ち上がる熱気が、僕の頭に光化学スモッグをかけていたとしか思えないほど、すっかり忘れていた事柄を思い出した。
そうだ。何をしていたのだろう。
しまいかけた携帯電話を再び握り、SMS受信ボックスを呼び出した。ショートメールサービスとは電話番号を利用した同一端末同士でしか利用できない簡易版メールシステムだ。つまり、僕は花見川むくげの電話番号を昨日の『予言』で知っている。それしても、花見川、僕とたまたま機種が同じだから良かったものの、違かったらどうやって僕の信頼を得ようと思っていたのだろう。
昨日始めて届いた番号に、電話をかけながら耳にあてる。
そういえば最近SMSは異なる企業で契約をしていても利用できるように調整されると耳にしたが、実際はどうなるのだろう。メルアドより電話番号の方が入力の際、容易なので便利といえば便利なのだが、
そんな思考をぶった切るように、花見川の着メロが僕の耳を賑わせた。懐かしさともどかしさが僕の全身を駆け巡る。
『乙女の祈り』だった。
上昇旋律が美しい優美な曲だ。このピアノのメロディを聞いたことがない人はめったにいないんじゃないだろうか。
ポーランドのテクラ・バダジェフカという女流作曲家が17、8の時に作ったヒット曲だ。彼女は若くして逝去してしまったらしいが、紡ぎだしたメロディは何年経過しようと色褪せることない。
中学の時の同級生が、『私の手じゃ小さくてうまく弾けない』と嘆いていたのを思い出した。子供の弾く曲と思われがちだが、簡単というわけではなく、オクターブの移動が結構あるため、手が小さいと弾きつらいのだ。
『はい、もしもし、』
夭折しても、何かこの世に残せるなら、これほど幸せなことはないんじゃないだろうか。
と、懐かしさに埋没しそうになった僕の思考を掬いあげるように、花見川の声がメロディラインの代わりに響いた。
「もしもし、花見川?僕だけど、」
『今流行の僕僕詐欺ですか?』
それを言うならおれおれ詐欺だし、流行りは一昔前に去った(と思う)。
電話口でのっけから、なんて事を言うのだろう。確かに彼女からしてみたら、いきなり電話が来て警戒する気持ちは分かるけど、僕相手にそれはないでしょ。さっき自宅に電話した時は一発で僕だって気づいてくれたのに。
「違う。白江藤吾。急用があるから電話したんだけど、」
『トウちゃんは私の携帯番号を知りません、よってあなたはトウちゃんじゃありません。以上証明終了ー。この詐欺師、二度と電話してくんなー』
プッ。
間延びする声が鼓膜に残留している。いきなり切られた通話に呆然と立ちすくんでいたが、いつまでもツーツーを聞いてても意味はない、リダイヤルだ。
それにしても注意を怠らないように言ったのは僕だけど、僕相手にそんな事をするなんて想定外にもほどがあるわ。
『しつこーい!』
乙女の祈りが流れる前に花見川が着信に応じてくれた、のはいいのだが開口一番なんて事を言うのだろう、彼女は。
『偽トウちゃんめ!本物のトウちゃんはもっと春の小川のように澄み切った声をしてるの!』
そんなはずあるか。唯一無二の白江藤吾という人間の声帯は二回の変声期を経て完成されているはずだ。出来上がった声を今更変えようだなんて「七匹のこやぎ」の狼のようにチョークの粉を飲めというのか。まっぴら御免だ。
「君が誤解してようと、僕の名前は白江藤吾だ」
『嘘だー。本物のトウちゃんは私の携番知るはずないもんねー!』
過去の悪戯を武勇伝の如く語るファミレスの男子高校生のような、チャラチャラした言い回しだ。いくら警戒するように、と注意を促したが、挑発しろとは言っていない。電話口に息がもれないようにしてから極力聞きやすいようにゆっくりと言ってやった。
「昨日の予言で僕の携帯に、自分の番号から文を送ったでしょ」
『あっ、』
息を飲む音がして、数秒、沈黙の二文字が漂った。
『ご、ごめんなさいっ!』
それからすぐに氷解した誤解と、大きな謝罪が鼓膜を震わせた。
『そのことを知ってるとは、100パーセントウちゃんだね!あああなんてこと!私ったらとんだ失礼を』
「いや、わかってくれればいいから……。電話であんまり怒鳴らないでくれ」
難聴にする気か。それから無意味にあだ名を進化させるのも止めてもらいたい。
「それより花見川、今どこにいるんだ?」
『うん?私?』
君以外に誰がいるんだ。少し涙声で花見川は口を開いた。
『表を行った先の目抜き通りでショッピングしてるよ』
そういえば、雑踏がずいぶん騒がしい。
「モモちゃんも近くにいる?」
『うん。桃里ちゃんが新しい服が欲しいって付き合ってるの』
「そうか……」
予想通りだけど、それでは電話で花見川に通り魔犯と遭遇したと報告するのは止めたほうがいいだろう。下手をしてモモちゃんをこの問題に巻き込むというのは出来れば避けたいし、今後の対策を練るのも含め長くなるだろう。そうなると電話だと不便だ。モモちゃんに怪しまれる。
「悪いがショッピングは中止して、すぐ帰ってきてくれないか?」
『えっ?なんで?』
「なんで、って……」
事実を端的に伝えるのは簡単だけど彼女の表情をここで曇らせるのも得策ではない。今は樒原のことは伏せた方がいいだろう。
「大事な話があるんだ。花見川、君に言わなくちゃならないことが」
『えっ、そっ、それ、って』
電話口の花見川の声はしどろもどろになってめちゃくちゃだ。まだ樒原のことは言ってないのになんで一足早くパニックになってるんだ、彼女は。
『うん、す、すぐ帰るね』
数秒と経たないうちにそう返事が返ってきた。どことなく嬉しそうな口調だが、どうしたのだろう。とりあえず帰宅させることは出来そうだが。
「ああ、頼む。出来るだけ早く。急いでくれ」
『うん。わかった。今から戻る、よ』
「おし、頼んだ。ああ、そうだ花見川」
一つの不安が浮かんだ。それはその帰宅中に樒原の視界に花見川が入る可能性についてだ。そうなっては元も子もない、全てがパーだ。考えすぎかもしれないが、用心に越したことはない。
「そこで帽子かなんかを買って着けてこれないかな。出来れば飛びっきり服装変えて、サングラスかなんかが似合うんじゃない?」
変装、とまではいかないが、少し格好を変えることでバレる可能性はグッと低くなるだろう。当然僕の指摘に花見川は『なんで?』と訊いてきたが、その質問に正直に答えるわけにはいかない。
ここで君は狙われていると言うのは、彼女の不安をイタズラに煽るだけだ。と、いうわけでなんと言おう。まあいいや適当で。
「ただ僕が見たいだけだよ」
『……』
花見川は無言になった。向こうの雑踏が耳につく。いやにながい沈黙の後で焦ったような早口で花見川が口調を荒げて続けた。
『わ、わかった。ぼ、帽子だね!買っていくよ!ど、どういうのがいいかなー』
「それは君のセンスにまかせる。とにもかくにもそうしてもらえると助かる」
何を頑張るんだろうと思ったが、朗らかな口調に戻ったようなので、なんとなく安心した。
外の世界は危険がいっぱい、というわけじゃないが、外出中が一番危険度が高まっているのも事実だ。
印象を変えてカムフラージュすることで樒原の目をごまかせたら最高だ。
だけどそんな提案、当然花見川は疑問に思うんだろうな、と半ば言い訳を考えつつ、答えを待っていたら、意外にも素直に、
『うん、わかった』
と、花見川は頷いてくれた。
「頼んだよ。んじゃまた後で」
これだけで、ひとまずは安心できるだろう。偽装ポイントは今の発言だけで多くある。
後は花見川と樒原の遭遇しないよう、本当に祈るのみだ。
そうと決まれば僕も帰宅を急がないと。先に花見川とモモちゃんが戻るのは言い出しっぺとしてよくない。
ようやく夏の日差しから離れられると思うと少し気持ちが軽くなった。




