第1話 平穏な日々
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「こんにちは、律っちゃん」
「いらっしゃい、紗月ちゃん。さあ上がって」
「失礼します」
紗月という名の少女は、玄関先で靴を脱ぐと、それらを丁寧にそろえてから、他人の家に上がる際の挨拶をしてから上がった。
彼女の名は小畑紗月。小学校以来の私の親友で、とても気立てがいいことで学年でも有名だ。
ショートヘアの黒髪に赤いヘアピンを付けたシンプルな外見だが、彼女の初々しさと相まって、同性の私から見てもとても魅力的だ。
対する紗月も、私の髪の事をとてもほめてくれる。緊張するけど、それがとてもうれしい。
私の名は上総律子。ごく普通の女子中学生だ。
「律っちゃんは、いつ見てもロングヘア似合うね。」
紗月がうらやましそうな眼をしながら、律子の髪にゆっくり触る。
「そんなことないよ。毎日手入れするのが大変だし」
「律っちゃんの長い髪を梳いていると、何か落ち着く」
紗月はたまに我が家に遊びに来ることがあると、私の髪を櫛で必ず梳く。
何でもそうしていると、彼女自身落ち着いた気持ちになれるらしい。
最初はなぜなのか緊張した。
なんかとても気恥ずかしい。
でも、不思議と嫌な感じはしない。
休みの日にお互いの家に行っては、勉強を教えあったり、世間話をしたり、今のような感じでのどかに過ごすのが私たちの過ごし方だ。
私の部屋は、元々祖父が住んでいたところで、室内は床の間がある和風の造り。
紗月を招いて、静かに話をしたりして過ごす時間が過ぎていく。
何気のない日常の中に、私の安寧のすべてがある。
床の間にある刀掛けに据え置かれた、私の祖父の太刀。
江戸時代の有名な人の描いた、文人画の掛軸。
私の祖先たちの白黒の写真の数々。
それらを見ているだけで、私は自分の歴史を実感できる。
自分に連なる歴史を感じさせられるものを身近に置いておくだけで、それは無意識のうちに自分を守ることになると思うのだ。
今は亡き祖父の部屋。今も当時の主要な部分はそのまま残している。
ふと床の間を見ると、私が幼稚園の時に祖父が言ってくれたことを思い出した。
そのことが、今も忘れられない。
「おじいちゃん。これもしかして?」
「ああ、これは我が家の代々の刀だ。太刀っていうんだよ。おじいさんがしょっちゅう見ているテレビの時代劇とかで、お侍さんが腰に差している武器だ」
「うん、知ってるよ。それで人を斬っちゃうんでしょ?」
「そう。これは人を死に追いやることができてしまうものなんだ。」
「おじいちゃん。それなら、なんで武器って存在するの?」
「武器ってみんなを傷つけちゃうんでしょ?そんなのが無くなっちゃえば、みんな幸せになるんじゃない」
律子の真剣なまなざしに、祖父はしばらく黙った。何か、自らの心の内をのぞき込んでいるような感じがして、しばらくして再び口を開いた。
「人は同じように見えて、みんな心が違う。こっちが相手を受け入れる気持ちを持っていても、相手はそうとは限らない。あらゆる命は自分を守る力を持っているし、敵が来たら闘わなければ食べられてしまう。お母さん熊も、子熊を連れているときはとても狂暴になるから近づいちゃダメって、前に生き物の絵本で見たよね」
「人も同じ。生きるか死ぬか、殺すか殺されるか、そんなときのために、心の軸を作っとかなきゃいけない。みんなが同じ良心を持って過ごせたらどんなにいいだろう。でも、我々が住んでいるのは理想的な世界じゃないんだ」
「律子にも、これから律子の心を壊そうとする悪い人が出てくるかもしれない。力それ自体に良い悪いの意味はないんだ。」
「何が善で何が悪か。その判断ができるように律子はなってほしい」
「邪悪な者と戦う意思と力。これを律子には身に付けてほしい」
「うん、わかった」
律子が微笑む。
「律子のその素直な心がいつまでも続いてほしい」
当時の私には、祖父の言っていることがよくわからなかった。
でも、世の中に不安を感じることが多くなった今、その意味が少しずつ解ってきた感じもしなくない。
お父さんに聞いたところ、自分が幼少の頃は自由に歩ける地域が多かったが、今は私たちが住んでいる地域と、隣の紗月が住んでいる地域以外には一人で行ってはだめといわれた。
表面上は以前と変わらないが、目に見えにくいところで治安がとても悪くなっているらしいのだ。
つい最近も、近くの地域の住宅街にある、普通のお店の入っているテナントビルの横に、振り込め詐欺グループの隠し拠点が入居していることが発覚して問題になったと新聞で知った。ただ、どうゆうわけか、警察が捜査する前にもぬけの殻になったらしい。
不安はそれだけではない。
何かが怖いのだ。自分たちの自由な心がじわりじわりとなくなっていくような。いつの間にか狭められていくような。それがとても分かりにくい形で、大掛かりにされているような。
「律っちゃん。律っちゃんてば」
自分の不安について考え込んでいた私は、紗月の言葉でふと我に返った。
「さっきから呼んでるのに。どうしたの?」
「ああ、ごめん。なんか考え事してたらちょっと思うところがあって」
意味があるのかないのかわからない、でもとても大切な平穏が静かに過ぎていく。
願わくば、この安寧が続きますように。




