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「あっ……ど、どうか……どうかお許しくださいっ……。」
薄暗い部屋の一室で、髪の乱れた女性が恐怖に掠れた声で命乞いをする。隣にいる青い騎士隊の服を纏った男性も、女性と同じように床にひれ伏して小刻みに震えていた。
女性は床に頭を擦り付けるように「許して……」と何度も壊れた機械のように呟く。赤く艷やかな髪を振り乱して、一心不乱に目の前の圧倒的強者に許しを乞う。
だが、男は目を細めるばかりで一切の迷いもなく、腰の剣に手をかけて容赦なく振り落とした。
「ぎぃやぁぁああああ!!!」
騎士隊の服に身を包んだ男性か、それとも髪を振り乱して命乞いをしていた女性か。どちらの声ともわからぬ悲鳴が室内に響き渡った。
男は剣を鞘に納めると血のついた剣を側に控えていた従者に渡した。従者は恭しく剣を受け取ると、そっと脇にずれる。
男は何食わぬ顔で、先程まで座っていたソファーに腰を下ろすと、葡萄酒が注がれたグラスを手にとった。
「フィラーレ……。私の愛する天使。あんな駄犬に麗しい君は相応しくない。絶対に渡さないよ。」
男の持つ真っ赤な葡萄酒が入ったグラスが小さく波を立てる。
まるで精巧に作られた彫刻のように見目美しい容姿を持った男は、獲物を定めたかのように目を細めた。
クイッと葡萄酒を口に含み、葡萄酒の芳醇な味を確かめるように舌の上で転がすとゆっくりと嚥下した。
空になったグラスの縁を、男の細く長い指が艶めかしくなぞる。
「準備は整った。もうすぐだよ。フィラーレ……。」
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「フィラーレ。本当におめでとう。あと一週間で結婚式だね。」
アルメシアから受け取った色とりどりの花が束ねられている花束の匂いを胸いっぱいに吸うように、花束の中に顔を埋める。
葡萄酒のように赤みがかったフィラーレの髪が花束に一筋混じった。
「ええ。ありがとう。アルメシア。」
私、フィラーレ・カンタータは、自宅で友人であるアルメシアを招いての最後のお茶会を楽しんでいた。
ちょうど一週間後に、私は婚約者であるロビンソン・アルバトニーと結婚をする。
ロビンソンは私の隣に住んでいる伯爵家の令息で、小さい頃からよく一緒に遊んでいた幼馴染でもある。
どこか危なっかしくて、おっとりとしたまるで子犬のようなロビンソンは、私よりも1歳年上のはずなのに私よりも幼く感じることがある。ロビンソンのことは嫌いではないが、どうしても弟以上には見れず恋愛対象にはならなかった。
それでも、家同士が決めた婚約に意を唱えるだけの理由ではなかった。
伯爵令嬢として育てられた私は、義務に従って嫁ぎ、義務に従って平穏な家庭を築くようにと教育されてきた。
そこには、身を焦がすような情熱的な恋愛を経験するようなことなどまったく求められてはいない。
ただ平穏に過ごして何不自由なく暮らすこと。それが貴族女性の幸せだと私は刷り込まれていた。
それでいいと、私も思っていた。
――この時までは。
「ねぇ、フィラーレ。貴族令嬢としての結婚は家に尽くすことよ。旦那様を独り占めにすることではないわ。」
幸せを胸いっぱいに噛み締めていたのに、アルメシアが目を伏せて声のトーンを低くして私に耳打ちしてきた。
「ええ。わかっているわ。」
私は苦い気持ちを押し殺して小さく答えた。
「わかっているならいいわ。貴族の結婚に甘い夢をみたらだめよ。」
アルメシアはどこか諦めたような視線で私のことを見つめる。
先月、5歳年上の伯爵と結婚したばかりのアルメシアの言葉の重さを改めて噛み締める。
アルメシアのふわふわな金髪が風に揺れながら、私の心をざわつかせた。
「……承知しているわ。愛人の一人や二人、正妻の広い心で受け入れないとね。……お母さまから嫌というほど聞かされているわ。」
「そう。それならいいわ。」
アルメシアは化粧で隠した隈をそっと指でなぞった。アルメシアの指先がほんのりと湿る。
「フィラーレ。私たちはいつまでも親友よ。結婚する前に、結婚した後も、ね。」
「ええ。もちろんよ。アルメシア。」
アルメシアの笑みに力づけられるように私も微笑んだ。
「こ、困ります!ロビンソン様っ!今、お嬢様は来客中でございますっ。」
お茶会を楽しんでいる私たちの元に、場違いな慌てふためく使用人の声が聞こえてきた。それとともに、ダダダダダッと勢いよく走る足音が聞こえてくる。
「あら、噂をすればロビンソン様がいらしたようね。」
アルメシアが口角を上げて、目の前の紅茶から声のする方に視線を移す。
「はぁ……。大きな金色の子犬が走って来たわ。もうすぐ結婚するのだから少しは落ち着いてほしいところだけど……。」
「ふふ。フィラーレがしっかりと手綱を握らないとね。」
ため息交じりに呟いて、大きな金色の子犬に視線を向ける。大きな金色の子犬――婚約者であるロビンソン様は、当家の使用人であるメアリーを振り切るように一目散にこちらに向かって走ってくる。尻尾をはち切れそうなほどブンブンと振り回しているのが見えてきそうだ。もう18歳だというのに、ロビンソン様はまだ落ち着きがないようだ。まあ、そこが弟のようで可愛らしくもあるのだけれども。
「フィラーレッ!!」
大型の子犬が私の姿を目にして太陽のように眩しく笑った。無邪気な笑みに私も笑みを零す。
子犬が転がり込むかのようにロビンソン様が私の前で、足を縺れさせて転んだ。
「もう、ロビンソン様ったら。少し落ち着いてくださいな。」
私はしゃがみ込んで、笑いながらロビンソン様に右腕を差し出す。
ロビンソン様は無造作に私の手を掴み立ち上がる。埃まみれになった服を簡単に手で払うと、
「フィラーレ!私は君との婚約を破棄するっ!」
と、笑顔のまま元気いっぱいにのたまったのだった。




