トラウマ
都造朱鷺という名は、もちろん偽名である。父、夕鶴帝の世継ぎとして生まれた朱鷺は、時宮として、弟の鷹宮と共に、健やかに育った。
時宮、四歳の時——。
宮中は仁寿殿にある国宝級の屏風に落書きをした、時宮。
「こらあああ! 時宮ぁー! そなたまた屏風に落書きしおってからにぃ!」
「宮はただ、宮の花押を、のちの世にのこしただけぞ~」
よちよち歩きの鷹宮と一緒に逃げる時宮が捕まり、父、夕鶴帝の鉄拳が下った。
「ぐぬぬ。がんこおやじめ~」と、半泣き状態の時宮が悔しがる。
「おうおう、可哀想に。こちらへおいで、時宮」
「ばばさま~」
そういう時は決まって、祖母(夕鶴帝の母后)・桐緒の上が、時宮を優しく慰めた。それに素直に甘える時宮に、桐緒の上が、薄っすらと笑う。
それでも時宮の悪戯(夕鶴帝の背に“助平帝”というビラを貼りつけたり、竹で作った水弾きを公達の顔にお見舞いしたり)がやむことはなく、年を重ねても、鷹宮と共に、誰彼構わず宮中内を引っ掻き回した。面白おかしく生きることを望んだ時宮だったが、ある日を境に、その運命が大きく変わった。
時宮、九歳の時——。
宮中にて菊見の宴が行われたその日の夜、唐突に桐緒の上から夜這いを受けた。
「婆様っ……、いったい何をっ……」
「可愛い宮よ。そなたの子が欲しいのじゃ」
すでに臣下の者らには事情を伝えていたのか、御台の周囲を警護する者らは、誰も時宮を助けはしない。
「なりませぬ、婆様っ! 時宮は斯様なことなど望んではおりませぬっ……」
今までずっと優しかった祖母からの誘いを、時宮は全身で拒絶した。突き飛ばされた桐緒の上だったが、病にうなされるように、時宮に迫る。
「おやめくだされっ……!」
閨事に興味を抱く歳になりつつあった時宮であったが、祖母と契るなど、考えられなかった。今度こそ拒絶を知った桐緒の上が、心底憎しの表情で、時宮を見上げる。
「おのれっ……! そなたの寵愛を受けられぬというなれば、私にも考えがあるっ……! 時宮よ、後悔しても遅いでな! 今に絶望の淵に突き落としてやろうぞっ……!」
恨み節をぶつけ、桐緒の上が寝所を後にする。時宮は今までずっと自分の味方であった祖母の変貌ぶりに、幼心にトラウマを植え付けられた。呼吸が乱れ、鬼のような祖母の形相を払拭しようとするも、恐怖心が後から後から押し寄せてくる。
「くそっ……」
ぐっと泣くのを堪える時宮は、その夜、一睡も出来なかった。
時宮の実母——紫陽花宮は、弟の鷹宮の産後の日和悪く、亡くなっていた。だからこそ祖母に甘えていただけに、この後、時宮が宮中で悪戯を仕掛けることはなくなった。
「——あにうえ? お顔の色がすぐれませぬが……」
愁いの表情で見つめてくる鷹宮にも、「……大事ない」とだけ伝え、事の真相は誰にも話せなかった。その頃には、父・夕鶴帝は、絶世の天女との離別もあり、そちらもそちらで、政を投げ出すほどの傷心中であった。誰にも頼れない時宮を、更なる絶望が襲う。
例の一件後、祖母・桐緒の上が懐妊した。それには息子である夕鶴帝も絶句したが、時宮の狼狽はすさまじかった。
(否否否っ……! あの時、俺は何もしていないぞっ……)
そう心中で叫ぶも、例の件があまりにショック過ぎて、記憶が曖昧なところもあった。
「いや、俺の子のはずがないっ……!」
必死に記憶をたどり、それでもやはり、身の潔白を信じてやまない。
「……ならば、いったい誰の子ぞ?」
そうして生まれた子が、後の鷲尾院である。
順当にいけば、次なる帝は、時宮であった。東宮としての地位も確立していた矢先、時宮が心底憎い桐緒の上によって、強引に鷲宮へと皇位が継承されるよう仕向けられた。その頃には、夕鶴帝は病に伏せがちで、その寿命も残り僅かであった。
「——鷲宮を次なる帝へ即位させること。さすれば、そなたを鷲宮の摂政としよう、春日道久」
左目に繃帯を巻く鷲宮を担ぎ上げる桐緒の上が、高みから平伏する道久に告げる。
「……は」
隣には盟友、三条晴政の姿もあり、「後見人が役を、三条晴政に命ずる」と告げた桐緒の上に、「……御意」と、晴政もその任を受け入れた。それを物陰から見ていた時宮だったが、何の策も打ち出せぬまま、東宮から臣籍の地位に落とされた。
「何たる横暴よっ……!」
憤る鷹宮であったが、「——そなたには、東宮の座を授けよう」と、どこまでも時宮を屈辱の底におとさんとする桐緒の上の甘い蜜に、「ぐっ……」と、鷹宮が怒りを抑える。
そうして時宮が十五歳の時、父、夕鶴帝崩御の後、弱冠五歳の鷲宮が、帝に即位した。摂政、春日道久。後見人、三条晴政。二人によって、鷲尾帝の初勅が宣言された。臣籍となった時宮が、幼子である叔父の鷲尾帝に平伏する。
「我々臣下一同、主上が安穏が世のため、身を尽くし忠誠を誓う所存にございまする」
真摯な態度を見せる時宮に、鷲尾帝の冷たいまなざしが向く。
「朕を崇めよ。朕を称えよ。朕こそが、この国が神ぞ」
幼子の言葉とは思えず、密かに道久と晴政の今後を案ずる視線が交差する。頭を垂れる時宮が、ぐっと拳を握るも、これから見目麗しい者を悉く虐げる悦びに、その日初めて鷲尾帝は、笑うという仕草を見せた。それには、横目で見ていた道久と晴政も、うすら寒いものを感じた。