8話
「きゃぁぁぁぁんっ!」
…ほら、彼女の声は煩くて苦手です…。
「ヒロト…っ!?」
「丸腰で前に出ないで下さい。危なかったじゃないですか。」
「あれくらい避けられたわよ。」
「アンナ殿が邪魔だったでしょう?」
「邪魔とか言わないの。」
「ヒロにゃん冷たい!好き!」
受付嬢はこのまま落としてしまっても良いかと思案していると下から声が掛かりました。件の大柄な男性とその仲間です。
降りてこいだ何だと騒ぎ立てているので姉上と受付嬢を屋根に残したまま降りる事にしました。
「この俺の斧をかわすなんて良い度胸じゃねぇか。名前くらい聞いてやる。」
「…貴殿に名乗る名など持ち合わせておりません。それよりもその壁の修理代、ちゃんと置いて帰って下さいね。冬が来る前に直したいでしょうから。」
「このガキ…っ。」
ヒロトと呼ばれるべきは小生ではありません。小生には行く先々で名前がありましたので特別思い入れのある名前は一つくらいしかないのです。母上にも姉上にも話せていないそれを、今名乗る訳にもいきませんでしょうし。
この辺りの冬はなかなかに厳しいというのに塀が壊れては冷たい風を凌げなくなります。騒がしいのは苦手なので代金を支払って早々にお帰り願いたい。…そう思ったのですが、何故か余計に怒らせてしまった様子。可笑しいですね…。
先程よりはほんの少し速くなった気がしますが、彼の振り回す斧は遅くて欠伸が出ます。どうぞ避けて下さいと言わんばかりの速度ではありますが、こんな大柄な男性を取り押さえる力は小生にはありません。
小生が避け続けるから更に頭に血が昇ったようで、滅茶苦茶な軌道で振り回し始めました。お仲間も建物の陰に避難する程に。
「…っ!いけない…ッ!!」
偶然だとは思いますが、散歩中の彼女へと斧が届きそうになるのを見て小生は急ぎ彼女を腕の中へと抱え込みました。慌てていた為に減速が間に合わず木に体当たりしてしまいましたが、彼女は無事のようで安心しました。
『…う…、大丈夫ですか?』
『あ、ありがとう…。でもまだこっちに…っ。』
『あぁ、この辺りで貴女に手を出して無事な訳がありません。ほら、お迎えです。』
この真っ白で美しい女性はボスの奥方です。桃色のリボンが良く似合う美人で誰もが虜になる程なのですがボスには勝てませんし、彼女もボスに夢中なので相手にされません。
ですが彼女の為ならと戦う男は小生だけではないのです。
ボスを筆頭に町中の、といえる程の猫が大柄な男性に襲い掛かります。野良猫の爪を侮ってはいけません。顔中引っ掻かれて斧を落とした男性は間抜け以外の何物でもありませんね。
ボスの一撃が目を傷付けたらしく、治癒士を求めて三人の冒険者は去っていきました。
…置き去りにされたあの斧を売ったら壁の修理代になるでしょうか…?
『無事だったか、ミュー!!』
『怖かったわ、あなた!』
『ありがとよ、俺のミューを庇ってくれて。』
『いえいえ、ミュー殿の為とあらば。』
『……やらねぇぞ?』
『……。あ、姉上たちを屋根の上に置き去りにしてしまっていました。小生はこれで…。』
背中でボスの怒鳴り声を聞きましたが、ミュー殿がボスだけだと言っているのを聞くと脈無しだと理解出来ます。
…小生も猫の身体だったら…っ。
避難して遠巻きに見ていた人たちも姿を現して壁の具合や周囲の被害状況を確認しています。
小生は再び屋根の上まで飛び上がって姉上に声を掛けようとしたのですが、頬を左右に引っ張られました。
……痛い。
「心配するでしょうが!すばしっこくてもアンタ戦えないんだからっ!」
「ヒロにゃんカッコイイ!益々惚れちゃう!」
「アンナ、ちょっと黙ってて。…良い?ヒロト。あんまり無茶して心配させないで?《女神の加護》があるのは分かってるけど…、すっごく心配したんだからっ。」
「…ふみまふぇん。」
「…うん、分かれば宜しい。…じゃあ、取り敢えず降ろしてくれる?」
「姉上だけで宜しいか?」
「アンナも。」
やはり駄目ですか。仕方がないので飛び上がった時と同じように姉上を抱えて、受付嬢は襟を掴んで屋根から降りました。
小生は幾つもの名前を持っています。行く先々でその家族の好みに呼ばれるので。だから名前に大した思い入れはありません。ですが、ヒロトと呼ばれるのは申し訳なく感じています。彼が生きる筈だった時間を奪ってしまっているような気がするので…。
ただ!「ヒロにゃん」と呼ばれるのはバカにされているようで気に入りません!猫と会話をしている時に、にゃーにゃー言っていて可愛いとか言うんです、この女性は。…しかし、母上や姉上にならそう呼ばれても気にしないと思うので、どんな呼び方だろうと彼女に呼ばれるのが不快なだけかも知れません。
「ヒロにゃん、すっごくカッコ良かった!お婿さんに来て?」
「丁重にお断り致します。」
「そんなとこも好き!」
「アンナ…。」
姉上と受付嬢を心配して町の人たちが集まってきました。受付嬢もなかなか人望があるようです。…小生は苦手ですが。
小生に流石勇者だとかなんだとか言ってきますが、猫の身体の方が身軽だったんですよ?このくらいで驚いて貰っては困ります。
爪も出し入れが自由ならもう少し戦えたかも知れないんですがねぇ。
そう思って手を見ていたら姉上にまた手を繋いで貰いました。…先程は怒っていた様子だったのに、機嫌が直ったのでしょうか?
受付嬢からの熱烈な言葉には聞こえない振りをして姉上と共に当初の目的でもある買い出しへと向かう事になりました。
小生は逃げないと言っているのに、姉上の手は強く小生の手を握っています。それ程に心配させてしまったのですね。
「姉上、背中がちょっと痛いです。」
「無茶するからでしょっ。…誰かからの攻撃って訳じゃないから《女神の加護》は発動しなかったのかしら?」
「帰ったら、薬を付けてくれませんか?」
「……仕方ないわね。」
痛い程に強く握っていた手から少し力が抜けました。姉上は頼られるのが好きなご様子。小生は甘えるのは食事を強請る時だけだったので、得意という程ではありませんが…姉上のご機嫌が直るなら幾らでも甘えましょう。
姉上には笑った顔の方が似合いますからね。…ご機嫌が悪いと、指導にも影響が出ますし…。