二つの夜
二夜。"にや"とも"によ"とも言う。人それぞれ。
その由来は見た目通り二つの夜(二つの国)を意味するのか、地面に映る幻の月をもう一つの夜とするのか。
ナギは最近この世界にやってきた、元は二夜の人間ではないのだ。ウルワもミズガレも二夜の人間ではない、二夜に住む殆どの人間は元々一つの世界からやってきた。
三人を一望するにはまず元の世界、そこから解説せねばならないだろう。
元の世界、名は一巡と言う。この世界こそ基準であり、人の世にある唯一の世界と言える。一巡には国があり、社会があり、人は法の元で安全な暮らしを敷いていた。
神様の恵みという不思議な力を利用し、人は便利すぎると言える程整った世界を作り上げていった。秩序は確立し、不自由のない世界。ナギもウルワもミズガレも、元々はそこに住んでいた。
ただ、完成された世界には一つだけ不可解な謎があった。
それは人を殺すと消える、という奇怪現象であった。
一巡の人はいつも考えていた、世界から人の消える理由を。例えば神の仕業だとか悪魔の誘いだとか単なる誘拐事件だとか。だがどれも明確な証拠もなく、また目の前で消える瞬間を目撃したという情報まであったくらいだ。
一巡の国は非道にも人の消える現象を解明しようといらない人間を使って極秘に実験を始めた。
やがて一つの答えに行き着く。"人を殺すと消える"のだと。
それがもう随分前の歴史。ナギが物心ついた頃は既に人を殺すと消えるという一般常識は広く浸透しており。だから絶対に人を殺してはいけないと教えられていた。
消えた人は何処へ行くのか――。
それは未だに解明されていない。消えた人は消えたまま、一生戻ってはこなかったからだ。
ナギは人を殺した。憎しみに任せ、犯罪者になる事も、消えてしまう事も厭わず。実はナギが殺したのは両親を直接死に至らしめた犯人ではない。その犯人はとっくに消えてしまっていただろう。だからナギが殺したのは両親が死に至らしめられた原因を作ったもの、つまり元だった。
そしてナギは消えた。
消えた先はどうなるのか、一巡の人々は何も知らない、もちろんナギだって知らない。
でも、消えた先が死であろう限り、それでいいと思った。ならば胸を刺し自決するのも、それでいいと思った。
死は悪夢を覚ます安らぎの方法、復讐という名の態のよい自殺。
消えてみれば先は予想もしない、二夜という別の世界だった。
二夜は人殺しの落ちる世界だったのだ。
暗黙の了解だった――。
ウルワもミズガレも人殺しだという事は。
「二夜には二つの国がある。一つはこっち、奪われるだけの国。もう一つは向こう、奪うだけの国。何故そう呼ばれているかは簡単、水と食料を奪い奪われる間柄だからだ」
「今も戦争中なんだろ?」
「戦争なんて大それたものじゃないさ、ただの人の強欲だよ。自分達が助かりたいから、自分達と同じ人を犠牲にしても構わない。俺達奪われるだけの国は奪われるだけ、水と食べ物を。抵抗はしない、俺達はもう疲れているのさ、戦いに、生きる事に」
だからウルワもミズガレも何処か人生を放棄していた。未来を早期に追いやり、死というベッドに横になる。運命に身を任せ、一日一日死期を待っている。
死ぬ事を受け入れた事は幸せな事だと、いつかミズガレは言った。ミズガレもウルワも死を望んでいるのだ。
奪われるだけの国の人は、死を望んでいるのだ。
もちろん生きたい人間も居る、そういう人間が奪うだけの国と今も戦っている。無謀にも、無意味にも。
「ナギは生きたいか?」
ミズガレは聞く。
「俺は……」
生きるも死ぬも……どちらでも……。いや、生きたいのかもしれない、ウルワやミズガレと、もっと生きたい。二人と居られるなら、世界は続いてほしい。ただ生きられない現状や人を殺した罪の呵責に悲憤慷慨している、だから生きたいとは言えない、死にたいとも言えない。
「ごめんな。奪われる国に落ちた以上もうあっち(奪う国)には行けない。あっちはあっちで手一杯なのさ」
「分かってる、水も食べ物もないのにこれ以上人を受け入れられる訳がない」
俺達は此処で死ぬんだな。とミズガレに言う事は出来なかった。死を受け入れたミズガレと違って、ナギはまだ心の何処かで希望を見付けたいと願っていたから。
人を殺した身にあろうとも。
『死ぬまでくらい、生きてもいいんじゃないかな――』
その言葉が、ナギに深く深く息衝いていた。
ナギは食事を終えるとウルワを抱いて隣の家に向かう。歩いて数十歩でもう到着。ミズガレの家と同じく貧相な佇まいの家が建つ、ただこちらは今にも壊れてしまいそうに劣悪だが。
玄関を叩くと中から白髪で腰の曲がったお婆さんが出てきた。老齢の体は一巡で見掛ける同じ年代の者より遥かに痩せ細っている。
小さく細い体に精一杯優しい笑みを浮かべ、彼女は口を開いた。
「湯の用意は出来ているよ」
彼女は曲がった腰に手を当て先に中へ戻る。ナギはウルワと共に彼女の後に続いた。
「じゃあウルワちゃん、いこうか」
「はい」
家の中でウルワは彼女に連れられ湯浴みをする部屋に行く。
水の少ない二夜において水の無駄使いは絶対に許されない。だからミズガレの家とこのお婆さんの家では配給される水を節約し、こうして湯編みをする為の水として溜めていた。
水が命を握る二夜において風呂等簡単に浸かる事の出来ないもの。それをミズガレとお婆さんはウルワの為にと拵えている。
どれだけウルワが大切にされているか、どれだけ二人が優しいのか、ナギは身に染みて感じるのだった。
湯編みを終えたウルワを抱き上げナギは家に帰る。
お婆さんに折角だからと言われたのでナギも残り湯を頂いた。
二人は埃や汚れのない綺麗な体で月夜を仰ぐ。
一つ、夜になると空に見える、誰もが知る衛星である月。二つ、二夜にのみ存在する、地の底に沈んだ月。
この世界が二夜と呼ばれる由来の一つが、この二つの夜。大地がガラス張りの床に変わり、その下に月が見えるのだ。第二の月、誰も触れられない神聖で不可侵の夜。
幻想的で不思議な世界は朝になれば見えなくなってしまう。
上下の月を眺めながらナギは歩いた。途中さーっと風がウルワの髪を撫でる、シャンプー等使っていないのにいい香りがする。甘く、幼い香り。
ミズガレやお婆さんに大切にされている綺麗なウルワ。幼く華奢で儚いウルワ。
だけどウルワも、人殺し。
二夜において犯した罪を自ら公言する者はまずいない。みな何処かで人殺しである自分を後ろめたいと感じているからだ。人の心理としては、出来るだけ過ちは隠しておきたいに決まっている。
反対に、殺人を自慢する輩が居るのも確か。自分がどれだけ残酷な行いをしたのか、声高々に発言する者のなんと愚かな事か。
ナギは犯した罪を自慢する事はなかった。だが後悔もしていなかった。あいつは殺されて当然だ、死すべき人間だったのだと完結している。
世間からすれば同じ人殺しに成り下がろうとも、それでも殺したことを後悔はしていない。ただこの手が血に染まった事実だけは今も絡みついている。
ミズガレやウルワはどうなのだろうか。
『――犯した罪過を全て忘れて心の底から笑っている者が居るとしたら、それは羨むべきなのかもしれない』
「だって此処には法も責め立てる人間もいないのだから」
湯浴みから帰宅したナギはウルワを部屋に運びおやすみと扉を閉め、居間にはまだミズガレが残っていたので少し話でもしようと椅子を引く。
「あんたは笑えないの?」
「笑えたらよかったがね」
二夜には法律も罪を取り締まる組織もないのだし、周りは全て人殺しなのだ。この世界に来たというのに何故人はそれでも罪を忘れては生きられないのか。
「隣の婆さんも誰かを殺したんだよな」
「そうだね」
殺人とはどこまでも無縁そうな優しい隣人ですら人殺し。ナギは聞いていなかったがミズガレは彼女の罪を知っていた。彼女は夫を殺したのだと。穏やかな彼女の胸のうちに今も何があるのか、それは本人にしか解らない。
「……」
「お前は? って顔してるね」
「え、いや……」
ミズガレは言葉にされなくともナギが自分の罪科を聞きたそうにしているのを読み取った。ナギは意図せずそんな顔をしていた事に言葉を濁す。
「まぁ俺も誰かを殺したと思ってくれたらいいよ。二夜に居る他の奴と一緒」
それだけ言うと、ミズガレは場に似つかわしくなく笑った。