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ドリィ  作者: 萩尾さく
第三章 生か死か
10/22

3-4

 喉仏の僅かに下あたりが、ちくりと痛む。シンが突きつけている剣の先が食い込んでいるのだ。イデの目に映るのは、木々の間からのぞく白っぽい空と、憎い憎いシンの顔。

 奴は笑っている。ニタニタと、さも面白おかしいものを見ているかのように。

 実際、奴は愉快なのだろう。奴にとって自分と戦うということは、生まれたばかりの仔犬をいたぶることとそう変わりないのだ。だから、一気に決着をつけようとはして来ない。少しずつ少しずつ痛みを与え、そしてこちらが足掻くのを見て、滑稽だと言わんばかりに楽しんでいるのだ。

 自分の胸を踏みつけているシンの足をどうにかどけようと、イデは奴の足首をつかんで力を込める。だがそうすればするほど、シンは踏み込む力を更に強めてくる。イデは呼吸をすることすら困難になりつつあった。

 この状況を脱する方法がひとつある。セージを呼べばいい。

 一声呼べば、セージはどんなことをしても、イデの元まで駆けつけ、シンからイデを解放してくれることだろう。

 だが、イデはそれをしたくなかった。

『すごいのはドリィであってお前ではない』

『お前には力なんてない』

 今ここでセージを呼んでしまえば、シンが言ったこれらの言葉を認めてしまうことになる。

 自分には力などないと、一人では何も出来ないと。

 シンの目の前で、それを認めることだけはどうしてもしたくなかった。

「さあ、どうした? ドリィを呼ばないのか? ならここで死んでおくか?」

 シンの剣が、また少しイデの喉に食い込んできた。

「ああでも、中央は公開処刑をやりたがってるからな。殺したら怒られるかもなあ」

 忌々しい。この赤いマントの男が疎ましい。

 この男は分かっているのだ。イデが自らの矜持にかけて、セージを呼ぶことはないだろうということを。それを分かっていながら、あえて何度も聞いてくる。『ドリィを呼ばないのか?』と。

 悔しくて悔しくてたまらない。イデは頭の中で、何度も何度もシンを八つ裂きにするイメージを浮かべた。だが、そうしたところでこの状況に変化が訪れるわけもない。

 イデは口を開く。

 やはりこの危機から脱するためには、セージを呼ぶしかない。シンの目の前でそれをするのは、やはり嫌だ。けれど、死ぬよりはいい。

 そうだ。自分は常に『生』を選んできた。

 六年前のあの時だってそうだ。家族も、己の尊厳も、右腕すら失って、それでも自分は生きることを選んだ。 どんなに惨めになろうとも、どんなに悔しかろうと、生きていることに意味がある。死んでしまっては何もかもが終わりになってしまう。生きてさえいれば、惨めさも悔しさも、乗り越えることが出来る。

 生きてさえいれば――

「セー……」

 しかしそこまでしか声は出なかった。シンが剣をさらに突き刺してきたからだ。

「オイオイ、本当に呼ぼうとしやがったよ。お前には意地ってもんがないのか? 少しは自分で何とかしてみたらどうなんだ」

 逃げられない状況を作っておいて、よく言う。イデはそう言ってやりたかったが、もう声を出すことも叶わない。少しでも喉を動かせば、さらに刃が喉へと侵入してくる。

「やっぱりお前はゴミだな。どうしようもないカスだよ。生きている価値のない人間だ。お前のような奴は死んだ方が……」

 シンの声もまた、最後まで続くことなく途切れた。イデを見下ろしていた顔を、バッと上げる。そして素早くイデの上から退いた。

 さっきまでシンがいたあたりを、何者かの拳が横切る。そして横たわるイデのすぐ脇に、何者かが立つ。

「イデ!」

 そう言って、イデを覗き込んでくるのはセージだ。

「平気か?」

「セー……ジ……」

 イデは激しくせき込みながら、自由になった身を起こす。剣先で傷つけられていた喉元から血が流れてイデの服を汚した。

「用心棒のご登場か。良かったな、助けてもらえて」

 シンが皮肉たっぷりに言うが、次のセージの台詞にかき消され、その声はイデに届かなかった。

「リリが祠に入れられた。答えは聞いたのか?」

 イデは首を横に振る。

「そうか……」

 セージは顔だけをシンへ向け、言葉をイデに向ける。

「ここは俺が食い止める。祠へ行って、答えを聞いて来てくれ」

「……お前、他の連中は?」

「何とか動けなくしてやった。でなきゃ、こっちに来られないだろう?」

 それもそうだ。イデは納得してから、立ち上がる。セージの言う通りに、祠へ行くために。答えを聞くために。

 シンとセージはにらみ合う。お互いに、一歩も動かない。セージは強い。悔しいがイデの何倍も強い。そのセージが相手では、シンも今までのようにはいかないのだろう。眉根を寄せ、厳しい顔つきになる。セージの動きを一瞬たりとも見逃さないように、集中しているのだ。

「イデ、早く!」

 セージが急かす。イデは喉元から流れ出る血液をそのままに、祠へと身をひるがえして走り出した。

(ちくしょう……!)

 己を罵る言葉しか、頭に浮かんでこない。やはり自分は、シンの言う通りに無力なのだと。

 すべてを失ってから六年間。自分は何が変わったのだろう。『六年前とは違う』と言っておきながら、その相違点がまるで見えてこない。だから、ますます惨めな気持ちになる。

 イデはその気持ちを振り落とすかのように首を振った。喉の傷が痛んだが、心の方がもっと痛かったから少しも気にならなかった。

 今は後ろ向きな考えに捕らわれている場合ではない。生贄の娘、リリの答えを聞くことが第一だ。それを聞かなければ、イデとセージはどうすることも出来ない。彼女を助けることも、このまま逃げることも。

 祠へとたどり着く、閉められてしまった岩の扉に左手をつき、イデは叫ぶ。

「リリ!」



 暗闇というものが、これほどまでに恐怖感を掻き立てることを、リリは初めて知った。思えば真の闇の中にひとりでいるということが、初めての経験なのだ。

 自分ひとりの部屋を持っているリリは、毎夜ひとりで眠っていた。けれど、同じ家の中には両親がいたし、例え灯りを消してしまっても、窓から差し込む月明かりがあった。

 幼い頃、母親と喧嘩をしたナキルに付き合って、秘密のお家で一晩を過ごしたこともあった。あの時は森の中で月明かりも届かず、恐ろしい思いをしたものだが、それでもあのときはすぐ隣にナキルがいた。

 恐ろしい。何も見えないということが、恐ろしい。すがるものが何もないということが、たまらないほどに恐ろしい。

 リリはピクリとも動かない岩の扉に背中を預け座り込んでいた。

 イデとセージがこの村を訪れてから、ずっとずっと考えていたことに答えは出た。リリは死を選ぶことを決めた。それなのに、リリは闇を恐れている。どうせ死ぬのだ。もう怖いものなど何もないだろうに。

 外はどうなっただろうか。岩の扉を通じてかろうじて聞こえていたざわめきが、今はもう聞こえなくなっている。イデとセージは捕まってしまったのだろうか?

 カツン――

 何か音がした。何か硬いものが転がっているかのような音。その音は祠の中から聞こえてきた。

(何の音?)

 リリは身を竦ませる。この祠の中には自分以外に誰もいないはずだ。それなのにどうして音がするのだろう。リリは扉のところで座ったきり動いていない。それはリリが立てた音ではないのだ。

 カツン――

 もう一度、同じような音がした。聞き間違いではない。確かにその音はリリの耳に入ってきていた。

(誰か、いるの?)

 考えてみれば、この祠の扉は最初から開いていた。五年に一度、収穫祭の日、生贄を入れる時にしか開かれないはずの扉が。それは一体どういうことか。

 誰か、この扉を開けた者がいるということだ。

 村長たちはイデとセージがこの扉を開けたのではないかと疑っていたようだが、イデはそれを拒否していた。ということは、この祠の扉を開けたのはイデとセージではない。だとすれば誰が? そしてこの扉を開けた誰かは、どうして扉を開けたのだろうか。そして今はどうしているのだろうか。

 リリの心に冷たいものがよぎる。

 もしかしたら、この祠の中にひとりきりだと思ったのは早計だったのかもしれない。祠の中は真っ暗で、入り口から奥の方まで見通すことが出来ない。その真っ暗な奥に、誰かが潜んでいないとどうして言えようか。生贄の儀式がきちんと行われていたならば、村長を始めとした村人たちも、開いた扉をいぶかしんで、祠の中をあらためたかもしれない。しかし、そんな暇はイデとセージによって奪われていた。

「誰か、いるの?」

 声が震える。

 返事はない。

 カラン――

 代わりに聞こえてきたのは、またもや謎の音。

「誰!?」

 声を強めて、もう一度聞く。しかしやはり返事はない。

 カツン――

 誰かいる! リリは確信した。聞こえてくる音だけではない。誰かがいる気配がする。気のせいなどではない。リリは確かに気配を感じた。そしてその気配は、少しずつリリへと近づいている。

「だ、誰なの!?」

 リリは思い描く。そこにいるのは、神なのではないかと。この祠に入った生贄を迎えに来たのではないかと。そしてイデの言うことが真実ならば、神と悪魔は同じだ。ならば、今リリに迫っているのは、恐ろしい悪魔なのかもしれない。そのことをイデに言ったならば、「神も悪魔も存在しない!」と叱咤されたことだろうが、今のリリにはそこまで考えが至らなかった。

 ただ、恐ろしかったのだ。

(どうして怖いの? わたしは覚悟を決めたはず。もう何も怖くなんかないはずなのに――)

 ガタガタと体が震えた。祈りを捧げるかのように、胸の前で手を組み合わせる。そうやって手を握っていないと、激しい震えに体が崩れ落ちてしまうのではないかと思えた。

(怖い!)

 闇に潜む何者かは、もうすぐそこまで来ていた。

『リリ!』

 背中を預けている岩の扉の向こう側から、かすかにそう声が聞こえた。イデの声だ。

「イデ!?」

『答えだ! 答えを聞かせろ! お前はどっちを選ぶ!?』

 彼の声は切羽詰まっているようだった。こうしてリリへ話し掛けているということは、まだ捕まってはいないのだろうが、いつまでもここにいてはいずれ捕まってしまうだろう。イデの焦りは分かる。

『さあ、選べ! 生か! 死か!』


 選べ――――!




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