十年越しの紅い奇跡《後》
『悠馬君、この光景は秋だけなんだよ。秋だけ……こんなに綺麗に見えるんだ』
『……なんでですか?』
『それはね……』
あの日、その会話を境にお嬢様は僕の前から姿を消した。
最後に見たお嬢様は紅の世界を背にして、笑顔で僕へとこう言ってくれた。
『悠馬君……悠馬君に……これからの人生が幸福で満たされていますように……』
お嬢様はそのまま……僕の目の前から突如として消えてしまう。
まるで煙のように。最初から僕の隣には誰もいなかったかのように。
『お嬢様……? お嬢様?』
一人、世界に取り残されたような気分に陥りながら、お嬢様を探し続けた。
教会の中は勿論の事、和香な村中も隅々まで。でも結局お嬢様は見つからなかった。
それどころか、シスターさんをはじめ……正彦さんまでもが、お嬢様の事を忘れてしまっていた。
まるで……お嬢様の存在、それ自体が……消えてしまったかのように……。
※
九条さんが教会内へと足を踏みいれると、まず反応したのは僕の弟と妹達。
勿論僕達は血は繋がっていない。皆何かしらの事情で一人になってしまった子供達。
「ぁ、悠馬にぃが彼女連れてきた! しかも美人!」
まだ小学生の弟がそう言うと、それを真似するかのように他の子達もテンション高めに煽ってくる。
彼女……彼女か。
九条さんが僕の彼女になってしまった日には……僕は高校の男子達から拷問を受ける事になるだろう。
一体どんな手を使って九条さんを落としたのかと、嫉妬心に支配された奴らにボッコボコにされてしまう。
「五月蠅い五月蠅い、このお姉さんは僕のクラスメイト。恋人とかじゃないから……」
「えー……つまんなーい」
つまんないとは何事だ。
こうして遊びに来てくれたというのに……!
「おや、お帰りなさイ、悠馬」
すると奥のキッチンから シスターさんが顔をのぞかせてくる。
そのシスターさんを見た九条さんは声も出せない程に驚いていた。
シスターさんが……美人すぎるから。
「こ、こんちてぃあ! は、はじめもひゃて!」
カミカミのセリフで挨拶する九条さん。
大丈夫だ、落ち着くんだ。シスターさんは君を取って食べたりしない。
「ど、どういう事よ悠馬君……! あんな綺麗な人が居るなんて聞いてないわよ……っ」
小声で僕の耳元で囁いてくる九条さん。
うぅ、なんか……耳元がむずむずする。九条さんが耳元で喋りかけられると……なんだかいい香りが……。
「おねーちゃん、あそぼー」
その時、まだ小学校に上がったばかりの妹が九条さんの手を引いて連れて行ってしまう!
あぁ、僕の九条さんが……いやいや、僕のってなんだ。九条さんは友達……ただのクラスメイト!
「あら、何して遊んでるの? 折り紙?」
「うん、千羽鶴折ってるのー」
「千羽鶴?」
広間の机は折り紙で一杯に。
それもその筈。今僕達はある子供の為に毎日、折り鶴を折り続けている。
「ぅ……私、折り鶴の作り方知らないわ……」
「じゃあ教えてあげるー」
妹達にレクチャーを受ける九条さん。
むぅ、九条さんを取られてしまった。まあいい、僕は夕食の手伝いでもしよう。
そのまま妹達に九条さんを任せ、僕はキッチンへと。
エプロンを付けてシスターさんの隣に立つ。
「オヤ、彼女は放っておいていいんですカ? 落とすチャンスでス」
「ぅ……シスターさんまで……。九条さんはそういうのじゃ……」
「九条……?」
むむ、なんだかシスターさんが九条さんの名前に首を傾げた。
もしかして九条さんの名前に聞き覚えがあるのだろうか。
そりゃそうか……九条さんの家は超金持ちだ。
IT企業を立ち上げ、今現在波に乗りまくっている。九条さんはそんな超大金持ちの一人娘なのだ。
「シスターさん、九条さんの家はレクセクォーツっていうIT企業の……」
「あぁ、成程……。それでですカ。なんだか何処かで会ったような気がしたのデ」
まあ、九条さん自体も雑誌で取り上げられてたしな。
超大手のIT企業の社長の一人娘というだけでも凄いのに、本人はアイドル並のルックスの持ち主。
まあ、僕はクラスの男子に教えてもらうまで全く知らなかったが。
さてさて、本日の夕食のメニューは……クリームシチューだろうか。
鍋の中を確認せずとも香りで分かる。
「シスターさん、付け合わせに何か作りましょうか」
「そうですネ、実はいい真だらが手に入ったので……ムニエルでも作りましょうカ」
了解ッス、と材料を冷蔵庫から取り出す僕。
真だらのムニエルにクリームシチューか。ついでにガーリックトーストも作ってしまおう。
九条さんに……僕とシスターさんの料理で再び悶えさせてやる!
※
広間のテーブルの上の折り紙を一旦片付け、食事の用意を。
中央にクリームシチューの入った大きな鍋を置き、子供達と九条さんのそれぞれの席に真だらのムニエルとガーリックトーストを。
「な、なにこれ……え、これ悠馬君が作ったの?」
「ぁ、うん。シスターさんに手伝ってもらったけど……」
「すごいいい香り……」
フフ、クンクン匂いを嗅ぐでない。
別にここではいいけど、他所でやったら失礼になりますわよ、お嬢様。
「ハッ! つ、つい!」
九条の仕草に皆笑顔に。
今日は一人多いだけなのに、なんだかいつもより賑やかに感じる。
食事を並べ終え、シスターさんと僕も席に付き……みんな揃って祈るように手を組む。
九条さんも遅れて手を組み、チラッチラとシスターさんに目線を送っていた。
「天におられる私達の父よ」
シスターさんの食前の祈りの言葉。
皆一緒に、手を組み目を伏せる。
「皆が聖とされますように」
この祈りの言葉は全て暗記している。
あの日……十年前のあの日以来、この祈りを捧げるたびに僕はお嬢様の事を思いだしていた。
お嬢様は僕にとって……救世主……命の恩人なのだから。
「みくにが来ますように」
九条さんも皆に合わせて祈りを捧げていた。
チラッチラと目線が鍋に注がれているのが分かる。
お腹が空いているんだろう。
僕も……猛烈に空いている。
「御心が天に行われる通り、地にも行われますように」
どこからか隙間風の音が聞こえた。
まるで不気味なコーラスのようにも聞こえる。
この教会の作りは特殊で、どの部屋に居ても広間の声が聞こえる構造になっている。
つまり僕達のこの祈りの言葉も……全ての部屋へと届いているのだ。
今、ベットの上で眠るあの子にも……聞こえているだろう。
「私達の日ごとの糧を今日もお与え下さい」
その子は事故で意識不明の重体となったまま、眠り続けている。
眠り続けている原因は一切分からない。
体にも脳にも異常は見られない。でも目を覚まそうとしない。
「私達の罪をお許し下さい。私達も人を許します」
そんな彼女を、僕は勝手に救いたいと思っていた。
当然僕には何も出来ない。僕は医者でも何でもない、ただの高校生だ。
人を救うには、確かな知識と技術が必要だ。
僕には……何も出来ない。せいぜい千羽鶴を折るのが……関の山だ。
「私達を誘惑に陥らせ得ず悪からお救い下さい」
それでも僕は彼女を救いたい。
あの時、お嬢様が僕を救ってくれたように……
今度は僕が……彼女を救いたい……
こう思うたびに……僕は自分の無力さを噛みしめる。
そして卑怯者だとも……。
「アーメン……」
無力だと感じていて、何もしない僕は何様のつもりなんだろうか。
僕は……
「……悠馬君?」
九条さんに名前を呼ばれ、目を開けると明るい食卓の光景が飛び込んできた。
「……泣いてるの?」
「泣いてない……」
そう、これは汗。
僕は汗っかきなのだ!
「……ぁ、ぅん……そう」
九条さんは深く詮索せずにいてくれる。
よしよし、ここは……感謝の意を示そう。
「九条さん、シチュー注ぐね。アボガド好き?」
「え? えぇ、大好きよ」
じゃあタップリと……アボガドを注いでやろう!
「悠馬、アボガド嫌いだからっテ……九条さんに押し付けないように」
っぐ!
いきなりシスターさんにバレた!
で、でも九条さんが好きなら仕方ないじゃない!
一杯アボガドあげる! 僕の分も!
「あ、ありがと……じゃあ悠馬君にはニンジンあげるわ」
「……九条さん、ニンジン食べれないの?」
ジ……と子供達の目線が九条さんへと注がれる。
え、コイツいい歳してニンジン食べれないの? という目線が。
「悠馬君だってアボガド食べれないじゃない! おあいこよ!」
「そうだね、おあいこだね!」
「二人トモ、好き嫌いせずに食べなさイ」
シスターさんの一言で沈没する僕達。
弟や妹達に見守られながら、僕らは苦手な物を口いっぱいに頬張った。
※
食事を終え、僕は九条さんと共に……とある一室へ。
そこにはベットに眠る僕の妹の一人。今年で十歳になる……妹が眠っている。
「この子の為に……みんなで鶴を折ってたのね」
「うん。可愛いでしょ」
僕は彼女の足元へと周りマッサージを始める。
何か僕に出来る事があるとすれば、このくらいしかない。
「この子……食事とかは?」
「点滴と……あとはスープとかなら飲めるよ」
むむ、足の爪が伸びてきたな。
爪切り……爪切り……はどこじゃ。
「……悠馬君、爪切りなら私持ってるわ」
「むむ、じゃあ……お願いしてもいい? 九条さんの方が綺麗にしてくれそうだし……」
九条さんに足の爪切りを任せ、今度はハンドマッサージを。
手の方の爪は綺麗だ。妹達が切ってくれたのだろう。
「この子……お医者さんには……」
「週一で見て貰ってるよ。この村にも元医者って人も居るし……」
「気を悪くしたらごめんなさい、入院とかは……出来ないの?」
「出来るよ……でも……」
彼女の体には異常はない。
ただ目を覚まさない。
病院の医師達も必死に原因を探ろうとしてくれた。
だが結局、彼女が目を覚まさない理由は分からなかった。
脳にも体にも……何処にも異常は見られない。
九条さんは彼女の爪の手入れを丁寧にしてくれる。
むむ、爪にやすり掛けてるのか……なんかこの音……眠くなる……。
「……悠馬君? 寝ちゃったの? あらあら……世話が焼けるお兄さんね」
※
……ここは……何処だろう。
コンクリートに囲まれた真四角の空間。
あぁ、ここは……昔、度々見ていた夢の中だ。
僕はひたすらここで……
「よう、元気か?」
「ん? おうふ!」
突然声を掛けられ、思い切り仰け反る。
そこに居たのは一匹の柴犬。
かなり渋い声で話しかけられた。
「な、なにやつ!」
「フフゥ、我が名は柴犬マリア。久しぶりだな、小僧」
小僧て。
というか久しぶり? 僕は喋る柴犬なんかと会った事ないんだけども。
「俺は知ってるぞ。椛と良くお前の夢にお邪魔してたからな」
え……
今、椛って……。
それって九条さんの事……?
「俺が言ってる椛は……お前が七歳の頃に出会った方だ」
「……!」
僕は思わず柴犬を逃がさまいと両耳を摘まんで拘束。
今、なんて……なんて言った!
「お前は知りたいんだろ? なんで椛が突然消えてしまったのか」
「知りたい……知りたい……! っていうかお嬢様……椛さんは何処に……」
「教えてやるから耳から手を離すのだ、少年。なんだか痛気持ちい」
言われた通り手を離し、柴犬マリアと目線を合わせるようにしゃがみ込む。
すると地面についた手に……なにか水のような……
「え? 何……これ……」
血? なんでこんな……真四角の空間の地面は真っ赤な血で満たされている。
どうして……
「……え?」
その真四角の部屋の隅。
そこに……一人の女性が横たわっていた。
胸に……包丁が突き立てられている状態で……。
「……なんで……お嬢様……」
その女性こそ……あの日、消えてしまったお嬢様。
胸には包丁が突き刺さり、そこからは血が……流れ続けている。
「ぁ、あぁぁあ! あぁぁ!」
「落ち着け……るわけないか。憶えてるか? 十年前、スーパーで椛は親子を庇って男と対峙した事を」
「ち、ちが……違う……こんな……こんなの……違う!」
そうだ、違う。
あの時、お嬢様は男を投げ飛ばして……あの親子を助けて……
「そうだ、だがもう一つ、違う現実がある。椛はあの時、あの男に胸を刺され死んだ」
「違う……死んでない! 椛さんは……ちゃんと生きて……」
そうだ、生きていた。
あの後もちゃんと……絶対、絶対に生きてた。
「あの時、椛は心底自分の人生を呪った。今までなんて無駄な時を過ごしてきたんだ、とな」
「なんで……嘘だ、そんなの……嘘に決まってる……」
「椛はお前の為に現実を捻じ曲げたんだ。悪魔と契約したと言ってもいい。お前を助けるまでの間、この世界に留まる事を望んだんだ」
そんな……そんな話が……
「あるさ。現にこうして……椛はこの狭い空間で現実を捻じ曲げたむくいを受け続けてる。奇跡にはそれなりの代償が必要だ」
「むくい……そんな……僕は……」
「お前が気に病むことは無い。全て椛が望んだ事だ。そんな顔してると……あいつがむくわれないぞ」
嘘だ、嘘だ、嘘だ
こんな話ある筈がない
あって良いわけがない
椛さんが……僕を助ける為に……
「俺は椛に言ったぞ。お前の自傷癖が治らなくても、それなりに生活は出来るってな。でも椛は満足できなかったんだろうな。椛は自分の命を使って奇跡を二度起こした。現実を捻じ曲げる事と、お前の治る筈の無い自傷癖を治した事」
椛さんが……命を使って?
そんな……嘘だ……嘘だ……。
「お前が救われた時、椛の役目は終わった。だから消えたんだ。存在もろともな。椛は最初から居なかった事になってる。世界を捻じ曲げたんだ。それくらいの罪はある」
罪……?
そんなの……絶対に間違ってる……
なんで……僕なんかを……僕の自傷癖を治すためなんかに……
「あぁ、断わっとくが……椛が世界を捻じ曲げた時、お前の自傷癖の事なんて知らなかったぞ。ただお前が放っておけなかっただけだ。お前を残して自分だけ死ぬのがどうしても嫌だっただけだ。それだけに悔しかったんだろうな。自分の不甲斐なさが。十九年間、無駄に生きてきた事が」
「違う……! 無駄なんかじゃない! お嬢様は……お嬢様の人生が無駄だったなんて……」
「そうだな。存在自体使ってお前を救ったんだ。無駄では無かった」
存在自体……
お嬢様は自分自身を犠牲にして……僕を救った……?
嫌だ……ダメだ……そんなの……絶対に……
「ちなみにここは椛の夢の中だ。口止めされているから詳しくは言えんが……お前が飛行事故に遭ってから、椛に救われるまで……お前もここにずっと居たはずだ」
「僕も……」
あぁ、それは分かる。
だって僕は幼い頃、ずっとこの空間に居る夢しか見なかった。
お嬢様が消えたあの日以来……この夢は一切見ていないが……。
「ところで、何故わざわざ俺がお前にこの話をするか分かるか? こんな話をしても椛が可哀想なだけだ」
「…………」
分からない……この柴犬が……何故わざわざこんな話をするのか……
「実はと言うと……椛は既に生まれ変わってる。更にいえば、世界を捻じ曲げた罪は償い終わってる。しかしアイツは一向に目を覚まそうとしない」
……生まれ変わって……る?
「俺がわざわざ出張ってお前にこんな話をしてるのも、いい加減、あいつを起こす為だ。椛は未だに迷ってるのさ。自分が目を覚ませば、またお前が不幸になるんじゃないかってな」
「どういう……事?」
「あいつの勝手な妄想だ。自分が目を覚ませば、その代償にお前がまた不幸になるってな。俺は何度も説得したぞ。んな事にならねえからさっさと起きろってな。だが頑として奴は目を覚ますのを拒否してやがる。だからお前から言ってやれ」
椛さんは……生まれ変わっても僕の事を……考えているのか?
なんて……なんて……
「ここで叫べばアイツにも聞こえる。言ってやれ、お前の気遣いなんざ大きなお世話だってな」
そうだ、確かに僕は椛さんに救われた。
でも……でも……生まれ変わって、新しい人生歩もうとしてるのに……
それでも僕の事を考えてるって……
「僕は……僕はもう子供じゃない! いい加減、子離れしてください! っていうか僕はあなたの子供じゃないし!」
「そうだ! その通りだ! もっと言ってやれ!」
「だいたい……料理も掃除もろくに出来ないくせに! なんで世界捻じ曲げるなんてエキセントリックな事しちゃうんですか! 僕は……僕は……あなたが傍にいてくれるだけで……幸せだったのに……」
「その通りだ! っていうかお前、恋する乙女みたいだな」
「五月蠅い犬! っていうかお前もお前だ! この十年間……どれだけ椛さんの事想ってたか……もっと早く教えろよ! 椛さんは何処にいるんだ!」
「すぐそばだ。椛の生まれ変わりはお前の傍の寝坊助だ」
……まさか……
「あの子は、お前の世界では椛が消えた直後に生まれた。コッチの世界では数千年分の地獄を味わっていたがな。だがそれでもアイツ自身、自分への罰は足りないと思ってるんだ。閻魔様もビックリだ。まあ、そんな奴だから世界を捻じ曲げるなんて芸当が出来たんだろうな」
「ちょ、ちょっと待って……十年前って……っていう事は、今十歳……?」
「そうだ。いい加減気づいただろ。椛をそろそろ起こしてやれ。そして今度は……お前が椛を支えるんだ」
※
なんだか……長い夢を見ていた気がする。
夢の内容は思い出せない。でも……僕の中で……一つの光景が目に焼き付いている。
「……行こう……もう、起きないと……」
彼女の点滴を引き抜き、抱きかかえて外へ。
現在時刻は朝の四時前後。そろそろ……時間だ。
「あの時と……逆だ」
椛さんが消えた……あの時は西の空に太陽が沈んだ。
だが今度は……東の空から太陽は出る。
彼女をお姫様抱っこしながら教会から抜け出し、東の空へと目線を向ける。
モモルフと鶏の鳴き声が聞こえた。それと呼応するかのように、世界は新たな日に目覚めていく。
山の向こう、紅色の太陽が……顔を覗かせる。
「朝だよ……そろそろ起きて……お嬢様……」
眠り続ける少女を抱きかかえながら、耳元で囁く。
そしてだんだんと……太陽は姿を現し、世界は目覚めていく。
山の向こう、紅の太陽が……世界を目覚めさせる。
そして、僕が抱きかかえる彼女も……
「……んぅ……」
今、彼女の口から声が漏れた。
起きて、もう朝だよ、起きて
「……」
うっすらと……彼女の目が開かれる。
綺麗な瞳が、僕を視界へ入れる。
「おはよう……」
僕は何故か涙を流していた。
大事な人の記憶が、頭の中から抜けていく感覚。
今の今まで憶えていたはずなのに……
誰の事を想っていたのか……もう思いだせない。
「……泣かないで……」
目を覚ました直後の彼女に目元を指で拭われる。
いつだったか……前にもこうして……涙を拭われた事が……
朝日と共に……その紅色の太陽と共に世界は目覚めていく。
僕と彼女の新たな人生も……始まる。
大切だった誰か。
僕の大切な人が、僕を大切に想ってくれた人が、確実にこの世界に居た。
両親を亡くした僕にも、その人は無条件で愛してくれた。
今度は僕の番だと……誰かに言われた気がする。
「おはよう……」
再び口にするその言葉。
新たな日を迎える……その言葉。
僕と彼女の人生は……新たなに始まる。
紅色の太陽と共に。
『ねえ、悠馬君……秋は夕日が一番綺麗に見えるんだよ』
『へぇ……何でですか?』
『春は花粉とか多くて綺麗に見れなくて……夏は水蒸気が邪魔して……冬は空気が綺麗すぎて綺麗に見れないんだって』
『じゃあ冬が一番綺麗なんじゃ……』
『ちがうんだなぁ、これが……フフフ、君に伝授しよう。秋はね、少し不純物が空気中に交じってて……それが太陽の光が反射して……紅色に輝くんだって。だからさ……』
『……だから……なんですか?』
『……だから……私は秋が一番好きなんだと思う……。少しくらい……失敗するくらいが一番いいって……思えてこない?』
『お嬢様……そんな風に甘えてるから……』
『あはは、ごめんごめん……。ほら、本格的に始まるよ。紅の世界が……空も海も、どちらが空でどちらが海か分からないくらい……紅色に染まる世界が……』
『……お嬢様……?』
『悠馬君……悠馬君に……これからの人生が幸福で満たされていますように……』
この作品は【遥彼方様】主催企画《「紅の秋」企画 》 参加作品です。
この物語はフィクションです。
椛、悠馬、その家族、そしてこの物語の全ての登場人物へ幸福を。