芽吹かぬ蕾
今回はかなりキツめの内容になっております。
楽しんでいただけると嬉しいです。
何度も、繰り返し夢を見る。
それは彼との記憶。日毎に移り変わる追憶はどれもが暖かく、都合が良くて──けれど最後は同じ光景に収束する。
どれもが間違いだと突きつけるように。お前はこうして彼から奪ったのだと見せつけるように。
自らの罪悪を毎夜のように回顧し続けるのは、身勝手に彼に救われ、焦がれて、無様に散ったことへの罰なのか。
答えも分からないまま、今夜も私の悪夢は悪夢と思えないほど穏やかに始まった。
「んぐっ……ぷはっ! くぅ〜、生き返る!」
「随分と白熱してたね」
「うっ! あ、あははっ、ちょっと熱中しすぎちまったわ。その……ムキになって子供っぽかった、よな?」
「別に、年相応で悪くないと思うけど」
「そ、そっか。へへっ」
中学3年の、暑い夏の夜だった。
聡人君に誘われた、夏祭りの記憶。数ある思い出の中でも取り分けて色濃い一ページ。
神社の境内に作られた会場を回り終えた私達は拝殿の階段で一息ついていた。記憶の中の少し幼い彼は、どこかホッとしたように隣で笑っている。
「この髪飾り、取ってくれてありがとう」
「気に入ってくれてよかった。まだまだ俺の射的の腕も捨てたもんじゃないな、うん」
「うん。大切にさせてもらうね」
「そうしてくれると嬉しい。その浴衣に、すっげえ似合ってると思う……ので」
「……ありがとう」
頬と胸に、じんわりと熱が広がる。
祭りの喧騒とも、肌にまとわりつく夏の気配とも違う、心から生じる温度。
彼がくれる言葉はいつも私に安堵をくれた。同時に、それ以上の甘く危険な何かに溺れていく感覚さえも。
一緒にいると、認められると、私はここに存在していいと思えた。
まさしく夢見心地。頬を緩ませ、浴衣の裾を握り締めて、愚かな私は悦びに浸っていた。
「えっと、今日は楽しかったか? 無理言って小百合の一日を貰っちまったけどさ」
「とても良い息抜きになったわ。誘ってくれて感謝してる。私はいつも、休み時を逃してしまうから」
「本当にすげえよな、ずっと頑張ってて。ちょっとでも力になれたなら、俺としちゃ光栄だよ」
ちょっとだなんて、謙遜が過ぎる。
私に限界を越えさせてくれるのは貴方。そして限界を迎えないよう、隣から見てくれたのも貴方なのに。
どれだけ努力しようと理想には程遠く、止め処がわからなくなると、共に歩んだ時間が私を繋ぎ止めてくれた。
息が詰まりそうになった時、心を落ち着けてくれるココアの甘さも。
その日あったことを語りながら歩く、帰り道の和やかさも。
貴方が全部教えてくれた。私には何も返せるものがないのに、ただ無垢に、あるいは残酷なほど。
だからせめて、彼の尊敬を嘘にしないよう進み続けた。それがたった一つ、私に夢をくれたことの恩返しと信じて。
でも、宮内小百合は自分で思っているよりずっと臆病な人間だ。
期待に応えようとしながらも、本心を吐露すれば何もかも失われると恐れ、一度も聞くことをしなかった。
聡人君は、本当にこんな生き方でいいの?……と。
「あーあ、これが終わったらいよいよ受験に本腰入れなくちゃか。なんかめっちゃ名残り惜しいわ」
「結局、あの高校にすることにしたの?」
「おう、お前でさえ難しいかもって言うようなレベルだし、ぜんっぜん自信はないけどな」
「……聡人君の学力は年々伸びてるし、あそこに拘らなくても行けるところは沢山あるわ」
彼ほどの粘り強さと柔軟さがあれば、どこでだって通用する。曲がりなりにも一番近くで見てきた私はそう確信していた。
だからこそ、彼の可能性を狭めたくはない。私といることで、本来はより良い道があるのに、それを絶ってしまってはいないかと不安で。
「たしかに、選択肢はそれなりにあるとは思う」
「なら……」
「だからこそ、っていうか。チャンスがあるなら一番高い壁に挑戦したいんだ。俺がどこまでできるのかを知るために」
そう、誰より彼を知っていたのだ。
中途半端な言葉じゃ、一度目的を定めたら変えることができないと理解していたのに、淡い期待を抱いた。
ああ、それとも──
「それにさ、昔約束したろ。いつかお前と並んでみせるって。そのためにやれることは全部やってみるさ」
彼がそう言ってくれるのを、どこかで期待でもしていたの?
「……聡人君がそう決めたのなら、私はこれ以上口出ししないわ」
「おうよ。見とけよ〜? 底力ってやつを発揮してやるからさ!」
本当に、醜悪だ。
到底足りない罪悪感。相反する大きな幸福感。本来逆であるべき感情の天秤は狂っていた。
彼が望むなら、まだこの関係には価値がある。私はまだ、聡人君と一緒にいていいのだと、幾度となく自分に言い聞かせる。
酷い間違いだと心の片隅ではわかっていたくせに、今だけは許された気になって。
ああ神様、他の何を失ってもいいから。どうか、この間違いだけは見逃してください──なんて。
後ろにある拝殿へ、烏滸がましい願いを投げかけた。
『まもなく、花火の打ち上げを開始します。ご来場の皆様、どうぞお楽しみください』
「おっ! 小百合、始まるぞ!」
「ええ」
そうして私は空を見上げた。
程なくして空へ現れた一筋の光が空に弾け、極彩を解き放つ。
夏の暑さも、懊悩も吹き飛ばすほど鮮やかな音を立てる花火のように、この願いが消え去るとも知らずに。
自嘲して間も無く、夢の輪郭が解ける。
彩りに溢れていた景色は溶けて消え、悪夢が本性を表してゆく。
マーブル色だった世界が再び形を定めた時、そこは一切の熱が存在しない場所だった。
「……………再婚?」
「ええ。そのつもりでお付き合いしてる方がいるの」
「………そう…………なの」
母から告げられた言葉に、乾いた返事をする。
ついさっきまで和やかな夕食の時を過ごしていたリビングが急激に冷え込んだ気がして、背筋にひたりと悪寒が走った。
その錯覚から逃れんと、止まりかけた思考の一部でなんとか二の句を捻り出す。
「………いつから付き合ってるの?」
「もう三ヶ月ほどになるかしら。一年前にお仕事の関係で知り合った方でね。受験が落ち着いてから小百合にも伝えようと思ってたの。突然驚かせてごめんなさいね」
「………どんな人?」
「うーん、一言で言えば一生懸命な人、かな。誠実で、努力家で、笑うとちょっと可愛い……どこかお父さんに似てる人」
ズキリ、と。痛んではいけない場所に亀裂が走る。
動揺を悟られたくなくて、胸に伸ばしそうになった手を膝の上で押さえた。そこからどくどくと滲み出ていくものには、知らんぷりをして。
「………きっかけは?」
「相手の方にも小百合と歳の近いお子さんがいるの。相談に乗ってもらったりしてるうちに距離が縮まって、今はあの人とならもう一度家庭を築けるかもしれないと思ってるわ」
「……………そう」
「それでね、本題なんだけど。今度顔合わせをしないかって話が出てるの。向こうのお子さんにはもう了承してもらえてるみたいだから、あとは貴女さえ良ければ段取りをしようかと思ってるのだけど……どうかしから?」
「……わた……しは」
即答できず、記憶の中の自分が俯く。
何故、どうして、いつの間に。反芻するのはそんな陳腐な言葉ばかり。
まとまりのない思考は時間が経てば経つほど複雑に絡まり合い、どんどん答えを埋もれさせて……その時、母の一言に引き戻された。
「勿論、貴女が嫌がるなら無理強いはしない。顔合わせは取りやめるし、一度再婚の件も考えるわ」
「っ、そこまで………しなくても」
「私にとって一番大事なのは小百合ですもの。二人とも幸せになれないなら、それは良いことじゃない。そうでしょ?」
ああ……気遣わせてしまった。私が優柔不断なばかりに。
父が亡くなってからずっと頑張ってきた母が、ようやく新しい幸せを見つけようとしている。
なのに、それを私が阻むのは──娘として、人間として、間違っている。
「…………分かった。会うわ」
「いいの? 本当に?」
「うん。日程が決まったら、また教えてほしい」
「……そうする。ありがとうね、小百合」
「じゃあ、もう寝るね」
どうにか不恰好な笑顔を見せ、席を立つ。
一瞬よろけそうになった足をドアの方に踏み出し、リビングを後にすると一目散に自分の部屋へ向かった。
思えばこの日からだった。家の廊下が、やけに長くなったのは。
「──はっ………!」
逃げ込むように部屋の中へ体を滑り込ませると、詰まっていた息を吐き出す。
震える手をドアノブから引き剥がし、ふらふらとあてもなく歩いていくと、目の前にあったデスクに両手を押し付けた。
「再婚、なんて………そんなの、突然すぎる」
口ではそう言いながらも、こんな時がいつか来ると、ずっと前から心の奥では分かっていた。
時間は進み続ける。どんなに過去を慈しんでも、私にも母にも平等に、容赦なく。
そして、とっくに母の時間は進んでいたということだ。私だけがずっと古ぼけた光景に未だ残る、微かな暖かさにしがみついていた。
「終わる………何もかも、全部」
母の心は次の居場所を得ようとしている。千々に散逸した思考の中でも、それは素晴らしいことだと、本心から思えた。
しかし、だとしたら父の言葉を、在り方を追い続けていた私の心の置き場は、一体何処に?
いつも胸中にあった、家族全員が揃っている頃の記憶が遠ざかり、引き抜かれて、ぽっかりと胸に穴が開いた気分だった。
母が父を忘れたわけじゃないことは分かっていた。けれどもう、戻しようがないほどそれはバラバラになってしまった。
「………置いて、いかないで。一人に…………なりたくないよ…………」
耐えきれずに、矛盾した思いを吐露してしまう。
意味の無い言葉だ。何を変えることもない戯言は嗚咽と共に涙となって、零れ落ちかける。
慌てて机の上のティッシュに手を伸ばして……指先に当たったのは、別のもの。
それは、彼のくれた髪飾りだった。
おぼつかない手つきで掴み取り、少しぼんやりと眺めてから胸に押し当てる。
受験勉強中、行き詰まる度に力をもらっていた時と同じようにしてみると、避けそうな痛みがほんの少し和らいで、ハッと息を呑んだ。
「そう………そうよ。私にはまだ、聡人君がいる」
少し前までが嘘のように、力のこもった声で呟く。
彼の顔を思い浮かべると安心感が更に増し、天啓を得たかのようにその事実を噛み締めようとした。
「大丈夫、大丈夫よ………聡人君がいれば、私は、きっと大丈夫…………」
これから先、どんな変化が起こるとしても彼と紡いだ日々が私を証明してくれる。
そしていかなる困難の中にあったとしても、彼が隣にいるなら乗り越えていける。そう、心の底から信じられた。
信じただけなら、よかったのに。
「あの人なら、私を肯定してくれる……この苦しみを理解してくれるわ。だって、私を尊敬してくれてるんだもの………だから、だから……」
望まぬ現実は困惑を生み、動揺をもたらし。
狭まった思考は歪みを生じさせ、最も愚かな選択へと自分自身を導いた。
己を保とうと躍起になるあまり、私は──
「彼さえいれば、私は私でいられるんだから…………!」
決して許されざる、過ちを犯したのだ。
「あ…………え…………………何を…………言って………………?」
気付いたら、もう手遅れだった。
自分の口から出てきた言葉を反芻し、理解した瞬間、全身の血の気が一斉に引いた。
「わ、私………聡人君を………利用、しようと…………したの…………………?」
手の中から髪飾りが滑り落ちていく。
突然肺を直接鷲掴みにされたような苦しみに、激しく息が乱れる。
先ほどまでとは比にならないほど世界がぐにゃりと悍ましく変形し、なす術なくへたり込んだ。
「あ、や………ち、違うっ………違うのっ、私はただ……聡人君といたく、て………っ!」
なんと滑稽なのだろう。今更取り繕ったところで、どうにもならないというのに。
いつから? どこからそんなふうに思っていた? 取り返しのつかないほどぐちゃぐちゃになった頭を抱えても、答えは取り出せない。
ただ一つ確かなのは、唯一綺麗なものだと思っていた──否。綺麗だと必死に思い込もうとしていたものは、何より醜かったということだ。
「ずっと、あの人の隣に…………それだけが私のっ………!」
否定し、言葉を重ねるほど浮き彫りになっていく真実。
彼の純粋な思いも、努力も。それらに対する感謝と、いつしか芽生えた自身の恋情すら、自己保身の道具にしようとした。
彼を自分の居場所にし続ける為に。自分が自分である為に。聡人君の幸せを何より願っているふりをしながら、当然のようにその未来を食い潰さんとした怪物。
それが、私の正体だった。
曝け出された醜態はあまりにも度し難い。
たとえ本心の全てでなかったとしても、ほんの一瞬魔が差しただけだとしても、夢を消し去るには十分すぎて。
やがて、必死に否定する自分とは裏腹に、ある一つの事実に気付いてしまう。
額縁に入れて飾っていた幼い日の光景は──事実、彼を自分のもとに縛り付けるための鳥籠でしかなかったということに。
「駄目……駄目よ、こんなの………こんな想い、一番、間違ってっ………あ、ぁあぁああ………ッ!!?」
じんわりと、思い出が黒く染まっていく。
拠り所とした言葉も、得てきた感情も。大事にしていた全てが穢れ、卑しく堕落する。
引き剥がされたヴェールの下から顔を出したのは、果てしない失望と自己嫌悪。
とっくの昔に訪れていたはずの破滅が音を立てて押し寄せ、いとも容易く心が押し潰された。
「う……ぷ…………っ!?」
喉の奥から別の形で迫り上がってきたそれに、口を押さえて部屋を飛び出す。
そのままトイレに駆け込み、必死に自分の中から悪意を追い出そうとして……そこで夢が終わりを告げた。
だが、真実が変わることはない。
宮内小百合の犯した罪は決して消えない。奪ったものは戻らず、壊れたものは朽ちるのみ。
初恋は枯れ果てた。私は私自身を、何より醜悪だと知ったが為に。
何度も、何度でも己の犯した罪を悔いて、私の現実は続いていく。
いつか終わりが来る、その時まで。
弱さを曝け出した少女と、弱さに負けた少女。
読んでいただき、ありがとうございます。
次回はイチャイチャに戻る予定です。




