死ぬまでくらい、生きてもいいんだ
『生きよう――』
泥と血にまみれた汚い人間が土の中に蹲っていた。
質の良さそうな服は赤く染まり、本来人目を惹くであろう美しい色合いの髪も土と血が乾きこびりついている。
彼はうつ伏せになり今にも死にそうになっていた。瀕死の人間が蹲っているというのに、誰も彼に手を差し伸べようとはしない。
乾いた風が退廃した土地を虚しく撫でる。
荒廃したこの世界で人は光も希望も宿さない。喜びも楽しみも忘れ、ただ死ぬまで生きるだけ。
死を定められた場所。
自分の未来すら失った者達に、枯れかけた花に水をやるような潤沢した者はいない。
此処は死に行く世界――。
一面土色の、乾いた土地。
けれどその中で、ようやく彼は美しいものを見つけた。
乾いた体に降り注ぐように、汚れた心が洗われていくように。優しく流れる透明な水が彼の目には見えた。
生きよう――。
そう言って手を差し伸べてくれた水のように青い髪をした人。
俺は人を殺した。なのに人の手を取ってもいいのか――。
生命が終わる直前でも、瀕死の彼は道徳を頭の隅で考えていた。血に染まった手でも貫き通したかった、人格だけは失いたくないと、瀕死の彼は生を拒み、罪に対して死を望んだ。
それなのに、瀕死の彼は無意識に水の手を握ろうとしていた。彼はそれに気が付いた時はっとして手を止める。
結果、瀕死の彼は水の手を握っていた。水が彼の手を掴んでいた。
「生きてもいいんじゃないかな、死ぬまでは。それが人の性だよ」
「……」
こびりついた赤黒い血が落ちるわけもないのに、今だけは、それをも流してしまえるような、赤が白に戻れるような、そんな気がした。
水の手を握り、疲れ果て真っ白になった心で彼は泣いた。
「ミズチ~ただいー」
「ただいま、でしょう? そして私はミズガレです」
「小言はなしなし、それに家ん中までそれで居る必要はないでしょ」
白に近い程薄い碧の髪、瞳は朝の涼んだ空のように青い。
淡い色の髪とは反対に真っ黒なフード付きの羽織りを纏い、羽織りから下はフリルやリボンのあしらわれたファッションを覗かせている。
何処か気品のある彼――ナギは目の前の男に指摘をしつつ、疲れた足を休ませるべく椅子に座った。
「紳士の嗜み、ですよ」
「だから、家の中でまでやる必要ないでしょ」
「そうか?」
「そう、他人行儀みたいでヤダ」
ナギは足を組みながら手をぶらぶらさせた。
ナギはあの日人を殺した。
真っ赤に染まる視界、人を刺した感触が手からじんわりと伝わり、ドクンドクンと血液を巡らす。無音の部屋に秒針と息遣いだけが響く。そのリズムと共に心はおかしくなっていく。
目的の人物はピクピクと痙攣し床に倒れた。その時ナギは壊れた。
あはは、ははは。
乾いた笑いが漏れる。
俺は殺したんだ! ははははは
そしてそれは返す刃で自らの胸を刺し自殺するという終焉によって幕を閉じた。
それなのに今、ナギがこうして命を繋ぎ止めているのは何故か。
それは奇跡かあるいは業か。答えがあるとするなら、簡単な事
――生きようと思ったから。
ミズガレは黒いロングコートを脱ぎテーブルに乗せる。ナギに家の中まで紳士でいなくていいと指摘されたからだ。
ミズガレは玲瓏たる容姿を持っていた。綺麗に梳かれた青い髪、黒い瞳は切れ長。すらっとした体型、背は高く、顔立ちは同性も異性も羨む程に麗質。その容姿に見合うよう上品な服装と品行で着飾る。
黒いシルクハットに黒いロングコート、白のブラウスにはフリルがあしらわれていて。いつもそれらを着こなし優雅に歩いている様は正に若く麗しのジェントルマン。ただ、ナギとしては品行方正な紳士であるより家族としてラフに接してほしかった。
あの日泥と血にまみれ死を望んでいたナギに生きようと言ってくれた人。
何にも替えがたい、大切な、第二の家族。
「夕飯にするから、ウルワ呼んできて」
「あい」
日も暮れてきた。ミズガレの家では夕食の時間。
ナギはミズガレの同居者ウルワを呼びに彼女の部屋へ向かう。
コンコン、ノックをすると中から「はい」と小さな返事がした。扉を開けるとウルワはベッドの上に腰掛けていた。
「ウルワ、ごはん」
「はい」
ウルワは立ち上がる。ナギはあっと声に出すより早くウルワを支えに部屋に入り込んだ。
「大丈夫、歩けるよ」
「ああ、でも、抱っこしてく」
ウルワは遠慮しようとしたが、その方が早いしナギの好意に甘えたくて身を任せた。
ウルワは目が見えない。
正確にはまだ辛うじて視力はある、だが目の前のものすらぼやける程失明に向けて進行していた。だから彼女は瞳を包帯で覆う、ぼやけた視界は頭痛を引き起こす原因になるからだ。
どうせ何も見えていない、認識出来ないくらいなら光を閉ざしていても同じ事。
だからウルワは目が見えない。ナギの顔を一度だけ裸眼で見た時以来、ウルワが瞳を開いた所をナギは見なかった。
背丈も低く、軽いウルワは力のあまりないナギでも抱き上げる事が出来た。
歳は15。真っ白なふわっとした髪、長いそれは三つ編みにしてある。服装はナギと同じ趣味か、白と黒、フリルやリボンをあしらったものを好む。ミズガレの家に住んでいるが、ミズガレとは赤の他人だ。ただ、血の繋がり的には他人だろうが心の繋がりではそれ以上の存在だった。ナギがミズガレに助けられ同居するより前から、ウルワはミズガレを慕って共に住んでいた。
ナギはいつか聞いてみたいと思っていた、ウルワは……ミズガレが好きなのかと。
ウルワを抱き上げたナギが台所を覗くと、ミズガレは格式張った格好や振る舞いは止め、食事をテーブルに並べる宛ら二人の兄のような顔になっていた。
ウルワを椅子に下ろしその隣にナギは座る。ウルワの向かいにミズガレは座った。三人の食事、それはとても育ち盛りの少年少女が食べる量には満たなかった。粗末な野菜、それも小さく細い、全く栄養のなさそうな見た目。肉やパンといったものはなく、野菜の他には具のない汚い色のスープだけであった。
この世界は死に行く世界。
土は干からび、水は渇れ、緑は死滅した。乾いた風が生ぬるい温かさを肌に撫で付け、動物も人間も食糧不足に困窮する。
全てが憔悴しきった死界。それがこの世界。
「ナギ、もっと食べたかったら私のを食べて」
ウルワは少食だからとナギに野菜やスープを残り半分も差し出す。ナギは食事の手を止め無言になる。ナギは泣きそうな程頬を緩め、けれど穏やかな声で「俺は大丈夫だから」とウルワの器を押し返した。
ミズガレが横から「ナギは私達より多めに盛ってあるよ」と嘘を言う。ミズガレがナギに口を合わせると、ウルワは残りの半分を口に運び始めた。
この世界はどうしてこんなにも残酷なのだろう。
「ナギ」
食事を終えると片付けをするミズガレを余所にしてウルワがナギに向かう。
「ナギは辛くないの? まだこっちに来て少ししか経ってないから、きっとお腹が空いてるでしょう……」
「うん、まぁ……食料が無いのと水を大事にしなきゃならないのは、辛いな」
「ごめんね」
「なんでウルワが謝んの、確かに食糧難と水不足はここの人達の過剰な摂取によるものかもしれない。でもさ、確かに人間が自然を大事にしてないのは俺達の"元居た場所"と変わらないだろ?」
「……うん。贅沢なくらい水を使って、傲慢なくらい資源を無駄に消費して、自然を壊してまで便利な生活に依存していたね」
「ウルワ知ってた? "元の世界"でもいずれ水不足や食糧難に瀕するって」
「……知らない」
「あまり知られていないみたいだけど、あの世界ももうすぐ此処みたいになる。土は痩せこけ、水はなくなり、気温が上がって人の住めない環境になる。あっちももう、……秒読みだったのさ」
ナギとウルワは揃って口を噤んだ。
「ナギくんは随分難しい話をするねぇ」
ミズガレは食器を流しに押し込むと背後で交わされていた二人の会話に入り込む。
「人は強欲さ。その強欲さがある限り破滅は止まらないよ。此処みたいにね」
ミズガレはこの世界――二夜について話し始める。




