第1章:同期、結婚するってよ(私じゃなく)
第1章:同期、結婚するってよ(私じゃなく)
「――でさ、その時坂井が何て言ったと思う?」
新橋の年季の入った居酒屋。
黄色いプラスチックのビールケースをひっくり返した椅子の上で、営業部の同期・佐藤がすでに出来上がった赤い顔で声を張り上げている。
金曜日の夜八時。
今日は営業部と商品企画部による、初夏の新作合同キャンペーンの打ち上げ兼懇親会だった。
「『この発注数じゃ、うちの浅田が泣いちゃいますよ』だって!
言われてぇ~、俺も坂井に『うちの』って呼ばれて守られてぇ~!」
「ちょっと佐藤君、変な言い方しないでください。誤解を招くでしょ」
私はジョッキに残ったウーロン茶をぐっと飲み干し、すかさずおしぼりでテーブルの上のこぼれたビールを拭き取った。
浅田美奈、二十八歳。
食品メーカー『二条ゼネラルフーズ』の商品企画部でチーフを務めて、今年で三年目。
自分で言うのもなんだが、仕事の打たれ強さと、飲み会の幹事としての立ち回りには定評がある。
今夜も大皿の唐揚げにレモンを絞るべきか否かの派閥論争を笑顔で捌き、グラスの空いた上司にさりげなくメニューを差し出す「気配りマシーン」として完璧に機能していた。
「まぁでも、実際助かったよ。ありがとね、湊斗」
私が視線を向けた先にいる男――坂井湊斗は、ワイシャツの袖を肘まで捲り上げ、すでに三杯目だというハイボールのグラスを揺らしながら、端正な顔をへにゃりと緩めた。
「いーえ。美奈が仕込んだ企画書が完璧だったから、俺も強気で交渉できただけ。こちらこそ感謝してます、浅田チーフ」
そう言って、湊斗は私のグラスに新しいウーロン茶をトクトクと注いでくれる。
湊斗は、新卒でこの会社に入社して以来、丸七年の付き合いになる同期だ。
新人研修で同じ班になり、初めての飛び込み営業で一緒に死にそうな顔をし、深夜のオフィスで終電を逃してもなおクレーム対応の報告書を書いた。
その日は会社近くの漫画喫茶の同じパーティションの中で、スーツのまま泥のように寝た。
地方出張のビジネスホテルで、スッピンにお互いスウェット姿で缶ビールを煽りながら、会社の愚痴を朝まで言い合ったことだって一度や二度ではない。
私にとって湊斗は、恋愛対象とかそういう甘酸っぱいものではなく、過酷なビジネス社会を生き抜くための「戦友」であり、もはや空気のような存在だった。
「それにしてもさぁ」
対面に座る同期の女子・香織が、枝豆を口に放り込みながらニヤニヤと私たちを見比べてくる。
「あんたたち二人、本当に付き合わないよね。ぶっちゃけ社内の七割くらいは『実はデキてんじゃね?』って疑ってるよ?」
「おいおい勘弁してくれよ」
湊斗が声をあげて笑う。
「美奈と付き合うとか、お前それ、鏡に向かって恋に落ちるようなもんだぞ? こいつの頭の中、俺と同じくらい二条ゼネラルフーズの売上推移で埋まってんだから。色気の『い』の字もありゃしない」
「ひどい言い草。私だってプライベートではめちゃくちゃ乙女かもしれないじゃん」
「はいはい。じゃあ今度、そのイマジナリー乙女の美奈ちゃんを俺に紹介してよ」
ハハハ、と周囲が笑う。私も一緒になって笑う。
いつものやり取り。いつもの距離感。
私たちはこれでいいし、これが一番心地よかった。
だが、宴もたけなわ、そろそろお開きにしようかと私が伝票に手を伸ばした、その時だった。
「あ、みんな、ちょっといい?」
湊斗がグラスをコト、とテーブルに置いた。
その場の空気が、わずかに引き締まる。
いつもはおちゃらけている彼の瞳が、少しだけ真面目な色を帯びていたからだ。
「この席にいるみんなは、俺の社会人生活をずっと支えてくれた大切な仲間だから、誰よりも先にちゃんと言っておきたくて」
湊斗は一呼吸置き、隣に座る私を、それからテーブルのみんなをぐるりと見渡した。
「俺、結婚することになった」
一瞬の静寂。
そして、私の中の時計は完全に止まった。
次の瞬間、居酒屋の天井を突き破るほどの歓声が沸き起こった。
「えええええ!?!?!?」
「マジで!? 坂井、お前いつの間に!?」
「おい誰だよ相手! 社内か!? 社外か!?」
皆の視線がチラッチラッとこちらに注がれるのを感じる。
背中をバシバシと叩かれ、揉みくちゃにされる湊斗。
私はと言えば──。
「え……?」
手にした伝票を持ったまま、指先が凍りついたように動かなくなっていた。
喉の奥が、きゅっと狭くなる。
頭の芯が、冷たい水に浸されたようにジーンと痺れていく。
「相手、誰なんだよ!」
先輩社員の追及に、湊斗は少し照れくさそうに首の後ろを掻きながら、その名前を口にした。
「……二条さん。新規事業室の、二条麗奈さん」
その場が、先ほどとは違う種類の、驚愕のどよめきに包まれる。
二条麗奈。
今期、海外MBAを取得して鳴り物入りで入社してきた、我が社二条ゼネラルフーズの現社長の実娘。
誰もが恐れ多くて近づけない、本物の社長令嬢にして超絶美女。
「逆玉じゃねえか!!」
「坂井、お前どんだけ大金星だよ!」
盛り上がる周囲の声が、急に遠くなる。
まるで、プールの中から地上の音を聞いているかのように、こもって聞こえる。
まだ何人かの人が、こちらをチラッと一瞥するのが、刺さる。
「……美奈?」
ふいに、湊斗が怪訝そうな顔で私を覗き込んできた。
視線が交わる。
今、私どんな顔してた?
ちゃんと笑えているだろうか。
幹事としての「便利な良い人」の笑顔を、ちゃんと作れているだろうか。
「……おめでとう、湊斗。びっくりしすぎて、顎外れるかと思った」
絞り出した声は、かすかに震えていたかもしれない。
けれど、大騒ぎする居酒屋の喧騒にかき消されて、誰にも届かった。
湊斗だけが、一瞬だけ、不思議そうな顔をして私を見つめていた。
◇
「ただいま……」
夜十一時半。
電気の消えたワンルームの自宅に滑り込み、鍵を閉めた瞬間、背中がずるずるとドアに沿って崩れ落ちた。
バッグを床に放り出し、ストッキングを脱ぎ捨てる気力もないまま、体育座りでフローリングの冷たさを感じる。
胸の奥が、信じられないくらい痛い。
痛くて、苦しくて、息がうまくできない。
「なんで……?」
暗闇の中で、ぽつりと声が溢れた。
湊斗が結婚する。
あの、いつも私の隣でバカ笑いをしていた男が、誰か一人のものになる。
それも、私とは住む世界が違うような、完璧なお姫様と。
もう、深夜のオフィスで「お前が残業するなら俺も付き合うわ」なんて言って、コンビニの肉まんを半分こしてくれることもない。
「美奈の作る企画、俺が一番売ってやりたいんだよね」と、熱い目で語りかけてくれることもない。
私の隣は、彼の指定席では、なくなってしまう。
──私、湊斗のこと、好きだったんだ。
二十八歳。出会って七年。
あまりにも近すぎて、あまりにも特別すぎて、「友達」「同期」という都合のいいラベルの裏に隠し続けていた感情が、そのラベルを剥がされた瞬間に、一気に溢れ出してきた。
「遅すぎるよ、バカ……」
一度溢れ出したら、もう止められなかった。
私は傷を負った獣のように這うようにして立ち上がると、冷蔵庫へ向かった。
途中のコンビニで、気がつけばカゴに放り込んでいたちょっとお高めの高級モンブラン、棚にあった全部の四個。
パッケージを荒々しく破り、スプーンですくって口に詰め込む。
濃厚な栗の甘みが広がるのと同時に、大粒の涙がポロポロと、モンブランの上に落ちた。
「おいしい……おいしいけど、サイアク……っ」
甘くて、しょっぱくて、喉が詰まる。
私の、七年間のあまりにも情けない初恋は、自覚した瞬間に、木っ端微塵に失恋へと変わっていた。




