白い牢獄
恨めしかった。
居場所のない自分、何かの変わりに生まれてきた自分。
存在を必要とされなかった、とても悲しむべき事を悲しいと思う事が出来ない。心が歪んでいた。生きる意味を問う心はあっても、人を慈しむ心はいつまで経っても生まれないのだ。
浮いていた、空にたゆたう雲のように、人からも世界からも。足がなくて、心もなくて、きっとそれは悲しむべき事なのだろうけど、その悲しみすらないのだから、第三者の目線で語るしかない。
恐らくきっと、自分は悲しい存在なのだろう。
人としての当たり前を人に生まれながら持ってはいなかった。
そんな悲しい自分は悲しいと思う事もなくいつか死を選ぶのだと思っていた。
死を選んだ時に消えてなくなれるのだと思った。
だが、望み通り死は訪れなかった。死ではなく、よりによって一番辛く苦しいものを見つけてしまったからだ。
それは愛情。
愛に触れ愛を知った、そして、愛を失った時
――この世から全てが失われた。
***
白い壁は染み一つなかった。四方を囲まれた部屋にドアはなく、窓もないので匂いが篭っていた。唯一あるのは白いテーブルクロスの掛かった長方形のテーブル、それから誰かの異能で輝く壁に取り付けられた照明器具だけ。
照明器具の白い光が、眩しすぎる程部屋を白くしていた。
「ごフッ!」
壁に鮮血が飛び散る。吐血と共に男は崩れる。やがて息をしなくなり死に至る。最初は何が起こったか分からなかったが、やがて観衆から悲鳴が上がる。
「ひっ!」
「キャアー!」
「やりやがった!」
「なぜッこんな目にッ!」
我に帰り騒然とした。悲鳴が悲鳴を呼ぶ。混乱が狂気を掻き乱し増幅させていく。本来ならば逃げ惑う筈の行動も、ドアのない四角い部屋の中では壁に背を貼り付け距離を取るまでしか出来なかった。逃げ場を失った人々は身を寄せて人殺しを威嚇する、こっちに来るなと、新鮮な血液の滴る刃に向かい一生懸命頼りない強気を見せる。
殺人者は構わず群れの中から次なる標的を探す、血走った目、誰でもいい、震える手を止める為に次なる殺人をしなければ。見渡す、誰もが特徴もなくて、中々刃が定まらない。
ふと後ろに目が行く。
(ッ!)
不運としか言いようがない。凶器を持った男の目には少年か少女か曖昧な、か弱そうな黒髪の人物の姿が映る。目と目は引き合うのだ、恋ではなく、殺人者と引かれ合ってしまった事実は少年の最大の不幸だ。
目に引かれるまま、殺人者はじりじりと少年に近付く。人を刺したばかりの包丁が先端を突き付け歩んでくる。
「どうせ死ぬんならいくらでもやってやるよ!?」
瞳孔が開き切り目が揺れていた。殺人者は自棄になりながら包丁を脇に構える。自分でももう何をしているか解っていないのだろう、一人目を殺した時に男は狂える亡者になった。
白い部屋に、亡者は血の滴る包丁をギラつかせた。
「やめて……」
少年は、ミオは頭を抱え膝を丸めた。
「やめて……っ」
「ギャアぁぁぁ!」
悲鳴が上がった。断末魔を漏らしたのは、縦に一閃、背中を斬られた殺人者の男だった。
男はミオを殺そうとした格好のまま前に倒れた。床に叩きつけられた衝撃でバウンドし、鈍い音を立て頭が転がる。
ミオの全身から血の気が失せる。顔に飛び散った血を拭うと、温かくて、ぬるっとした、それは、倒れた男から溢れて、ミオの足元に流れてくる。死んだ男の背後から薙刀を手にした荒い息の男が現れた。
この男が包丁を持った男を不意打ちし、止めに首を切った。薙刀の先から温かい血液を零しながら、第二の殺人者が茫然自失となり立ち尽くす。その瞳は、どんな色も宿さず、ミオを見下ろしていた。
「やだ……」
ミオは涙を堪える。
「何でこんな……ッ」
現実から逃げたい、だから立ち上がる、なのに腰が抜けて立ち上がれない。
湯気の上がる薙刀がそっと振り上げられる。誰も正気でなんていられない。白い出口のない部屋が、人を狂気へ変えていく。
「止めてください」
そんな時、ミオを抱きしめ守ろうとする少女が現れる。
「だ、れ?」
ミオは驚き目を開く。ミオより幼い体躯、白く長い髪に硬く瞳を閉じている。このような少女が、狂気の中ミオを心配し薙刀の男に訴えたのだ。
ミオは少女の行動があまりにも理解出来なくて戸惑った。殺人者への訴えは、特にこのような密閉空間での狂気の連鎖で出来上がった殺人者には、説得とは殺してくださいという愚かさにあたる。少女が次に何をされるか想像出来た時、既に薙刀は振り下ろされていた。
「だめっ」
言葉も虚しく、白い体から吹き出るのは血。ミオを庇い狂気に貫かれたこれが少女の結末。
ミオは血の海に沈む少女に目を落とした、視界が赤く染まる。
狂いそうだった。
――そこで幻は消えた、そういう未来もあるのだと恐怖が見せた幻。
ミオは黒髪に隠れた金の瞳を潤ませる、肺の底から息を吐き、手足が凍りつくのを感じる。胸の中の少女、長い白髪が床に散らばる、少女はまだ生きていた。
ミオは少女を助けた。幻覚は幻覚であって、ミオが咄嗟に少女を胸に抱き床に転げた事実が現実であった。
「ボクっ、ボク……ッ」
ミオは瞠若した、咄嗟とはいえ一歩間違えば二人して斬られていた、少女を抱く手が震えている、未だかつてない戦慄、恐ろし過ぎて背筋が凍る。
薙刀を持った男が泡を飛ばし口を開いた。
「はっ、はは……! どうせ殺しちまった、なら、他も死ねばいいんだ!」
人格を失い錯乱した男は善悪や道理を判断出来ない。皮肉にも今自分が正義から殺した男の結末と同じ道を行く。
次に殺すのは誰か、そしてまた殺されるのは――。
永遠の連鎖。全身を蠕動させながら奇怪な鳴き声と共に薙刀が下ろされる。
下ろされた薙刀がミオ――ではなく少女の肩に埋まる。白い髪が血に染まり、少女は声を殺し呻く。ミオは自分を庇った少女の、あまりの残酷な現実についに理性を失った。
「やだ! もういやだ! なんでこんな事になるの!? なんでこんな部屋を作ったの!? もういやだ! わかんないっ、助けてよ!」
ミオは少女を抱きしめ瞳の端から涙を零した。
ミオはいつもいつまでも、役立たずの弱者でしかなかった。
***
白い髪を指で弄びながら美しい才女は口の端を釣り上げていた。
「ふふっ」
余程楽しい事があったのか、知的な彼女の無表情は剥がれ、さながら闇の中で薄ら笑う悪女のようになっていた。
彼女は憂鬱が晴れた心に胸を高鳴らせ、これから作り上げていくだろう障害のいなくなった未来に笑いを零した。自分がした事にとても満足している、反省や後悔も一切ない。ただ、一遍の恐怖があった。その恐怖に勝るくらい、期待も大きかった。
彼女はある人物が帰るのを待っていた、彼女が崇拝する、白の血族の高貴な華だった。
***
「出して……出してください」
床から涙ぐんだ声がした。二人の牢番は顔を見合わせ今声が聞こえたか? と確かめ合う。耳を床に付けてみる、やはり声がする。
「出してくださいッ!」
次は張り上げるような声だった。そして聞き覚えのある声だった。
「ミオ?」
牢番の一人が床に話し掛ける。
「ミオですっ」
「まさか」
「出してください、お願いしますっ」
異能で厳重に施錠された地下に知り合いのミオが入れられている。牢番は驚いた、だが続ける言葉は知り合いに掛ける慈悲の言葉ではなかった。
「出せません」
「なんでっ」
「誰も出してはいけないからです」
「ここへ入った者はこの世に害悪しか齎さない者、だから一度入れたら絶対に出してはならないんです」
「そんな、ボクだよ……ミオだから……出して」
知り合いのミオはいつも気弱。合う度手を胸の前で組み、怯えるように俯いた顔から目を覗かせる。そのミオが声を張り上げ地下の底から出たいと申し出ている、奇跡だ、しかし牢番は無慈悲にもミオの勇気を無に返す。
「怖くないように、毒薬を使ってください」
「白き世界で安らかに死ねますように」
牢番はミオの居る地下を足で踏み、再び直立不動に戻った。彼等の拳は、強く強く握りしめられていた。
ミオは死刑宣告をされたように絶望し部屋の隅に小さく丸まった。
白い壁は美しく、地下の牢屋と言われても誰も信じやしないだろう。美しい部屋には白い照明が並ぶ、染み一つなく清潔な壁。白いテーブルクロスの上には食器類、ではなく刃物が並べられていた。
此処は白の血族が生み出した断罪の場所。
それは死刑の場所。
一巡でも、二夜でも三世でも、人を殺した者はやがて己も消えてしまう。それはつまり罪人を裁くべき死刑執行人に誰もなりたがらないという事。死ぬべき大悪党を殺せず生かしておく、白の血族はそんな生半可を許せずこの部屋を作った。
罪には罰を。大罪人には大罪人の血を。
刃物は殺し合う為に。毒薬は自殺する為に。何もないテーブルは餓死する為に。
――この箱の中は、最後には何もなくなるように決められている。