異世界転生
愛とはなんだろう。私が愛したものは全て逃げるか壊れるただ私は愛しただけなのに。雨は嫌いじゃなかった。世界の輪郭がぼやけるから。教室も、信号機も、人の声も。
全部が水に沈んだみたいに遠くなる。
だから雨宮ミコは、傘を差さない。
制服の袖から落ちる雫を見ながら、濡れた横断歩道を歩いていた。赤信号。大型トラック。悲鳴。
そして。気づけば、森だった。
「……」
静かだった。木々は異様に高く、空は青すぎる。
空気に甘い匂いが混じっていた。ゲームみたい。
そう思った瞬間、茂みが揺れた。ガサガサ、と。
ミコは振り返る。そこにいたのは。
小さな、半透明の青い塊だった。
「……スライム?」
直径三十センチくらい。つぶらな黒い点が二つ。
目なのかも分からない。
そしてその身体には、裂け目があった。
傷。粘液がじわりと漏れている。
たぶん、魔物に襲われた。あるいは冒険者に。
スライムはミコを見ると、少しだけ後ろへ跳ねた。
警戒している。ミコはしゃがみこんだ。
「大丈夫」
「痛かったね」
スライムは答えない。ただ、震えていた。
森の奥から遠吠えが響く。
低い声。獣。ミコはゆっくり顔を上げた。
暗い森の奥。黄色い目が三つ。
灰毛狼。ゲームなら序盤の雑魚なのだろう。
だがスライムは違う。あれに噛まれれば終わる。
狼が近づく。牙を見せる。スライムがびくりと跳ねた。
その瞬間。ミコの胸の奥で、何かが軋んだ。
嫌だった。
この小さな生き物が傷つく未来を想像した瞬間、世界が急に不快になる。
黒板を爪で引っ掻く音みたいに。狼が飛びかかった。
ミコは立ち上がる。ただ、それだけ。
轟音。空気が爆ぜた。
見えない圧力が森を一直線に薙ぎ払う。
木々が倒れ、土が抉れ、狼たちは悲鳴すら上げず吹き飛んだ。
静寂。葉っぱが、ぱらぱら落ちる。
ミコは自分の手を見る。
「……なに今の」
分からない。でも、どうでもよかった。
彼女は再びしゃがみ、スライムへ視線を戻す。
スライムはぽかんとしていた。
「もう大丈夫」
ミコは制服の袖を破り、そっと傷口へ巻いた。
スライムは逃げない。
それどころか、ぴと、と彼女の指先へ身体を寄せた。
やわらかい。少し冷たい。
ミコは目を細めた。
「……かわいい」
「うん。かわいい」
森の風が吹く。遠くで鳥が鳴いた。
ミコはスライムを両手で包むように持ち上げる。
軽かった。
こんなに弱そうなのに、ちゃんと生きている。
「名前、いるよね」
「じゃあ、プル」
「そのまますぎるかな?」
「ぷるぷるしてるし……プルでいいか」
プルは嬉しそうに跳ねた。
たぶん。ミコはほんの少しだけ笑う。
事故のあと、知らない世界に来て。
普通なら不安になるのかもしれない。
でも今は、不思議と落ち着いていた。
腕の中に、小さな温度があるから。
その時だった。森の外から複数の足音。
金属音。誰かが叫ぶ。
「いたぞ! こっちだ!」
現れたのは、剣と革鎧を装備した三人組だった。
冒険者。先頭の男がミコを見る。
「おい嬢ちゃん! 無事か!?」
「……たぶん」
「森の奥で爆発みたいな音がしたんだ。魔物は?」
ミコは少し考えた。
「あっち」
指差す。そこには、一直線に消えた森があった。
地面ごと抉れている。冒険者たちは沈黙した。
「……は?」
「え?」
「何があった?」
ミコは腕の中のプルを見る。
「この子を守っただけです」
風が吹く。冒険者たちの顔が引きつった。
その時、最後尾の若い男が笑った。
「あはは、そんなスライム一匹で大げさな」
ミコの視線が、ゆっくり彼へ向く。笑顔だった。静かな。
とても静かな笑顔。
「……スライム“一匹”?」
空気が重くなる。森が軋む。
冒険者たちの背筋を、冷たい汗が流れた。
ミコはすぐに表情を戻した。
「ごめんね、プル。怖かったよね」
ぴと、と頬を寄せる。
その背後で、冒険者たちは確信する。この少女。
たぶん。絶対に怒らせてはいけない。




