第78話 初恋の憂悶とセカンドプロポーズ
サンドラは、洗面台の鏡をじっと見つめた。絶世の兎脚族の美女が見つめ返している。
「―私は、何を期待していたんだろう…」
慣れない化粧を姉のエマに教わり、ドレスまで貸してもらった。化粧をすれば、変われると思ったのかもしれない。しかし、急に饒舌になるわけでも気の利いた会話ができるわけでもない。
初めはただのうざい男でしかなかった。マティスで出会ってからこれまで、時間を見つけてはやたらと話しかけてきた。
実際、祖国を滅ぼされて諸国を彷徨っている間も、声を掛けてくる者は結構いた。そいつらは、サンドラの容姿だけを褒めちぎり、己の欲望だけを果たそうとしてきた。力付くで押し倒そうとしてきたやつもいたし、拘束しようとしてきたやつもいた。無論、すべて槍の餌食にしてやったが。
しかし、あいつは違う。たまに容姿を褒めることはあるが、基本、他愛ない話ばかりする。
実家の商家のこと。家族のこと。5人兄妹の二番目であること。兄と折り合いが悪いこと。末っ子の妹と仲が良いこと。クロヴィスとは幼馴染であること。軍の生活が性に合ってること。お酒が好きなこと。絵を描くのが好きなこと………etc。
サンドラは、自分のことを話したかった。でも、どう伝えればいいかわからない。男性とどう接すればいいかもわからない。
「―いったい何をしているんだ、私は」
サンドラは、鏡の中の美女を睨みつけた。美女も負けじと睨み返してくる。
力が抜けたように顔を伏せた。しばらくじっとしていたが、やがて大きなため息を一つつくと、洗面台を離れた。
店内に戻ると、目の前にあいつがいた。壁に寄りかかってうつむいていたが、すぐにサンドラに気がついて、空色の瞳をくしゃっと崩した。
「偶然だな、サンドラ」
「……」
待ち伏せしていたのは明らかだったが、わざと気が付かないふりをして通り過ぎようとした。
「おいおい、無視すんなよ」
「……なんだ、いたのか」
「―何を怒っているんだ?」
キッとバスティアンを睨みつけた。
「何も怒ってなどいない。言いがかりをつけるな」
「悪ぃ悪ぃ。俺の勘違いだった。―そのう、なんだ。化粧すると一段と美人になるんだな」
「……」
「もしかして…俺のためにおしゃれしてくれた、とか?」
「そんなわけないだろう。有名なお店だと聞いたから、身だしなみを整えようと思っただけだ」
(なんで、思っていることと全然違うことを口にしてしまうんだろう)
「だよな。……うん。そりゃ、そうだ」
「こんなところで油売ってないで、早くエーヴのところへ戻ってやれ」
「あ? なんでここでエーヴが出てくるんだ?」
「仲がいいのだろう? 酔っぱらいエーヴは、このあと寝てしまうぞ。知っているだろうけど」
「仲って…直属の上司ってだけだよ」
「楽しそうに話していたじゃないか。キスまでして」
「別にいつもと同じだよ。エーヴがキス魔だって知ってるだろ? 酒グセの悪い上司の面倒を見るのは部下として当ぜ…ん?」
空色の瞳がきらめいた。
「……もしかして、妬いているのか?」
目に見えてサンドラは動揺した。うろたえていると言ってもいいほどに。
「わ、私は、何も…そんな…」
「なんだ。そうだったのか。だったら、心配すんな。エーヴとは、ほんとに上司以上の関係はないから」
「自惚れるな! お前のことなんか何とも思っていないし、誰と仲良くしようが知ったことではない」
「でも、少なくとも関心は持ってくれてるんだろ? エーヴとの仲を気にするくらいに?」
「……!」
サンドラは、バスティアンを睨みつけた。恥ずかしさとも怒りともわからない感情が沸き起こってくる。
どうしていいかわからなくて、その場から逃げるように歩き出した。
「待てよ、話はまだ終わっちゃいないぜ」
バスティアンが腕を掴んだ。邪険に振りほどく。
「触るなっ!」
「ごめん…」
悲しそうに空色の瞳が伏せられるのを見て、唇を噛んだ。
(―どうしてこうなるんだ。私は、もっと普通に…)
奈落の底に落ちたような気持ちを抱えて、踵を返そうとした、そのとき。
「―大変だっ!」
店内に響き渡る大きな声が耳を突き刺した。
「すぐ近くの住宅地区で火事だぞ!」
驚愕の急報に一瞬静まり返った店内が騒然とした。
サンドラは、とっさに走り出した。何も考える暇もなく体が勝手に動いていた。すぐ後ろをバスティアンがついてきたが、構わなかった。
通りを飛び出すと、すっかり日が暮れた夜空に煙が上がっているのが見えた。人々が右往左往している。火事の起きている方向へ向かうもの、逆に遠ざかろうとするもので、混乱を極めていた。
サンドラは、人をかき分け夢中になって走り出していた。
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シルヴィアたちは、部屋に戻ってきていた。
メインの肉料理である牛ヒレ肉のステーキを平らげ、残すはデザートのみとなったところで、あとは部屋でゆっくり味わおうということになったのである。
「―デザートはリンゴタルトですよ」
マノンが二人の前に整える。それと、ティーカップはリオネルに、平皿はシルヴィアの前に置かれた。
「美味いっ。これも手作りか?」
「そうですよ。エマさまに教わりながら一生懸命作りました」
「大したもんだ。お前の努力に敬意を表するよ」
「……ありがとうございます。褒めていただいて、嬉しいわ」
両手で頬を覆った。幸せそうにリンゴをほおばるリオネルに、こちらの方が幸せになる。
料理を褒めてもらうことが、こんなにも嬉しいことだとは、まったく知らなかった。
(こんなことなら、カトゥスのころからお料理を勉強しておけば良かった)
姉グロリアは、料理の達人だ。彼女に教わっていれば、もっと早くにリオネルに手料理を振る舞うことができた。
(ううん。これはこれで、きっと良かったのよ。おかげでエマさまと仲良くなれたし。リオネルに褒めてもらえたし)
綺麗にリンゴタルトを平らげ、満足そうにお茶を飲んでいるリオネルを、じっと見つめた。
「……ん? どうした?」
視線に気がついたリオネルが見つめ返す。
「……あの、旦那さま。プレゼントがあるのです」
「えっ…!?」
シルヴィアは、恥ずかしそうに、細長い箱を取り出した。
「思えば、旦那さまにはこれまで、いろいろなものをいただいてきました。一番大きなもので言えば、マティスの土地ですわ」
「あれは、ただの化粧代だ」
「身に余る贈り物です。それに引き換え、私は何もして差し上げていない。誕生日ですら、何もお祝いをせずに過ぎてしまいました」
「お互いさまだ。もともと俺たちは政略結婚で始まったんだし、誕生日祝いをする余裕も義理もなかった」
「だからこそ、旦那さまにプレゼントしたいんです」
頬を染めながら、箱を差し出した。
「……開けていいか?」
箱を受け取ったリオネルが尋ねた。
「もちろんです」
箱から、金のネックレスが出てきた。中央にサファイアが輝いている。その周りを囲むようにダイヤが散りばめられていた。
「こんなにいいものを…。ありがとう、シルヴィア。とっても嬉しいよ。―つけてもらっていいか?」
「はい」
シルヴィアは、いそいそと立ち上がり、リオネルの背後に廻った。リオネルの首に、燦々とそれは輝いた。
「わあっ。思ったとおり、お似合いだわ」
シルヴィアは、手を叩いて喜んだ。
「……これ、デュランのオーダーメードだな」
「あら。やっぱりわかります?」
「そりゃ、わかるさ。いつの間に注文していたんだ。まったく知らなかった」
「それは、秘密です」
「……ありがとう。宝物にするよ」
リオネルの笑顔が弾けた。呼応するように、シルヴィアも太陽のような笑顔を浮かべた。
「―先を越されたな」
「はい?」
「シルヴィア。ベランダに出ないか。夜景を見てみたい」
「……はい」
ベランダに出てみると、とても空気が冷たい。しかし、寒さを吹き飛ばすほどに、眼下には美しい景色が広がっていた。
今夜は、商業地区が昼間のように光輝いていた。真っ暗な工業地区とのコントラストが、ますます煌めきを際立せている。平和と繁栄がもたらしたリシャールの宝石箱であった。
「綺麗…」
シルヴィアは、うっとりと夜景を眺めた。
「綺麗だよな。俺が前に、ここから眺める景色が一番好きだと言ったのを覚えているか?」
「ええ。もちろん覚えています」
「昼間の景色も好きだけど、夜のほうが好きなんだ」
「わかります。こんなに素敵なんですもの」
「あの光一つひとつに、国民の幸せや喜びがつまっているんだろうな」
「きっと、そうですわ」
「シルヴィアにも、幸せや喜びを与えたい」
「にゃ…?」
いつの間にかリオネルは、夜景ではなくシルヴィアを見つめていた。
「シルヴィアを幸せにする。誓うよ」
「旦那さま…」
いきなりリオネルが片ひざをついた。手に小さな箱を持っている。
「だ、旦那さま…!?」
「結婚して一年近く経つけど、改めて言わせてくれ。―シルヴィア。俺と結婚してください」
【裏ショートストーリー】
サイノス「サンドラは、急にどうしたんだ?」
ミラベル「お、怒ってるようだったね」
ジュスタン「そんなもの、わかりきってるよ」
エーヴ「おらァッ、ジュスタンっ。もっと飲めェ」
サイノス「わかる、って、何が?」
ジュスタン「みんな鈍感だなあ。サンドラは、あの白銀の髪の青年に恋しているんだよ」
ミラベル「えっ!? サ、サンドラが? で、でも、バスティアンのこと、い、いつも迷惑そうにしているよ?」
ジュスタン「わかってないなあ。何とも思っていないなら、むしろ適当に表面だけの応対をしているさ。彼女は、真正面から彼を受け止めているじゃないか。意識している証拠さ」
サイノス「……よくわからん」
ジュスタン「何のために彼女が今日オシャレをしてきたと思うのさ」
エーヴ「……ざけんなァ。美人が何だってんだ! ルッキズム反対…」
ミラベル「バ、バスティアンのため…?」
ジュスタン「可愛いじゃないの。お堅いサンドラにも、あんな一面があったんだね。僕は好きだなあ」
サイノス「お前は、美人なら誰だっていいんだろうが」
ジュスタン「僕は、美の女神マイアの忠実な下僕なだけさ」
エーヴ「ジュスタンっ! てめえは女好きなだけだろーが…色情魔が、適当なこと…ぬかしてんじゃ…ねえ………」
ミラベル「あ〜あ。エ、エーヴったら、ま、また寝ちゃったよ」
サイノス「酔っぱらいは、放っておこう」
ジュスタン「……彼女も、不器用なことだね」
サイノス・ミラベル「……?」




