第11話 水を飼う畑
春。
旅商人ジンが去ってからも、村は活気に満ちていた。
焼き菓子は町へ運ばれ、少しずつ銀貨が村へ流れ込む。
子供たちは今日も広場を駆け回っている。
だが、その輪の中に穣の姿はなかった。
毎朝、夜明けとともに村を出て、川の方へ向かっている。
ミアは籠を抱えながら首をかしげた。
「最近、畑にも牛舎にもいないね」
穣は振り返らずに答える。
「畑を見に行く」
「でも向かってるのは川だよ?」
穣は少しだけ笑った。
「草じゃない。未来だ」
「また分からないこと言ってる……」
◆
数日後。
穣は村人たちを川辺へ集めた。
浅い水辺に、細長い草が一面に揺れている。
トーマが顔をしかめた。
「雑草見せるために呼んだのか?」
穣は一本引き抜く。
泥の中から根が現れた。
「よく見ろ」
穂先から籾を外し、中の粒を見せる。
ミアが目を丸くした。
「麦じゃない」
「ああ」
「これは稲だ」
誰も聞いたことのない名前だった。
穣は水辺を指差す。
「こいつは乾いた畑では育たない」
「いつも水がある場所を選んでいる」
ガルドが腕を組む。
「変わった草だな」
「草じゃない」
穣は静かに言った。
「未来の主食だ」
◆
その日の夕方。
広場の地面に、穣は木の枝で大きな図を描き始めた。
四角い囲い。
川。
水路。
小さな仕切り。
村人たちは不思議そうに覗き込む。
「これは何だ?」
ガルドが尋ねる。
穣は一本の線をなぞった。
「ここから水を引く」
さらに四角を指す。
「ここに水をためる」
トーマは眉をひそめた。
「畑に?」
「ああ」
「わざと水浸しにする」
一瞬、静まり返る。
「頭がおかしくなったか?」
「畑は乾いてる方がいいに決まってる!」
「せっかく水を逃がしてきたのに!」
村人たちも一斉にざわついた。
◆
トーマが前へ出る。
「今まで泥を乾かして畑を作ってきたんだぞ!」
「それをまた水浸しにするなんて意味が分からねぇ!」
穣は否定しない。
「その通りだ」
「だからこれは畑じゃない」
静かに言う。
「田だ」
「……田?」
誰も知らない言葉だった。
穣は図を指差す。
「水を飼う畑」
「水ごと作物を育てる場所だ」
ミアが首を傾げる。
「水を……飼う?」
「流すだけじゃない」
「必要なだけ残す」
「必要な時だけ流す」
村人たちはますます混乱した。
◆
その時だった。
リサが前へ出る。
水路を管理してきた彼女だけは、図面を真剣に見つめている。
「待って」
地面へしゃがみ込む。
「この高さなら水は自然に流れる」
さらに線を書き足した。
「ここに土を盛れば止められる」
「板を立てれば開け閉めもできる」
穣は頷く。
「その通りだ」
リサは少し笑った。
「水は流すだけじゃない」
「止めることもできる」
村人たちが驚いた顔をする。
普段は無駄を嫌うリサが、穣の考えに賛成したのだ。
◆
翌朝。
村人総出の作業が始まった。
鍬で土を掘る。
運ぶ。
積み上げる。
土の壁が少しずつ形になっていく。
ミアは汗をぬぐった。
「これが……田?」
穣は黙々と鍬を振るう。
トーマも最初は不満そうだったが、いつの間にか誰よりも土を運んでいた。
「やるからには完成させるぞ!」
ガルドも笑う。
「昔ならこんな無茶は止めていた」
「だが今は違う」
「お前についていく」
夕方になる頃には、広い四角い土地が完成していた。
◆
最後の仕上げ。
リサが水門代わりの板に手をかける。
「開けるよ」
穣は静かに頷いた。
「ああ」
板が持ち上がる。
さらさらと水が流れ出す。
細い流れはやがて太くなり、新しく作った区画へ入り込んでいく。
乾いていた土がゆっくりと色を変えた。
水面が広がる。
夕日を映し、鏡のように輝き始めた。
村人たちは息を呑む。
「すごい……」
「本当に水をためた……」
ミアは思わず呟く。
「畑が……湖になった」
穣は静かな水面を見つめる。
「違う」
一歩前へ出る。
「これが田んぼだ」
春風が水面を渡る。
揺れる水は空を映し、まるで大地そのものが青空を抱いているようだった。
穣はその景色を見つめ、小さく頷く。
「ここから、新しい命が育つ」




