小さなパーティ
朝エミリーに連絡して、サムの祖父の家で待ち合わせを約束した。食材と炊飯器、丼ぶりなどを籠に詰め、昼過ぎにジニーは巧を起こしに行った。
「ママに借りたの、免許持ってるんだよね?」
ジニーは笑顔で車のキーを渡した。
「持ってるけど、左ハンドルは……」
巧は自信がなさそうだった。
「これがドア、これがタイヤ、そしてこれがハンドル……同じよ。それにこの車、マツダって書いてあるしね」
ジニーは腰に手を当てて笑った。
「まあ、そうだけど」
巧は恐る恐る車をスタートさせた。
「巧っ、左側っ!アメリカは右側通行よっ!」
左側を走ろうとする巧に、ジニーは大声で笑った。
「車、壊さないでね……」
見送ったサラは、冷や汗混じりに呟いた。
「ジニー、そんな顔で笑うんだ」
横を向いた巧はジニーの横顔を見ていた。
「前見てよぉ」
車線をはみ出す車に、ジニーはまた大笑いした。
祖父の家では、玄関でサムとエミリーが待っていた。
「サムったら可笑しいの、玄関前で出迎えるって聞かないのよ」
エミリーはジニーの肩に手を当てて笑った。
「やあ、エミリー……サム、初めまして」
巧はにっこり笑って挨拶した。
「ハァイ、巧」
「こっ、こちらこそ、サムソン・ジェンキンスです……」
エミリーの軽い挨拶とは別に、サムはコチコチだった。
「何、緊張してるのよ?」
笑顔のエミリーをよそに、サムは赤面して直立不動で言った。
「あのな、エミリー。ミスター松田は、近い将来メジャーで大選手になる人だぞ」
「まだなってないけど……」
巧の方が赤面した。
「それでは、ミスター松田……こちらへ……」
「巧でいいよ、サム」
笑いながら、コチコチのサムの肩に手を置いた巧だった。しかし、サムの言葉……”近い将来メジャーで”っていうのは、ジニーの心の奥にそっと影を落とした。しかしジニーは、そんな不安を巧の笑顔の向こうに投げ捨てた。
「初めまして、巧・松田です」
「サムの祖父でリチャード・ジェンキンスです、ようこそ」
家に入った巧は、サムの祖父と握手した。
「早速ですが……たっ巧……裏で……」
まだ緊張しているサムは、巧を裏に案内した。そこには立派なブルペンがあり、ジニーやエミリー、リチャードも横のベンチに腰掛けた。
流れるフォームから、伸びのあるストレートがサムのミットに快音を残して収まった。
「最高です巧っ!」
サムは泣きそうなくらい感動していた。
「色々なピッチャーを見て来たが、松田は最高じゃ」
目を凝らしたリチャードは、その球の伸びに感嘆の声を上げた。サムの構えた位置に寸分の狂いもなく収まる様は、エミリーにも驚きだった。
「サムの言うの……本当になるかもしれない」
エミリーも呆然と呟いた。
「巧っ、ライジングボールっ!」
ジニーの声に、巧はニコリとした。
「よしっ、こいっ」
サムが姿勢を正す、大きく振りかぶった巧の腕から放たれたボールは、地面スレスレの軌道から、ベースの手前で急上昇した。ミットの動きが間に合わず、サムのマスクを直撃した。
「サムっ、大丈夫っ!」
驚いたエミリーは、倒れ込んだサムに声を上げて駆け寄った。
「なんとか大丈夫」
起き上がったサムの顔は笑ってた。
「あんな球……打てる訳ない……」
呟いたリチャードも、鳥肌が立っていた。
「大丈夫かい?」
巧もサムの側に寄って手を差し伸べた。
「最高です、巧」
サムの目は感動でウルウルだった。
「さあ、エミリー食事の支度手伝って。殿方はお庭で日向ぼっこでも」
笑顔のジニーは、エミリーを促した。
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巧を中心に、サムとリチャードはベンチで野球談義に花を咲かせ、ジニーとエミリーはキッチンで食事の用意をしていた。
「近くで見ると凄いね」
キッチンで手伝いながらエミリーは、まださっきの投球が目に焼き付いていた。
「そうだね」
頷きながらも慣れた手際で、ジニーは料理を進めていった。
「でも、何が出来るのか想像も出来ない……日本人の奥さんになるのも大変だね」
「えっ?」
エミリーの言葉にジニーの胸は締め付けられた、そして心から、巧の食事をずっと作っていきたいって思った。
日の当たる庭ではサムもリチャードも、飾らない誠実な人柄の巧にすっかり大ファンになっていた。食事は和やかに進み、巧とサムは競争でお代わりをしていた。
「サム……何杯食べれば気が済むのよ」
呆れ顔のエミリーが呟いた。
「美味いだろ、サム」
巧は、嬉しそうに頬張りながら笑った。
「最高っす」
サムは四杯目のお代わりをした。
「わしも初めてじゃか、これは美味い……豚がこんなに美味いとは」
感動したリチャードは、ジニーに微笑んだ。
「まだ、お代わりあるから」
ジニーは皆の笑顔が嬉しかった。
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「あー美味かった」
帰りの車の中、巧はカツの美味さを思い出していた。
「よかった……」
ジニーは頬を染めた。
「皆、いい人だね」
「うん」
夕方の空は茜色で、ジニーは帰るのがもったいないって思った。
「海が見たいな」
無理は承知でジニーは呟いた。
「いいよ」
巧は正面を向いたまま笑った、ジニーの胸はキュンとなった。
「ほんと?」
「でも……」
「えっ?」
「道が分んない……」
少しコケたジニーだったが、カーラジオから流れてくるビリー・ホリディのバラードが夕方の風を柔らかく流していた。
海岸通に車を止めて砂浜に座る時、ジニーはさっと側に寄り添った。そして巧の体温を右腕に感じ、どうしてこんなに落ち着くんだろうと感じていた。
「ねえ、巧はメジャーに行くの」
膝を抱えて俯いていたジニーは、小さな声で呟いた。
「ああ……夢だからね」
巧は波の彼方を見ていた。
「パパね……マイナーのピッチャーだったんだよ」
顔を上げてジニーも波の彼方を見た。自分でも忘れたい思い出が、自然と口に出た。
「そうなんだ」
視線をジニーの横顔に向けた巧は、長い睫毛にキュンとなった。
「子供の頃はいつもキャッチボール……男の子だったらって、いつも言ってた」
ジニーの視線は波間から、水平線へと紛れた。
「それで上手かったんだ」
「パパに喜んでもらおうって、いっぱい練習したんだ」
「喜んでくれただろうね」
「うん……でもね、パパ……家庭よりベースボールを選んだの……ハイスクールに入る前、離婚して出て行ったんだ」
「そう……」
巧は声を落とした。
「凄い強気のピッチャーだったのよ、今は東海岸のマイナーチームでコーチしてる……巧の両親のことも聞きたいな」
ジニーは明るい声で話した。そして自分でも驚いていた、今は嫌いなはずの父親の事を明るく話すなんてと。
「両親は小さい頃、交通事故で死んじゃった……だからあんまり憶えてないんだ……そして僕は施設で育った」
巧も明るい声で言った。
「ごめんなさい……」
ジニーは胸に激痛が走った、自分はなんてバカなんだと俯いた。
「昔の事だよ、気にしないで……だからかな、ジニーが羨ましい」
巧は優しい笑顔をジニーに向けた。
「えっ?」
「あんなに優しいママがいるんだから」
「うん……」
サラの笑顔が浮かんだジニーだった。そしてもっと巧の事が知りたい、どんな事でも受け止めたいと……波間に思った。