ワシントンの影
一九四三年六月十七日
「高すぎるな」
ハリー・S・トルーマンは赤鉛筆を置き、書類の上に並ぶ数値を指先で示して吐き捨てた。
向かいに立つ調査員は、驚いた風もなく手帳にメモを取った。委員長がその言葉を口にするのは、今日の午前中だけで既に三度目だった。
ワシントンの六月は、湿気を含んだ重苦しい暑さに包まれていた。開け放たれた窓から、遠くポトマック川の気配を孕んだ風が吹き込んでくる。
一年半前の真珠湾攻撃以来、合衆国は軍需工場や兵舎、飛行場を次々に増やし、巨大な造船所では昼夜を問わず船を造り続けていた。それに伴って、政府が吐き出す金のタガも完全に外れていた。
戦時中だ。必要な金ならいくらでも使えばいい。前線の兵士には一発でも多くの弾薬が要る。一機でも多くの爆撃機が、一隻でも多くの補給船が要る。ハリー自身、かつて第一次大戦のフランス戦線で砲兵中隊を率いた身だ。現場の渇きは骨の髄まで知っている。
だが――「戦争だから高くついても文句を言うな」という陸軍省や軍需業者の居直りを、ハリーは絶対に許さなかった。
「予定より三か月遅れ、見積もりより三割高い。それで、言い訳は?」
「資材不足と、熟練工の引き抜き合戦だそうです」
「実に便利な言葉だな。戦争ってやつは」
ハリーは金属フレームの眼鏡を押し上げ、次の頁をめくった。
〈上院国防計画調査特別委員会〉。
だが、この部屋をその仰々しい正式名称で呼ぶ者は一人もいない。新聞も役人も、陸軍の将校たちも、誰もがとうに〈トルーマン委員会〉と呼んでいた。
ハリー自身、その呼称を嫌ってはいない。
この委員会は、軍の足を引っ張るための嫌がらせ組織ではない。むしろ逆だ。同じ一ドルなら、一ガロンでも多くのガソリンを前線へ届ける。同じ鋼材なら、一隻でも多くのリバティ船を海へ浮かべる。若者が命を賭けて泥を舐めている横で、背広を着た業者と将校が戦争を口実に税金をドブに捨てるのを叩き潰す。
それが、叩き上げの上院議員ハリー・トルーマンの仕事だった。
「次は?」
ハリーが促すと、調査員が一冊の薄い茶封筒のファイルを出した。
「ワシントン州です。パスコという町の近郊」
「何がある?」
「それが――よく分かりません」
ハリーの手が止まった。丸いレンズの奥の目が鋭く細くなる。
「分からない?」
「大企業のデュポン社が絡んでいます。極めて大規模な土地買収と建設計画ですが……」
「何を造っているんだ?」
「デュポンと陸軍省に照会をかけましたが、まだ回答が来ません」
ハリーは無言でファイルを開いた。
そこには地図だけでなく、土地の登記記録や農民たちへの立ち退き通知、建設資材の調達に関する資料まで綴じられていた。どの書類を追っても巨額の金が動いていることだけは分かるのに、肝心の「用途」だけが丸ごと抜け落ちている。
「……ずいぶん広いな」
「四十万エーカーを超えます」
ハリーは顔を上げた。
「町でも丸ごと造る気か?」
「陸軍には、なぜこの場所を選んだのか、推定費用はいくらか、工事はどこまで進んでいるのか、それに、なぜこれほど広大な農地が必要なのかを文書で問いただしている最中です」
税金を使う以上、説明責任がある。それをつつくのが委員会の存在理由だ。
「回答が来ないなら待とう。来なければ、公開公聴会に呼び出すまでだ」
ハリーがファイルを閉じようとした、その時だった。
デスクの上の黒い電話機が、甲高いベルを鳴らした。
調査員が受話器を取り、二言三言交わすと、急に顔色を変えて背筋をピンと伸ばした。受話器の口を手で覆い、緊張した面持ちで囁く。
「委員長……陸軍長官です」
「スティムソン?」
ハリーの眉が跳ね上がった。
ヘンリー・L・スティムソン。共和党の長老でありながら、ルーズベルト政権で陸軍長官を務める国家の重鎮である。軍の官僚が返事を寄こすのとは、重みがまるで違った。
ハリーは背筋を正し、静かに受話器を受け取った。
「ハリー・トルーマンです、長官」
受話器の向こうから届いたのは、老齢特有の少し掠れた声だった。しかし、そこには長い政治経験を積んだ男だけが持つ重みがあった。
『トルーマン議員。君の委員会が追っている、ワシントン州パスコの件で電話した』
スティムソンの口調には、軍部の官僚たちがよく使うような言い訳や警戒の色はなかった。
『あの計画については、私自身がすべて承知している。……その全容を知る者は、この世界でも二人か三人しかいない。非常に重要な秘密開発の一部だ』
「長官」
ハリーはそこで言葉を挟んだ。
「もう結構です。それ以上は何も仰らないでください」
受話器の向こうに、短い沈黙が落ちた。
ハリーは続けた。
「特定の目的なんですね。あなたが大丈夫だと思うなら、それで十分です」
スティムソンが静かに返した。
『特定どころか、唯一無二の目的だ』
「分かりました」
『どうもありがとう』
カチリ、と静かに電話が切れた。
ハリーが受話器を置くと、待ちきれない様子で調査員が身を乗り出してきた。
「長官は何と? 一体、何を作ってるんです?」
「知らん」
「……はい?」
「知らんよ」
ハリーはパスコのファイルを再び手元に引き寄せた。
「……調査はどうしますか?」
「即時中止だ。打ち切る」
調査員はあからさまに納得のいかない顔をした。
「何を造っているのかも分からないんですよ? これほど大きな計画なのに、用途さえ分からない。もし軍が何かをごまかしていたら――」
「ヘンリー・スティムソンが『知っている』と言ったんだ」
ハリーは眼鏡の奥から、鋭い眼光で若い部下を見つめた。
「あの人が自分で内容を承知していて、非常に重要な秘密開発だと言った。なら、我々が嗅ぎ回って新聞沙汰にし、ヒットラーや東條英機に『ここに凄まじい秘密がありますよ』と教えてやる必要がどこにある?」
「ですが、金は……」
「山ほど使ってるだろうな」
ハリーの口の端が、わずかに皮肉げに歪んだ。
「だからこそ、気になって仕方がなかったんだがね」
調査員もつられて苦笑し、肩をすくめた。
ハリーは赤鉛筆を取り、ファイルの表紙に大きく印をつけた。
調査は、ここで止める。
理由は、それで十分だった。
国民の血税を貪る愚者には、徹底的に説明を求める。だが、この国が勝つために、真に闇に伏せるべき国家の秘密まで暴くつもりはない。
その境目を見極めることもまた、彼の仕事だった。
ハリーはファイルをデスクの端へ押しやった。
何を造っているのかは、結局分からなかった。
だが、それでよかった。
スティムソンが知っている。
今の自分に必要なのは、それだけだった。
「よし、次は?」
ハリーは気持ちを切り替え、手元に差し出された別のファイルに目を落とした。
デスクの上には、まだ片付けるべき戦時下の帳簿が山積みになっていた。




