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第1話 年商300億の無能経営者

「で?」


その一言で、会議室の空気が凍った。


誰も口を開かない。


いや、正確には――開けない。


俺は手元の資料から視線を上げ、正面に座る男を見た。


「もう一度聞くぞ」


手に持っていた資料をテーブルの上に放る。


十数枚の紙が滑り、男の前で止まった。


「なんで未達なんだ?」


大型モニターには、赤い数字が並んでいる。


営業本部。


年間売上目標、百二十億円。


第二四半期終了時点。


進捗率、四十三・五パーセント。


計画比、マイナス七億八千万円。


営業利益率も計画を二・一ポイント下回っている。


営業本部長の佐伯が口を開いた。


「黒崎社長。それについてですが――」


「結論から言え」


「……営業人員の退職が想定以上に続いております」


「何人だ?」


「今期に入って、営業部門だけで三十七名です」


「前年同期は?」


「十九名です」


「ほぼ倍だな。原因は?」


「現場へのヒアリングでは、業務負荷と評価制度に対する不満が――」


「違う」


俺は即答した。


佐伯の言葉が止まる。


「退職理由を聞いてるんじゃない。売上未達の原因を聞いている」


「……退職者増加に伴って、既存顧客の引き継ぎが追いついていません。それによって解約率が上昇しています」


「なら、なぜ三か月前に対策しなかった?」


「採用を強化しました。しかし、経験者の採用が予定通りには――」


「だったら未経験を採ればいい」


「教育に時間がかかります」


「教育期間を短縮すればいい」


「現場にも限界があります」


「その限界を超える方法を考えるのがお前の仕事だろ」


また会議室が静かになった。


俺は佐伯を見た。


五十二歳。


大手IT企業の営業部長を務めていた男だ。


三年前。


俺自身が口説いた。


年収二千万円以上。


役員候補。


営業部門四百名の責任者。


それだけの待遇を用意した。


だから俺は結果を要求する。


当たり前の話だ。


「佐伯」


「はい」


「年収いくらだ?」


一瞬、佐伯の表情が動いた。


「……二千二百万円です」


「そうだよな」


俺は椅子の背にもたれた。


「二千二百万もらって、部下が辞めたから目標達成できませんって、俺に報告するのか?」


「……申し訳ありません」


「謝罪は利益を生まない」


「はい」


「改善策は?」


佐伯が資料をめくる。


「まず採用人数を――」


「もういい」


俺は遮った。


「今月末で辞めてくれ」


空気が止まった。


佐伯だけではない。


十数人いる役員全員が、俺を見た。


「……え?」


「聞こえなかったか?」


「社長、しかし――」


「営業本部長は俺が兼任する」


隣に座っていた人事担当役員が慌てて口を挟んだ。


「黒崎社長。それは無理があります」


「何が?」


「現在でも社長は経営企画、新規事業、それにM&A案件を直接見ています。その上、四百名の営業本部まで管掌するのは――」


「俺ならできる」


「ですが――」


「営業本部は四百人だろ?」


「はい」


「四百人を管理するために、本部長が二人必要なのか?」


「そういう意味ではありません」


「なら一人でいい」


簡単な話だ。


目標を決める。


目標をKPIへ分解する。


数字を追う。


未達なら原因を特定する。


改善する。


それでも駄目なら担当者を替える。


会社経営なんて、突き詰めればそれの繰り返しだ。


「来週までに営業本部のKPIを全部作り直す」


俺はホワイトボードの前に立った。


ペンを取る。


「新規接触数、アポイント率、商談化率、提案率、受注率、平均単価、継続率、解約率。全部数値化する」


誰も何も言わない。


「営業マンごとの行動量も可視化する。成果が出ている人間の行動を標準化して、全員に展開する」


「社長」


人事担当役員が再び口を開いた。


「現場からは、数字による管理が厳しすぎるという声も出ています」


「だから?」


「それが退職増加の一因ではないかと」


「会社は学校じゃない」


俺は全員を見回した。


「仲良しクラブでもない」


誰も目を合わせない。


「結果を出す人間には、それに見合う金を払う。結果を出せない人間には、成長してもらう。それでも無理なら、別の場所へ行ってもらう」


当然だろう。


「それの何が悪い?」


誰も答えなかった。


反論がないということは、俺が正しいということだ。


少なくとも。


このときの俺は、本気でそう考えていた。


◇


株式会社クロノス・テクノロジーズ。


十五年前。


俺が二十六歳のときに作った会社だ。


最初のオフィスは、俺が住んでいた六畳一間のマンション。


資本金三百万円。


社員一名。


つまり俺だけ。


それから十五年。


社員数、一二四八名。


年商、三百十二億円。


営業利益、四十六億円。


未上場ではあるが、直近の資金調達では企業価値一千億円を超える評価を受けた。


四十一歳。


金はある。


都心に不動産も持っている。


車もある。


会社もある。


業界ではそれなりに名前も知られている。


テレビや経済誌から取材依頼も来る。


『若きカリスマ経営者』


『IT業界の風雲児』


『一代で300億企業を築いた男』


好き勝手なことを書かれてきた。


俺自身、否定するつもりはない。


実際に結果を出したからだ。


運が良かっただけだと言う奴もいる。


時代に恵まれただけだと言う奴もいる。


なら、同じ時代に会社を作った人間が、全員三百億まで行ったのか?


違う。


俺は誰より働いた。


誰より勉強した。


誰より考えた。


二十代の頃は、ほとんど寝なかった。


営業もやった。


プログラムも書いた。


採用もした。


経理も覚えた。


マーケティングも勉強した。


資金調達も自分でやった。


会社法も労働法も会計も経営戦略も、必要になれば全部勉強した。


できないことがあれば、できるようになるまでやった。


だから理解できない。


なぜ他の人間には、それができないのか。


努力すればいい。


勉強すればいい。


結果が出るまでやればいい。


俺はそうやって生きてきた。


できない理由を考えている時間があるなら、できる方法を考えればいい。


――ずっと、そう思っていた。


◇◇◇


午後十一時四十八分。


タクシーを降りる。


都心の高層マンション。


最上階の一室。


三億二千万円で買った。


玄関のロックを解除する。


「……」


暗い。


電気をつける。


当然だ。


誰もいない。


冷蔵庫を開ける。


ミネラルウォーターと栄養補助食品。


それ以外はほとんど入っていない。


一本取り出し、リビングへ向かう。


八十インチのテレビ。


海外ブランドのソファ。


大理石のテーブル。


窓の向こうには東京の夜景。


雑誌の取材で記者から言われたことがある。


『成功者の家って感じですね』


そうかもしれない。


だが、俺自身はこの部屋にほとんど興味がない。


寝られればいい。


シャワーを浴びられればいい。


仕事ができればいい。


スマートフォンを見る。


未読メール百二十七件。


社内チャット八十三件。


不在着信十一件。


その中に、仕事とは関係のない通知が三つあった。


一つ目。


母親からのSNSメッセージだ。


『玲司、今月ちょっと足りないからお願い』


またか。


俺はため息をつく。


返信はしない。


いつもの口座へ、後で振り込めばいい。


母親とは三年ほど直接会っていない。


会いたいとも思わない。


会えば面倒なことしか言われない。


子供の頃からそうだった。


『もっと頑張りなさい』


『なんで一番じゃないの?』


『あなたならもっとできるでしょう?』


『野心がなさすぎるのよ』


そして。


『他の人を踏み台にしてでも上に行きなさい』


嫌というほど聞いた。


だから今さら会って話すことなどない。


それなのに。


母親からしばらく連絡が来ないと、なぜか気になる。


死んだのか?


病気になったのか?


そんなことを考える。


そしてメッセージが来る。


内容は決まって金だ。


鬱陶しい。


本当に鬱陶しい。


なのに。


画面に『母』という文字が表示されると、どこか安心する自分がいる。


理由は分からない。


考える必要もない。


二つ目の通知。


カレンダーアプリ。


『明日は悠斗の誕生日です』


指が止まった。


悠斗。


次男。


今年で――。


十四歳。


さすがに、それくらいは覚えている。


中学二年生。


バスケットボール部。


長男の真一は十七歳。


高校二年。


あいつもバスケをやっている。


三年前。


妻とは離婚した。


正確には元妻。


香里。


俺より六歳上。


大学時代に出会った。


変わった女だった。


周りの女子学生とは全く違った。


社会人を経験してから大学へ編入してきたこともあり、妙に大人びていた。


俺に媚びない。


俺に依存しない。


自分の意見を持っている。


仕事もできる。


何より、一人でも生きていける女だった。


だから好きになった。


結婚して。


真一が生まれ。


悠斗が生まれた。


そして離婚した。


理由は単純だ。


俺が家にいなかったから。


ある夜、香里に聞かれた。


『玲司にとって、会社と家族、どっちが大切なの?』


くだらない質問だと思った。


比較するものではない。


会社には千人以上の社員がいる。


その家族まで考えれば何千人だ。


取引先もいる。


顧客もいる。


株主もいる。


俺が止まれば、多くの人間に影響が出る。


だから答えた。


『仕事だ』


香里はしばらく黙っていた。


そして聞いた。


『じゃあ、私たちは必要ない?』


俺は答えた。


『必要ない』


翌月。


香里は二人の息子を連れて家を出た。


後悔はない。


――ないはずだ。


三つ目。


その香里からメッセージが届いていた。


写真が添付されている。


通知画面には、


『二人とも元気にやってるよ』


とだけ表示されている。


写真を開こうとして。


やめた。


明日は朝七時から会議だ。


こんな時間に感傷に浸っている暇はない。


スマートフォンを伏せる。


水を飲む。


「……必要ない」


誰に言ったわけでもない。


静かな部屋に、自分の声だけが響いた。


◇◇◇


三日後。


午後十時十三分。


ようやく仕事が終わった。


佐伯の退職処理。


営業本部の再編。


新しいKPI。


組織変更。


全部終わらせた。


三日だ。


三か月間、営業本部が解決できなかった問題を、俺は三日で整理した。


やはり。


俺がやった方が早い。


結局、組織というものは優秀な人間が動かすしかない。


社員に任せろ。


権限移譲しろ。


部下を育てろ。


経営者仲間から何度も言われた。


意味が分からない。


俺が一時間でできる仕事を、部下は一日かける。


それなら俺がやればいい。


会社が大きくなっても同じだった。


俺が考え。


俺が決め。


社員が実行する。


それで会社は三百億まで来た。


結果が証明している。


地下駐車場へ向かう。


今日は運転手を帰らせた。


少し歩きたかった。


エレベーターを降りる。


革靴の音が駐車場に響く。


「社長」


後ろから声がした。


振り返る。


佐伯が立っていた。


「……佐伯?」


最終出勤日は昨日だったはずだ。


「どうした?」


返事がない。


様子がおかしい。


スーツではない。


黒いパーカー。


顔色も悪い。


「退職金についてなら、人事を通してくれ」


「二十三年です」


「何?」


「営業をやって、二十三年です」


声が震えていた。


「そうか」


「この会社に来て三年」


佐伯が一歩近づく。


「毎日、朝七時には会社に来ました」


「……」


「帰るのは終電です」


「それがどうした」


「妻に何度も言われました。会社を辞めてくれって」


知らない。


そんなものは佐伯の家庭の問題だ。


「娘の卒業式にも行けなかった」


「佐伯」


「親父が死んだ日も仕事してました」


「何が言いたい?」


佐伯が顔を上げた。


泣いていた。


理解できなかった。


五十二歳の男が、会社を辞めさせられたくらいで泣いている。


「俺は……」


佐伯の声が震える。


「この会社を大きくしたかった」


「だったら結果を出せばよかっただろ」


佐伯の表情が変わった。


「俺だけじゃない」


「何?」


「この三年間で、何人辞めたと思ってるんですか?」


「能力がない人間が辞めただけだ」


「違う!」


声が駐車場に響いた。


「みんな、あなたについていけなくなったんだ!」


「同じことだ」


ため息が出た。


「成果を出せない理由を上司や会社のせいにする人間は、どこへ行っても――」


腹に衝撃が走った。


「……?」


何が起きた?


佐伯が目の前にいる。


近い。


異常に近い。


視線を下げる。


白いシャツ。


赤いものが広がっていく。


その中心から、銀色の刃が生えていた。


いや。


違う。


包丁だ。


佐伯が握っている。


「お前……」


足から力が抜けた。


膝が床につく。


佐伯も震えていた。


「社長……」


包丁が抜ける。


身体が前に倒れる。


痛い。


いや。


寒い。


何だ、これは。


頭が回らない。


救急車。


止血。


スマホ。


指示を出さなければ。


そう考えているのに身体が動かない。


「社長、一度でも……」


佐伯の声が聞こえる。


「俺たちのこと、人間だと思ったことありますか?」


意味が分からない。


社員は社員だ。


会社は成果を出す場所だ。


成果を出した人間を評価する。


出せない人間には改善を求める。


それでも駄目なら交代する。


何が間違っている?


正しい。


俺は正しい。


だって。


そうしなければ。


勝てないだろう。


勝たなければ。


意味がない。


負ければ――。


『なんであの子に負けたの?』


突然。


母親の声が聞こえた。


小学校の運動会。


かけっこ。


二位。


家に帰った俺から結果を聞いた母親。


頬が熱くなった。


叩かれたからだ。


『あなたまで私をがっかりさせないで』


違う。


今、思い出すことじゃない。


意識が遠くなる。


次に浮かんだのは香里だった。


そして。


二人の息子。


真一。


悠斗。


そうだ。


写真。


三日前。


香里から写真が送られてきた。


まだ見ていない。


何の写真だった?


バスケか?


誕生日か?


学校か?


見ておけばよかった。


――いや。


違う。


後悔なんてしていない。


俺の判断は正しかった。


会社は三百億まで成長した。


俺は勝った。


金も手に入れた。


地位も手に入れた。


誰にも負けなかった。


だから。


俺は。


間違って――。






◇◇◇


「あなたたちは、ずいぶん、不器用な生き方をしましたね」


声がした。


目を開ける。


真っ白な世界だった。


床もない。


天井もない。


ただ白い空間だけが、どこまでも続いている。


痛みも消えている。


目の前に女が立っていた。


白銀の長い髪。


透き通るような肌。


人間離れした美しさ。


「ここは?」


「あなた方の言葉で説明するなら、神域でしょうか」


「神?」


「そのようなものです、この世の時間、空間、創造、破壊をつかさどっています」


女は微笑んだ。


「私はアステリア」


聞いたことのない名前だ。


「俺は死んだのか?」


「はい」


即答だった。


「黒崎玲司。四十一歳。死因は腹部刺創による大量出血」


そうか。


死んだのか。


不思議と恐怖はなかった。


それより先に浮かんだのは――。


「会社は?」


アステリアが少し目を丸くした。


「第一声が、それですか?」


「当然だ」


営業本部の再編直後だ。


M&A案件が二件。


三か月後には新サービスのローンチ。


来期計画も作成途中。


「会社はどうなる?」


「私には分かりません」


「……何?」


「あなたは、もうあの世界の人間ではありませんから」


苛立った。


「だったら、なぜ俺はここにいる?」


アステリアはしばらく俺を見ていた。


その目が。


なぜか。


少し悲しそうに見えた。


ふと。


別のことが頭をよぎった。


そういえば。


俺が死んだら、母親への仕送りも止まるのか。


毎月のように金を欲しがっていた。


今月分は、まだ振り込んでいない。


……まあ。


死んだ俺には、もうどうすることもできない。


そう考えて、俺はその思考を頭の隅へ追いやった。


「黒崎玲司」


「なんだ」


「あなたには、もう一度人生を差し上げます」


「もう一度?」


「別の世界で」


数秒考える。


「転生か?」


「理解が早くて助かります」


馬鹿馬鹿しい。


そう言いたいところだが。


俺は死んでいる。


目の前には神を名乗る女。


否定する材料がない。


「どんな世界だ?」


「あなたがいた世界ほど文明は発達していません」


アステリアが手を広げる。


白い空間に光が浮かぶ。


山。


森。


巨大な城。


剣を持った騎士。


空を飛ぶ巨大な生物。


杖から炎を放つ人間。


「魔法が存在します」


「なるほど」


「人間以外の種族も暮らしています」


「国は?」


「七つ」


「政治体制は?」


アステリアが少し驚いた顔をした。


「……そこを最初に聞きますか?」


「重要だ」


「基本的には王政です。ただし国によって大きく異なります」


「経済は?」


「貨幣経済があります」


「戦争は?」


「絶えません」


「資源は?」


「国によって偏在しています」


面白い。


頭が動き始める。


七つの国家。


異なる資源。


異なる種族。


異なる軍事力。


そして戦争。


会社経営と大して変わらない。


競合分析。


資源配分。


人材配置。


財務。


外交。


戦略。


規模が違うだけだ。


「あなたには、二つの力を授けます」


「二つ?」


アステリアが右手を差し出す。


二つの光が浮かんだ。


一つ目が俺の身体へ入る。


瞬間。


頭の中に情報が流れ込んできた。


《固有スキル――解析眼(アナライズ)》


人。


物。


状況。


能力。


様々な情報を解析する力。


続いて二つ目。


《固有スキル――叡智庫(アーカイブ)》


前世で得た知識と経験を、失うことなく保持・検索・再現する力。


俺は思わず笑った。


「これは……」


使える。


いや。


使えるどころではない。


前世の知識。


十五年間の経営経験。


そして情報解析能力。


これだけあれば。


「アステリア」


「はい」


「転生先は選べるのか?」


「いいえ」


「王族がいい」


「選べません」


「貴族でもいい」


「選べません」


融通の利かない神だ。


「まあいい」


平民でも構わない。


前世だって、俺は何もないところから始めた。


貧乏な家庭。


コネなし。


金なし。


二十六歳で資本金三百万。


そこから三百億まで作った。


一度できた。


なら、二度目はもっと上手くやれる。


「決めた」


「何をです?」


「次の世界でやることだ」


会社ではない。


せっかく世界が変わるのだ。


同じことをしても面白くない。


国。


七つの国。


王。


戦争。


なら。


「俺は世界の頂点に立つ」


アステリアは何も言わなかった。


「前の世界では三百億だった」


次は違う。


企業のトップなどではない。


「この世界そのものを手に入れる」


俺ならできる。


いや。


俺にしかできない。


アステリアはしばらく俺を見ていた。


そして。


ほんの少しだけ。


悲しそうに笑った。


「……そうですか」


「何だ?」


「いいえ」


アステリアは首を横に振った。


「黒崎玲司」


「だから何だ?」


「今度の人生では――」


少し間を置く。


彼女はそこで言葉を止めた。


そして。


とても優しい声で言った。


「幸せになれるといいですね」


意味が分からなかった。


「幸せ?」


俺は鼻で笑った。


「そんな曖昧なものに興味はない」


欲しいのは結果だ。


成功だ。


頂点だ。


今度こそ。


誰にも負けない。


そう答えた瞬間。


足元が消えた。


身体が落ちていく。


「おい!」


白い世界が遠ざかる。


アステリアの姿も小さくなっていく。


最後まで。


彼女は悲しそうに俺を見ていた。






◇◇◇


声が聞こえる。


女の声。


「あなた! あなた!」


うるさい。


「見て! 元気な男の子よ!」


目を開ける。


眩しい。


ぼやけている。


巨大な女の顔があった。


誰だ?


「よく頑張った、マリア!」


今度は男。


髭面。


泣いている。


「ありがとう……本当にありがとう……!」


状況を整理する。


マリアと呼ばれた女。


泣いている男。


そして。


俺は抱かれている。


身体が異常に小さい。


本当に。


転生した。


理解した瞬間。


女――マリアが俺を抱きしめた。


「生まれてきてくれてありがとう」


身体が固まった。


「レオン」


マリアが言った。


「あなたの名前は、レオンよ」


レオン。


それが。


二度目の俺の名前らしい。


「よろしくね、レオン」


頬に何か柔らかいものが触れた。


口づけされたらしい。


胸の奥に。


妙な感覚があった。


知らない感覚だ。


「おぎゃあああああ!」


勝手に声が出た。


くそ。


赤ん坊からか。


効率が悪すぎる。


言葉も話せない。


歩けない。


仕事もできない。


前世なら絶対に採用しない仕様だ。


まあいい。


時間ならある。


この世界を知る。


知識を集める。


力をつける。


金を作る。


人脈を作る。


組織を作る。


そして。


必ず世界の頂点に立つ――。



このときの俺は、まだ知らなかった。


この何もない農家で。


俺が前世で三百億円を使っても手に入れられなかったものを。


これから何度も、何度も。


与えられることになるなど。



そしていつか。


世界の頂点に立つことよりも。


一人の男をそこへ立たせることを選ぶ日が来るなど。


このときの俺には。


知るはずもなかった。

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