マグノリア5
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「マグノリア殿下」
踵を返して自分で扉を開けようとしたが、手首をアイザックに掴まれた。体に甘い痺れが走るのを必死に気づかないフリをする。
「いい加減にしないと、人を呼ぶわよ」
「……人を呼んで、こうして二人きりなのを見られたら立場が悪くなるのは殿下の方です。私としては望むところですが」
イライザと話すつもりだったので、侍女は置いてきてしまった。どうせ異母兄がうまいこといって侍女は取り込んでいるのだろう。
やっぱり、異母兄は他国に婿入りさせようか。
クリスティナに令息でも差し向けて浮気させればいいだろうか。異母兄のことを今日ほど邪魔だと思ったことはない。
あんな卑怯なことをしてもクリスティナに受け入れられて、あの男は有頂天になって頭の中身が砂糖菓子になっているに違いない。
なんて幼稚、そしてなんて妬ましい。
マグノリアは周囲の命の危険を考えなければいけないのに、あの異母兄は呑気過ぎる。
王妃派の反逆があったらどうするのか。貴族たちをどれだけ味方につけても安心できない。帝国は物理的な距離があるから少し安心できた。でも、母国に戻ってきたらまた緊張の連続なのだ。
手首を掴む手を振り払おうとしたが無理だったので、マグノリアは仕方なくアイザックに向き直った。
アイザックは片手を掴んだまま、マグノリアを囲い込むように扉に手をつく。
彼の長い銀髪が光を受けて輝きながら降りかかる。
婚約していた時、こんなに近づいたことはなかった。こんなに近いなら心臓の音がバレるのではないか。
「あなたはもう自由なんだから、私に執着する必要も罪悪感を抱く必要もないわ。婚約しても命の危険のないご令嬢と付き合って結婚しなさい」
彼の顔が少し歪む。
アイザックは記憶を失い、罪悪感を抱いてマグノリアに執着してしまっているだけだ。
「私が殿下のことをいまだに好きでもですか?」
「気のせいよ。いつまで過去に囚われているの」
「それは……殿下の方でしょう。いつまで私を頼りない何もできない毒に倒れる男だとご覧になっているのですか」
反論しようとしたが、アイザックが手首を握る力が強くなる。
「記憶を失って思い出さない可能性があったとはいえ、あなたはすぐに婚約解消して帝国に行かれました。そんなに私のことが……必要なかったのですか」
「私のせいであなたが苦しんだり、ましてや最悪の事態になったりするのが嫌だったのよ」
要らないわけじゃない。ただ、守りたかった。それにはマグノリアが母国にいない方が良かった。
「あなたは平気で私を置いていける人です。魅了を使う令嬢が現れて記憶を取り戻して、ギデオン殿下を通じてあなたを呼び戻しても、あなたは相変わらずだ。平気で私に他の女と一緒になれと言う。そして、自分はどうでもいい男と結婚すると」
「それがあなたにとって最善で幸せだわ」
「私の最善で幸せはあなたの隣にいることです。あなたがどうでもいい男と結婚するのを指をくわえて眺めていることではありません」
「あら、私のことを忘れて、しかもこの半年間コソコソしていたのにそんなことを言うのね」
「私はただ……もうあなたに置いて行かれたくないんです。マグノリア殿下」
アイザックは悲しそうに笑うと、マグノリアの肩口に顔を押し付ける。
清涼感のある香りが彼からした。やがて密着する彼の温かさがマグノリアの体に流れ込んでくる。
失いたくないと置いて行かれたくないは、きっと同じなのだろう。
アイザックのことは大切だ。そうでなければ、彼が毒を盛られてあれほど傷つかなかった。
母で傷ついたのに、まんまとまた大切なものを作って傷ついた。今でも怖いし、恐ろしい。
それでも、彼から好意を向けられるとたまらなく嬉しい。表情に出していない自負はあるが、心臓までは裏切れない。
異母兄はクリスティナに許されてきっとこんな気分だったのだろう。
でも、マグノリアにはやることが残っている。王妃の件もだし、国王もだ。国王が上手く王妃を制御していれば、母は死ななかった。何もかも国王が中途半端だったから母は死んだ。
王位を継いでしばらくは生かしておくが、晩年は絶対に国王を苦しめてやる。王妃もそれまで生かしておいて仲良く処刑でもいいかもしれない。
「それに、マグノリア殿下は私を置いて行ったのですから、五年間懺悔しないといけないのではないですか?」
どろどろとした復讐に思考を持っていかれていると、アイザックはそんなことを言い出した。
半年間の懺悔はたまたま思いついたのだ。王妃を調べるためと、クリスティナの魅了を解く時間稼ぎにちょうど良かったし、こじつけもできた。
でも、たまたまでも思いついたということは……ずっと心の中で気づかず燻っていたものなのかもしれない。
王妃にも国王にも懺悔をさせたい。彼らには母に対してしてほしい。
「それはあなたを守るためよ……大体、あなたは私を忘れていたのだから、あなただって五年間懺悔した方がいいんじゃない?」
好きな人に毒の影響とはいえ忘れられたのはやはりショックだった。利用して結果的にいいようにはしたが、結果論だ。アイザックにとって自分は忘れて良いような存在だったのだと思ってしまう。
「五年間、ずっと自分が自分ではない感覚でした。何か一番大事なものが欠けているような……それが殿下のことでした。懺悔ならいくらでもします」
アイザックが触れている部分が甘く痺れている。怖いのに、この感覚に体と心が喜んでしまっている。
相変わらず肩口に頭を置いているアイザックの髪に触れた。
髪の次は耳に触れ、頬に手を滑らせて力を入れて上に向かせる。
アイザックの顔が肩口から移動して目の前にある。
彼になんと言えばいいのか分からない。アイザックが忘れたのは、マグノリアのせいだ。王妃はマグノリアを不幸にしたかったのだから。でも、同時に忘れたアイザックだって悪いと思ってしまいたい。懺悔してと言ってしまいたい。
でも、アイザックに関することのすべてが恐ろしい。
また彼が倒れたらと想像するだけで震えがくる。
これまで何かを決めることは簡単だった。王妃と国王のことは酷く恨んでいるが、アイザックとイライザ以外はどうでも良かったから。
「どうでもいい男でいいなら、私にしてください」
マグノリアの思考を読んだかのような言葉に、彼の青い目を見つめながら目元を撫でる。
イライザは大丈夫だ。ルーフォスだっているし、彼女は強い。
でも、アイザックのことだけは怖い。彼に関することを自分が決めてしまったら、また彼を失いかけるかもしれない。そうなったらどうすればいいの。情けない王女になり果ててしまうじゃない。
「殿下はもう一人で背負われる必要はありません。私を守るのではなく、一緒に背負わせてください。ウェルズ公爵家は味方につけておいた方がいいですよ」
「……私は、あなたに関することだけは決められないの。怖いから」
他のことなら何も迷わず非情にでも決められる。でも、アイザックのことだけは無理だ。迷って決められない。ずっと好きで大切だったから余計に。
「それなら、私に委ねていただいてもいいですか?」
委ねる、か。
母が亡くなってアイザックが毒を盛られて以降、誰かを信じて委ねるなんてしたことはない。
どうせ誰かが裏切る、大切なものは失う、とばかり思っていたから。
「私は国王にもこれから復讐するつもりだから……その辺りも分かっておいて」
「理解しています。きっとマグノリア殿下は戻ってこられると思っていました。だから呼び戻すように進言しましたし、ギデオン殿下の演技にも協力もしたんですよ」
アイザックの指がマグノリアの顎にかかる。
異母兄を誘導したのは、アイザックだったようだ。異母兄が国王に言って自分を帰国させたのだとばかり思っていたが、記憶を取り戻したアイザックが裏にいたとは。
これは予想していなかったと思いつつも、この部屋にイライザがおらず嵌められたと思った時とは違って唇は弧を描いた。
「五年前は私がすべて勝手に決めたから、今回はあなたに委ねるわ。あなたが決めて」
ほんの少し声が震えた。誰かを信じて委ねることがマグノリアにはこれほど難しくなってしまった。でも、アイザックにだけは委ねられる。
「じゃあ、決まりですね」
アイザックは笑うと、顔を近づけてきた。
掴まれていない方の手をアイザックの背に回す。手まで震えていたが、アイザックの熱を唇に感じると徐々に震えは収まった。
震えが止まるまでの長い口付けを終えて、アイザックが顔を離す。
「ようやくあなたがこの腕に戻ってきました」
「アイザックは……バカよ。私のことなんて忘れて自由になれば良かったのに」
「あなたがいない世界は、すべてが不自由でした」
「後悔しても知らないから」
「殿下に後悔はさせません」
帰国してから、アイザックの腕の中でマグノリアはようやく肩から力を抜いた。




