スーパーキャッチャー
夕方のスタジアム、眩しい芝生の上で巧は念入りなストレッチを続けていた。
「まだやるのか?」
既に練習を終え、タオルで汗を拭きながらトムが近付いて来た。
「ああ、後少しで終わるよ」
巧は大きく体を伸ばしながら、笑顔で言った。その後、マネージャーのゴードンと広報のジェニーが一人の若者を伴ってやって来た。
「こっちはアマュア界のホープ、マット・ハミルトンだ」
大きなお腹を揺らし、汗を拭きながらゴードンが紹介した。先に笑顔でトムと握手すると、起き上がった巧にマットは握手を求めた。
「宜しく……」
「巧・松田ですね」
巧が名乗る前に、マットは先に言った。その瞬間を、広報のジェニーはバチバチと写真を撮っていた。
「ああ、そうだけど」
違和感を感じる巧だっが、笑顔で対応した。
「未来のスーパースターが突然の来場とは、どう言う事だ?」
トムはゴードンに聞くが、満面の笑顔のゴードンは嬉しそうに言った。
「今年のドラフトで、マットを指名できるかもしれないんだよ」
「そうか、それは凄い事だが、ウチなんかでいいのか?」
トムは苦笑いでマットに聞いた。プラネッツの上部組織、シアトル・グリフォンズはメジャーでも、お荷物球団と呼ばれていたからだった。
「ええ、指名して頂ければ、どの球団でも行きますよ」
その爽やかな言い方に、ゴードンは顔を真っ赤にして興奮した。だが、トムは巧から視線を外さないマットの本心が分からなかった。有望とは言え、1Aのしかもトライアウトを受けて入団した選手を見る目ではなかったから。
「巧、良かったらマットに投げて貰えないか?」
「えっ、でも」
ゴードンの急な言葉に巧は驚いた。
「待てよ、部外者だぜ。規約とか何とかあるだろ? ジムの許可を取ったのか?」
流石にトムは首を捻るが、やって来たジムは平然と言った。
「巧、投げれるのか?」
「まあ、大丈夫ですけど」
巧は笑顔を向けた。直ぐにマットは着替えに向かい、慌ててゴードンとジェニーは付いて行った。
「説明しろよ」
「上からのお達しだ」
少し不機嫌にトムの問いに答えたジムは、マットの遠ざかる背中を見詰めた。
「まあ、それなら仕方ないな」
呟いたトムが防具を取りに行こうとするが、ジムは呼び止めた。
「待て、お前はキャッチボールの相手をしろ」
「キャッチボールって、誰が受けるんだ?」
唖然と聞くトムに、ジムは平然と言った。
「スーパースターが受けたいんだとさ」
「受けるって、マットは打ちたいんじゃないですか?」
今度は巧が聞くが、ジムは呆れたような口ぶりだった。
「お前、知らないのか?」
「ええ、まあ」
唖然と聞く巧に、トムは笑いながら言った。
「マット・ハミルトン。現役だけじゃなく、歴代のメジャーリーグを代表するキャッチャーさえ超える逸材と言われる若きスーパースター候補だぞ」
「そうなんだ……」
聞いた事はあったが、巧には実感が湧かなかった。だが、高校通算最多のホームラン記録や、歴代最高の盗塁阻止率と守備率、そしてキャッチング技術にも高評価を受けていた。
また、キャッチャーでありながら盗塁技術にも優れ、稀有な俊足を生かして盗塁記録をも塗り替えたのだった。正に走攻守揃ったアマュア界のスパースターなのだった。
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「本当に、心当たりない? 小さい頃、近所に住んでたとかさ……」
「うん……」
心配顔のエミリーが覗き込むが、ジニーに心当たりは全くなかった。
「一目惚れにしても、何か変なんだよね」
首を捻るエミリーだが、顔は一瞬で曇った。その訳は、取り巻きを引き連れて現れたレベッカの姿だった。
「あーら、今度はマットまで……大変ね、モテるお人は」
嫌味に笑うレベッカに、気が動転していたジニーも普段に戻った。
「何なの、何時も絡んで来て」
立ち上がったジニーの前に、リタとパッドが立ち塞がった。
「もう、マットと付き合っちゃいなよ」
「そうだよ。巧は私達に任せておけばいいのよ」
そこにレベッカが、勝ち誇った様に追い打ちを掛ける。
「よしなよ、二人とも。別に巧はジニーの恋人じゃないんだから」
「いい加減にして」
一触即発、ジニーはリタとパットを押し退けレベッカに詰め寄った。だが、その緊迫した状態もサムの元気な声で、終わりになる。
「エミリー! ジニー! 探したよ」
「フン。まあ、いいわ」
サムの登場で、レベッカ達も帰って行った。
「ありがとう、サム!」
エミリーに抱き着かれ、サムは赤面した。そんな様子は、ジニーを一緒に救った。
「エミリー、色々とごめんね……」
「いいって、私もサムもジニーの味方だよ」
エミリーのハグはジニーにとって、何物にも代え難い大切なひと時だった。
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現れたマットは、ゴードンが用意したプラネッツのユニホームを着ていた。その細マッチョな体型もありってキャッチャーの防具姿は、とても高校生には見えなかった。
そして、ホームベースに座る様子には風格さえ漂わし、ベースの幅より少し広く脚を広げ腰を上げた構えは、柔らかそうな膝も含め理想の構えだった。
「樣になってるな。メジャーのキャッチャーでも、あんな綺麗な構えはないぞ」
マウンドの横でトムが呟いた。
「何か、カッコいいですね」
巧も笑顔になった。
「最初はストレートからだ」
腕組みしたルーの指示で、巧はストレートを投げる。構えた所に寸分の狂いもなく収まる、ややホップするストートをマットはビタ止めで乾いた良い音を鳴らした。
返球も素早く正確で、巧の一番取りやすく態勢を崩さない場所に投げるマットのコントロールは完璧だった。
「いい音だ」
「どうせ、俺はヘタだよ」
マイクが感心して頷くが、トムはヘソを曲げた。
「次、カーブ」
ルーの指示で、巧は次々に持ち球を投げた。吸い込まれると言う表現が、正にお似合いの投球だった。
「完成してるな……補給した時、常にボールをピッチャーに見せてる」
ジムも頬を緩ませた。
「下半身主導の理想形にプラス、腕や手首の動かし方も柔らかい……ワンバウンド、左右に散らせ」
最後の方は小声で囁いたマイクに、巧は一番取りにくいワンバウンドを投げた。だが、マットは投球と同時、まるで予知していたかの様に瞬時にボールの着地地点に回り込み両膝を付いて屈み込んでしっかり胸に当て、前に落とした。
横方向でも先にミットが動き、瞬時に体をスライドさせ壁を作った。
「逸らせるボールを投げる方が難しいな」
マイクはニヤリと笑うと、ルーもお手上げだと笑った。
「それでは、全力で」
返球時に、マットはマスクを上げて巧を見た。まずは、渾身のストレート。地面に近い位置から放たれたボールは、低い軌道のまま加速する様に進み、ベースの手前でホップすると、インコースに構えたミットに乾いた音と共に吸い込まれた。
マットは投球の余韻を楽しむ様に一瞬静止した後、巧に綺麗な返球をした。一通りの変化球を投げ、かなり様になって来た鬼曲がりのスライダーさえ完全補給する様子に、トムは頷きながら言った。
「初見であのスライダーを捕るなんてな……巧、あれ投げてみろ」
「あれですか? まだ何処に行くか分かりませんよ」
「いいから……マット、最後だ! カットボール」
トムの声に、マットはカットボールの軌道を予測して構える。だが、巧の腕から放たれたボールは、まるでストレートの様にベース上まで伸びて来た。
そしてミットに収まる瞬間! つまり打者がインパクトする場所で、ボールは鋭く小さく超俊敏に曲がった。それは刹那の事で、ボールはミットの端で弾かれた。
転々と転がるボールを見ながら、マットは唖然と呟いた。
「何だ今のは……」