1-1「小さな来訪者」
鍋がぐつぐつと煮られる。
黒褐色の液体は煮詰められてとろみを帯び、そこから気泡が大きく膨らんでは弾ける。
ゆっくりと鍋底からヘラでかき混ぜる若い男の表情は真剣そのもの。小さく尖った耳が気泡の弾ける音を拾う。また気泡が大きく膨らみ、一拍の猶予を持って弾けた。
「……ニコラウスよ」
そこに、声がかかる。低い声だった。洞窟を反響するように、いくつも重なるような響きを含んでいる。
男――ニコラウスは顔を鍋に固定したまま一瞥した。
ぬるりと厨房に入ってきたのは、黒い影だった。影が立体化したようなそれは、凹凸で表情や衣服の皺まで再現されている。
彫りの深い顔に、尖った耳。短い髪と髭は一体化していて、顔周りは獅子のようになっていた。マントの下には軽鎧がつけられているが、影が身じろぎをしても、金属が擦れる音は一切しない。
影はニコラウスのすぐそばまで来て、ゆっくりと鍋の中を覗き込む。
「なにを作っておる?」
ニコラウスはため息をつきたくなるのをこらえた。
「ビーフシチューです」
「また作っておるのか? 昨日もではなかったか」
「昨日どころか、今日を含めて四日かけて煮込みました」
「四日!」
影が仰け反った。
「ずっと厨房にこもっているから何事かと思ったが……。飽きんのか?」
「飽きませんねえ。玉ねぎが飴色になるまで炒める過程も、じっくり弱火で煮込んで野菜が溶けていく様を見るのも、途中で入れた塊肉のスジがとろけてホロホロになっていくのを間近で見られるので」
ニコラウスがそう言えば、影は自分の耳を塞いで首を横に振った。
「ああ~~!! 待って! それ以上は言わないで! 余は食べられないのだぞ!?」
「話を振ったのはそちらではありませんか。ちなみに、今回はプティ・ビジューの四十七年産の赤ワインを使用しましたよ」
「大当たりの年のワインを使ったの!? ……ん? というか、その銘柄。余のワインセラーにもなかったか?」
「同じものを取り寄せました。なかなか見つからないので苦労しましたよ」
「……まさか、一本分入れたとか?」
「半分は晩餐用に残しております」
「感想聞かせて。復活の暁には飲みたいから。……ん?」
「いかがなさいました?」
不意に虚空を見つめて固まった影に、ニコラウスは問う。
「誰か来たようだ」
影の返答に、ニコラウスもわずかに眉を寄せた。
「変ですね。定期便は先日来たばかりです」
「様子を見てきてくれんかの?」
ニコラウスはため息をつく。
「はあ……わかりました」
刈り上げた黒髪を掻きたくなる衝動を抑えて、鍋を火からおろす。最後の仕上げで焦がすなんて、彼のプライドが許さなかった。
正面扉へ向かうニコラウスの後を影が追う。観音開きの扉の片方をニコラウスが開けた。
その際に見えた、外の様子。
(……はて?)
影は首をかしげる。
雪のように真っ白な髪が見えた気がした。
(老人がこんなところに来るなんて珍しい。……いや、そもそも、来れるのだろうか)
影はこの立地を思い出す。
南北に大陸を分断する巨大山脈〝白魔連峰〟。その中心にこの城はある。
己の足に自信がある登山家が、周囲を登頂するのはよくあること。だがそれ以外で誰かがこの山に登ってくることなどまずありえない。
しかも相手は老人だ。この急峻な山を登れるほどの足腰があるとは思えなかった。
影が思案していると、おもむろに扉が開いた。隙間からなんか悲鳴のような絶叫が聞こえる。
「……陛下」
「ど、どうした?」
「ちょっと助けてください」
「は?」
影は思わず間の抜けた声を上げた。
「話にならないんです」
と言いながら、後ろでバシバシと音がする。なんらかの攻撃をニコラウス得意の防御魔法で弾いている音だった。
「じ、じゃあ……」
影が恐る恐る、扉をすり抜ける。
そこにいる白い人物たちに、再び間の抜けた声を上げた。
「……は?」
老人ではなかった。
子どもだった。
見事な白髪の子どもが四人。互いを庇うようにして、それぞれの手をしっかりと握っている。
年のころは十歳か、あるいはそれに満たないか。髪はぼさぼさで、雑に切られた跡がある。全員が一目でわかるほど痩せこけていた。服には、ここまで登ってくる途中で付いたのだろう土汚れがあったり、一部が破れている。
足元からは何本もの黒い手が伸び、その先端を鋭利な刃物にしてこちらに突っ込ませていた。そのすべてが、ニコラウスが張る防御魔法によって弾かれ、霧散する。
時折放たれる雷も同様だ。青白い光と雷鳴が轟くが、ニコラウスも影も傷一つ付かない。
その安全圏から、二人は子どものうち一人に釘付けになった。
「なんだ……なんなんだよ、お前はっ!」
気丈に叫ぶその子は、声音からして女の子か。涙の痕が見えるオレンジ色の瞳は、影とニコラウスを睨みつけている。
だがそれよりも。
「……ニコラウスよ、あの手足……」
耳打ちすれば、ニコラウスも頷く。
「ええ。明らかに後天的なものです」
右腕が擬竜人。左腕は白雪熊。両足の黒い毛並みは、不純獣のものか。
獣人であれば、先祖返りで体毛などが両親と異なる場合がある。だがあの女の子はどう見ても人間の顔立ちをしていた。それに四肢を構成する魔物は、いずれも生息域が異なる。
「なんと、悍ましい……」
過程を想像するだけで、吐き気と同時に怒りが渦巻いた。子どもたちに聞こえないように吐き捨て、拳を強く握るだけに留められた己の精神力に感謝する。
「……ああ、そうか」
不意に、女の子が呟いた。黒い手が足元の影に収束する。
「先回りしていたのか。ここに来るってわかってたんだ」
ぶつぶつと言っているが、その意味がわからない。
影とニコラウスが顔を見合わせていると、その前でぱっと、女の子が繋いでいた手を離した。
「ダリア?」
目が開いているのか閉じているのかわからない男の子が、女の子を呼ぶ。それを無視して女の子が言った。
「いいよ、好きなだけ実験しろ。ただし、後ろの三人には手を出すな」
「ダリア!?」
男の子が再度、女の子の名前を叫んだ。他の二人――顔が同じなので、おそらく双子だろう――も鬱金色の目を見開く。
三人が手をほどき、女の子の腕や肩にしがみついた。
「ダメダメダメ! なに言ってるの!?」
「一番実験体として使えそうなのはあたしじゃん。マルクたちはまだ大丈夫」
男の子三人が首を激しく振る。女の子がそれに眉根を寄せる。首を回して彼らを見た。
それきり、彼らは黙りこくってしまう。
「……なにを勘違いしているんでしょうね?」
急に黙り込んで睨み合う子どもたちを見ながら、ニコラウスは影に囁いた。
「うぅむ……。不穏な単語のオンパレードだったし、どんな境遇だったかある程度察せてしまうが……」
生憎と、影もニコラウスも、年端も行かない子どもたちを拷問する趣味は持ち合わせていない。
かといって、ここで追い返しても子どもたちに行く当てがあるとは思えない。女の子の言うとおり、彼女の体を見て受け入れられる人間がどれほどいるだろうか。
「あっ、あの!」
男の子が急に声を上げた。
「ぼくがっ、実験体になります! だから三人は見逃して!」
「ばっか、マルク!」
女の子が咎める。だが男の子も止まらない。
「ぼくはもう目がありません! ほら!」
男の子が瞼を上げる。そこに広がる闇を見て、二人は悲鳴を辛うじて飲みこんだ。
「手も足もあげます! だから! だからみんなは傷付けないで!」
「やめろ、マルク!」
前に出ようとする男の子を、女の子が抱きしめるようにして止める。その隙に双子が前に躍り出た。
が、こちらもどちらが最前線に出るかで取っ組み合いを始めてしまった。傍から見たらじゃれているだけのように見えるが、先ほど聞いた内容が内容なだけに笑えない。
「……陛下。これ無視してもいいのでは?」
ニコラウスが小声で言った。眉間の皺が深くなっている。
「そのうち諦めて山を下りるでしょう」
だが影はそれに答えず、両手を胸の前まで上げる。軽く開いた両手を勢い良く叩いた。
パァン! と空気が破裂する音に、子どもたちもニコラウスもびくりと飛び上がる。
「――よし、決めた!」
影は満足そうに頷く。
「余は、そなたたちを飼うぞ!」
「「「……………………は?」」」
声は三人分。だが気持ちは五人分だった。
影の足元から、ずるりと巨大な黒い手が伸びる。
あっ、と気付いた時には、子どもたちはその手に包み込まれていた。
「わっ、わっ!?」
「やめろ、なにをするっ!?」
「よーし、そうと決まればまずは風呂だ! ニコラウスよ、特急で子どもたち用の食料と衣服を手配してくれ。あと、この子らのために食事を用意してくれんか? あっ、さっきのビーフシチューとかどうだ?」
などと言いながら、影は鼻歌交じりに城の中に戻っていく。黒い手の中の子どもたちは、「やめろ、離せ」とか「ごめんなさい」とか叫んでいる。黒い手がボコボコに歪むほど暴れているが、びくともしない。中で雷鳴が響いても、かすかに光が明滅しただけ。
一人残されたニコラウスは、口をぽかーんと開けたまましばらく固まっていた。
その体がやがて、小刻みに震える。
「…………は、あ?」
頬が引きつる。喉がようやく震える。
肺に目一杯空気を吸い込んで。
「はああああああああ――――――――――っ!!??」
鳥の一団が引き返すほどの声が出た。




