結末と始まり
日も暮れかけた頃、お屋敷に戻ったわたくしに真っ先に飛びついて来たのはレティツィア様でした。
わたくしの顔をご覧になるや否やぽろぽろと涙をお流しになり、手首についた傷痕をご覧になっては青ざめてまた大粒の涙。わたくしは大丈夫ですからと何度申し上げてもレティツィア様がわたくしをお放しになることはなく、わんわんと泣きながら何度も謝罪されました。
もちろん、レティツィア様に非などあろうはずもなく、謝るとしたらむしろわたくしの方だと思うのですが、それも何度申し上げても聞き入れてはいただけませんでした。
どうやら王子殿下からロゲール様が如何に非道なる人物かを聞かされたレティツィア様は、王子殿下方がお屋敷を後にしてから、わたくしがどんなにひどい目に遭っているかと心配しながらお待ちになっておられたそうなのです。
レティツィア様の真っ赤に腫れた目から溢れる涙がようやく途切れた頃、お帰りになった王子殿下が何も分からないわたくしに事件のあらましをお話してくださいました。いつもなら座らないソファに身を沈めたわたくしの隣には、真っ赤にさせた鼻をすするレティツィア様がわたくしのお仕着せのエプロンの裾をぎゅっと握りしめてお座りになっていました。
どうしましょう、超可愛い。鼻血が出そうです。
一方、自分の隣にレティツィア様がいないことに少しだけ傷ついたような表情を浮かべるのは王子殿下です。ふふん。あなたの隣には巨大なマルコ様がお似合いですよ。そういえばいらっしゃいませんけど。
「最近人さらいが横行している地域があると聞いてね。それが、どうもロゲール・ブフナーの領地の近辺で多発していたんだ」
一週間の視察はそのためのものだったと言います。なるほど、ロゲール様の領地は王都からは大分離れたところにありますから、視察に時間がかかるのも納得です。
「彼は王都で商売をしていたと言ったそうだね?」
「はい」
「彼がやっていたのは、富裕層向けの売春宿だ――それも非合法の」
一服盛られた後、目を覚ます時に聞いた悲鳴を思い出しました。あれは、そういうことなのでしょうか。
「金を積めば危ない真似も黙認する。合法の売春組織ではできないようなことが、そこでは日常的に行われていた。働かされていたのは、年端もいかない少年から中年女性まで。髪の色や目の色まで細かく特徴を分けて、各種取りそろえたという訳だ」
彼がわたくしにこだわった訳が、ようやく理解できました。
「……そこに赤毛だけがいなかったということですわね」
王子殿下は無言で頷かれました。
「人さらいにあったと報告のあった人物は大体そこで見つかった。……もう既に手遅れだった者もいたが」
耳の奥に残る、悲鳴。思い出して鳥肌の立ったわたくしの腕を、レティツィア様の白い手がさすってくださいます。
「彼の妻だった女たちは五人ともそこで働かされていたよ。飽きたらごみ箱に捨てるように、あそこへ連れてきて客をとらせていたんだ」
屑だな、と王子殿下が爽やかな笑顔でおっしゃいました。……あなたの笑顔が一番怖いです。
「それにしても驚いたよ。彼について調べていた矢先に、まさか君との縁談が持ち上がっていたなんてね」
「……わたくしも、驚きました。ここへ訪ねて来られたあの方は、とても誠実そうな方に見えていましたので……でも、やはり噂は大体本当のことだったのですね」
わたくしは自分の見る目のなさに落胆いたしました。ほいほいとあのような嘘に騙されて、いいひとだと信じ込んでしまうなど、わたくしはなんて馬鹿なのでしょう。
というか、彼の演技力がすごいのかもしれませんわ。そういうことにしておきましょう。役者にでもなって汗水たらして働けばよかったものを、残念ですわねっ。
「ああ……念のため聞いておくけど、結婚したかったかい?」
「そんな訳ありませんわっ!」
こてんと小首を傾げて問いかける王子殿下に、わたくしは噛みつくようにして答えました。そんな話を聞いてまで結婚したいと思う女がこの世のどこにいましょうか。
「はは、それはよかった。必要であれば君の母上には私から手紙を書こう。まあ、なんにしても君が無事でよかった。君に何かあれば、マルコがどうなっていたかわからないからな。我が家の平穏はこれで守られた」
やっぱりここでもマルコ様の名前が出てくるのですね。いえ、もういいです。諦めました。
「はあ、そう言えばわたくしまだお礼を申し上げておりません。マルコ様はどちらにおいででしょう」
「そう言えばいつの間にかいなくなっていたな……」
首を傾げあうわたくし達の隣で、レティツィア様がぽつりとおっしゃいました。
「……マルコさんには、ダニエラさんに対して接近禁止令を出しました」
「え!?」
驚いて声をあげたわたくしの向かいで、王子殿下がぶふっと盛大に吹きだしました。
「レティ、君が?」
王子殿下の笑い交じりの問いかけに、レティツィア様はじろりと険呑な視線でお答えになられました。
「私だってこのお屋敷の女主人ですもの。それぐらいの権限はありますでしょう」
「いや、面白いから全然いいんだけど、どうしてまた?」
肩を揺らしながら笑い続ける王子殿下を冷たい目でご覧になりながら、レティツィア様は口を開かれました。
「私、怒ってるんです。マルコさんがちゃんとダニエラさんを捕まえておかないからこんなことになったんですもの。今回の件は全部マルコさんのせいと言ってもいいくらいだわ」
ぷんすかと怒るレティツィア様も可愛らしくて誤魔化されそうになりますが、いっそ気持ちいい程の超理論ですね、それは。
「それに」
ギラリとレティツィア様の鋭い目が王子殿下を見据えました。
「私、王子殿下にも怒っています。あの時、ダニエラさんの誤解を解こうとした私を王子殿下がお止めになったから、余計にややこしくなったんです。やっぱりあの時王子殿下の言うことなんて聞くんじゃありませんでした。本当にごめんなさい、ダニエラさん」
レティツィア様は最後にもったいなくもわたくしに向かってそうおっしゃって、しゅんと肩を落とされました。
「あ、あの、本当にもうよろしいのですよ。レティツィア様は謝られるようなことは何ひとつされていないではありませんか」
正直こうやってなだめてさしあげるのも疲れてきましたし、わたくしの向かいで石像よろしく固まったまま衝撃から復活しない王子殿下のことも気になります。
わたくしはソファから降りて床に膝をつくと、俯くレティツィア様の顔を覗き込んで微笑みました。
「レティツィア様はわたくしの将来のことをご心配くださっているようですが、今はここでレティツィア様にお仕えしているのがわたくしの何よりの幸せなのです。ですからレティツィア様はお許しにならないかもしれませんが、わたくしはなにより自分のために、レティツィア様のお側を離れないと決めました」
視線の合ったレティツィア様の灰色の瞳に、涙の滴が盛り上がります。
「わたくしのわがままでしかありませんが、やっぱりご迷惑でしょうか?」
レティツィア様はわたくしの両手をお取りになり、目に涙を湛えたまま、ふるふると首をお振りになりました。艶やかな黒髪がさらさらと音を立てます。
「私、よかれと思って余計なことを言ってしまって……ごめんなさい。ダニエラさんにはダニエラさんの考えがあるのに。本当は、ダニエラさんがいてくれるととてもうれしいです」
視線を落したまま頬を染めて小さな声でおっしゃったレティツィア様はたいそう可愛らしくて、抱きしめてしまいそうになるのをこらえるのは大変でした。
「それに、マリーさんみたいに通いっていう手もありますものね」
……結婚前提のその発言は聞かなかったことにさせていただきます。
* * * * * * * * *
とっぷりと日も暮れた頃、お話を聞き終わったわたくしはきょろきょろしながらお屋敷内を歩き回っておりました。
「マルコ様を見なかった?」
使用人の休憩室を覗いてそう問いかけると、中にいたヨハンナが赤く腫れた目で恨めしげに見上げてきました。
「こんなに心配していた私達を差し置いて、第一声がマルコ様だなんてひどい!」
わっとテーブルに突っ伏したヨハンナの背を、アンディさんがなだめるようにさすっていました。
「えー……、ごめんなさい?」
「最後の疑問符が余計ですわ」
反対にカルラは鏡に向かって化粧を直しています。つんとそっぽを向いている彼女のエプロンの裾は皺だらけです。
「カルラも、心配掛けてごめんなさい」
カルラは気にかかることがあると無意識にエプロンの裾を触る癖があるのです。エプロンの裾は、近年まれに見るほどの皺具合でした。
「わっ、わたくし心配なんて枝毛の先ほどもしていません!」
「うん、ありがとう」
「何のことかわかりませんわねっ」
ふんとそっぽを向いた彼女の首筋は真っ赤に染まっていました。素直ではありませんが、正直者なのです。
「マルコ様なら裏庭に向かうのを見たけど。随分前だからもういないかもしれないわね」
マリーだけはいたって平常心のようでした。けれど、通いの洗濯婦であるマリーの終業時刻をとうに過ぎたこの時間まで残っていてくれるほどには、心配してくれたのでしょう。
「ありがとう、マリー。外はもう暗いけど、帰りは大丈夫?」
「うん、平気。アンディさんに送ってもらうから」
「アタシ!? 聞いてないわよ!」
「夕食の準備終わってるんでしょ。いいじゃん、見た目はとりあえず男なんだし、活用しないともったいないじゃない」
「マリーの言うことももっともですわね。アンディさん、よろしくお願いします」
「なんでアタシなのよ。他に男手あるでしょ」
ぐたぐたと文句を言うアンディさんの耳元にマリーが口を寄せ、何やらひそひそと囁いた途端、アンディさんはぎくりと体をこわばらせました。わたくしの位置からではすべては聞こえませんでしたが、『おネエの皮をかぶった肉食狼が』という一言だけは聞き取れました。一体どういう意味でしょう?
固まったまま動かないアンディさんに、マリーがにっこりと微笑みかけます。
「送ってくれるわよね?」
「…………ハイ」
急にしおらしくなったアンディさんに首をかしげながら、わたくしは裏庭に向かいました。
昼間の雲はすっかり晴れて、夜空には大きな満月がぽっかりと浮かんでいました。そのおかげで明るい裏庭の花壇に腰かけた大きな背中が丸まっている風情は、なんとも憐れみを誘うものでした。
「……やはり一番怒らせてはならないのは王子妃だった……」
よくわからないひとりごとと、ため息の音が聞こえました。
「マルコ様」
呼びかけると少し驚いたように立ち上がって振り返り、すぐに二、三歩後ずさりました。珍しくやや狼狽したような表情で、気まずい雰囲気です。
「あ、妃殿下からはもうお許しを頂いています。……接近禁止令は、解除で」
わたくしがそう言うと、マルコ様はくしゃっと頭を掻き交ぜて、こちらに背中を向けると花壇の縁に座りこんで長いため息をつきました。その隣に腰掛けて、月を見上げます。木々の間から覗く満月は、金色の光で世界を照らしていました。
「マルコ様、先程は助けに来てくださってありがとうございました」
無言のまま頷く気配が隣でします。
「……それから、お詫びもしなければなりません。わたくし、とんでもない誤解を」
マルコ様が食人嗜好をお持ちになっているというのがわたくしの誤解であるということは、レティツィア様に先程教えていただきました。
今思えば本当に失礼な誤解です。マルコ様にはいくら謝っても足りないくらいです。
でも、ではなぜマルコ様はあんなことをなさったのでしょうかとお聞きすると、レティツィア様は頬を染めて俯かれ、王子殿下はにやにやと笑うばかりで何も教えてくださいませんでした。
「驚いたとはいえ、その様な猟奇的な嗜好をお持ちになっていると思い込むなんて……」
マルコ様への気持ちを自覚したわたくしは、その想いをなかったことにしようといたしました。それは、わたくしが近づけば近づくほど危険性が増すと思われたからです。けれど、そんな気持ちを抱えたまま他の人のところへ嫁に行くことなどわたくしにはできませんでした。
ですからわたくしはあの日、ロゲール様との縁談をお断りし、マルコ様とは一定の距離を置いたまま、このお屋敷に残ることを決めたのです。
……これでも随分と悩んだのですが、今こうして考えてみると、随分馬鹿みたいな話でした。
ですが、それが誤解とわかった今は、少し事情が変わりました。気付いてしまった想いには、どうやら目を背ける必要がなさそうですし――今思えば、そもそもそんなことは到底無理だったのです。
「あれは、そういう意味じゃない」
隣から小さな声が聞こえてきて、わたくしは視線を隣に向けました。
「では、どういう意味でしたの?」
小首を傾げて問いかけると、ちらりとこちらを向いた視線が、戸惑うように彷徨いました。ですがそれも一瞬のこと。
「……こうするのと同じだ」
随分と甘い声でそう言って頬に当てた手は暖かく、その心地よさに目を閉じました。ふわりと降ってきた優しい感触が、わたくしの密やかな吐息をさらっていきました。
* * * * * * * * *
「わたくしの実家、ですか?」
素っ頓狂な声を出したわたくしの前で、相変わらずの無表情でマルコ様が頷きました。
じりじりと照りつける日差しを避けて木陰に移動したわたくしは、マルコ様の突然の実家訪問宣言に驚きました。
「えっと……どうしてですか?」
「『ご家族を安心させて差し上げるべきだ』と王子妃に怒られた。……俺も筋は通すべきだと思う」
あの事件から数週間経ちましたが、どうやらレティツィア様の中で随分とマルコ様の印象が変わったようでした。以前は怖がりこそしないものの、どこか近寄りがたく思っていらっしゃったようですのに、最近では長身のマルコ様を見上げて説教を出来るほどにおなりです。親しみがわいた、と言えば聞こえはいいかもしれませんが、実情は多分、格下げのようなものだと思われます。
それにしても場所を変えて本当によかった。
わたくしを探してマルコ様が休憩室を覗いたのはついさっきのことです。別に見られて困ることをするわけでもなし、そのままそこでお話をしていても良かったのですが、にやにやちらちらそわそわとこちらを気にする同僚たちの視線に耐えかねて、猛暑の裏庭に出てきたのでした。
こんな話を聞かれていたら、明日にでも何か青い物など用意されていそうです。
「あの、念のため言っておきますが、わたくし結婚はするつもりがないのですけれど」
わたくしがそう言うと、マルコ様はぐっと言葉に詰まったようでした。
え、やめてくださいそんな目をするのは。まるでわたくしが弄んでいるような気持ちになるではありませんか。
「……なぜ」
もしマルコ様に尻尾がついていたなら、今は確実に力なく垂れて足の間に挟まっていることでしょう。そんな声音でした。
「だって身分が違います」
なんたって伯爵家。しかもどこぞの子爵家の介護要員募集とは訳が違います。しがない貧乏田舎領主の小娘が伯爵家に嫁ぐなんてそんなこと。
「伯爵家と言っても俺は三男だし、兄が爵位を継いでしまえば継ぐべき爵位もない三男の俺はお払い箱だ。つまり家は関係ない」
お払い箱ってそんなことはないと思いますが、まあ確かに不測の事態でも起こらない限り、三男のマルコ様にお鉢が回ってくることはないのでしょう。だからっていいものなんでしょうか?
「でも、ほら、同じ家にお仕えする使用人同士の恋愛はご法度と言いますし」
むっ、何を今さらって思いましたね。無表情でもそれくらいわかりますよ。
「正確に言えば、俺は王子がまだ城に住んでいた時につけられた侍従で、この家の使用人とは給料体系が違っている。つまりこの家の使用人とは言い難い」
なんと。それは知りませんでした。マルコ様のお給料は王子殿下個人ではなくお城の財政から出ているということですわね。
ふむ。そろそろ後がなくなってきましたよ。
「えーとえーと、わたくしまだもう少しお仕事をしていたいのです。レティツィア様のお側を離れがたくて」
「仕事を辞めろというつもりはない。王子妃からは通いでもいいと許可をもらっている」
根回しの早さが半端ないですね。というか、なんでそんな話をわたくしより先にレティツィア様にするんですか。順番を絶望的に間違っていますよ。
「うう……」
言い訳のレパートリーが底をつき、わたくしにはただ短いうめき声をあげるしかありませんでした。大きな手がわたくしの手をそっと包み込み、遠慮がちに引き寄せられて、わたくしはマルコ様の胸に身を預けました。
「だって七つも年上の女なんて……もう少し年の近い女の子が探せばいくらでも」
いますでしょう、と言いかけたわたくしの言葉をさえぎるように、背中に回った腕の力が強くなりました。
「年は気にならない。……俺は、あなたがいい」
耳元で囁く声の甘さに頭の芯がくらくらと揺れるようで、思考がまとまりません。何も答えられずにいると、ため息がうなじをくすぐりました。
「……嫌なら仕方がない」
なんでもない風にそう言って、腕の力を緩めて体を離そうとするマルコ様に、わたくしは思わずしがみついていました。
「い、嫌とかそういう訳ではなくて……!」
自分の必死さが恥ずかしくて、顔が真っ赤になるのがわかります。けれど、そんなわたくしの顔を覗き込んだマルコ様の顔を見て、諦めるしかないと悟りました。
「無理にでもさらっていく」
いつも無表情な顔に乗った控えめなその微笑みは、わたくしを一生逃してはくれないとわかってしまったのですから。
「その顔反則です……」
俯いたわたくしの頭上で不思議そうに小首を傾げた無表情に、わたくしはこれからも翻弄され続けるのでしょう。でもいいのです――それが、わたくしだけなら。
赤らむ頬を隠したくて、わたくしはマルコ様の胸に頬を寄せました。
「……猫、飼いましょうか」
* * * * * * * * *
そうして。
ふたりと一匹の生活が始まるのは、もう少しばかり先の話です。
お読みくださってありがとうございました!