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アグストヤラナの生徒たち  作者: Takaue_K
三年目前期
91/150

第28話-1 アベルの何気ない一日



 舞踏会講習から数日経ったある日。



 その日一日、アベルとその仲間たちは久方ぶりの休暇を満喫していた。



 学府の外へ仕事で出るようになってからあらゆる生徒たちが実感することの一つに、学府での生活がどんなに素晴らしかったかということが挙げられる。如何に授業がきついといえど も、命の危険も肉体を極限まで酷使する必要も無いし、何より暖かい寝床がいつでも存在するというのは何にも替え難い魅力である。


 


 アベルたちは今年一年はまだ生徒の身分であるため、受けようと思えば授業を受けられるし、寮をはじめとした学府の施設を休日には利用できる。そして今、アベルは存分にその恩恵に浴していた。



「ふぁ…ぁ、ふ……」



 窓から差し込んできた昼過ぎの陽光で目を覚ましたアベルは、柔らかい寝床の上で大きく伸びをする。それでもしばらくはごろごろと惰眠を貪っていたが、 やがて空腹にせっつかれて起き出すこととなった。



 春の穏やかな日差しが降り注ぐ石造りの廊下をゆっくり歩きいつもの教室に入ると、専用にあつらえた椅子に腰掛け一心不乱に何かを読んでいるリュリュがアベルの目に入った。



「おはよう、リュリュ」


「ん? んー、()()()()アベル」


 返事したものの、リュリュは視線を落としたままだ。



「何を読んでるんだ?」


「これ? ボク宛に届いた手紙」


 よくよく見ると、干した草を編んだ物に何かの汁で文字らしきものが細々と書き付けてある。



「先日届いてたんだって」


 夜会服の作成でごたごたしていた間に届いていたらしい。



「誰から?」


「ボクの故郷のみんな。ユーリィンの里を経由して送ってもらったんだ」


「へぇ」


 そういえば学府にいるときは心配しなくても構わなかったからすっかり忘れていたが、小翅族はその外見の可愛らしさから人気があり、裏では剥製や観賞用目的に人身売買が行われているとユーリィンから聞いたことがある。それを警戒して、森人の里を経由したのだろう。



「わざわざ大変だよなぁ」


「まあ、ねぇ。不便は不便だけどしょうがないよ、そういうもんだし…うん」


 ようやく顔を上げたリュリュは小さく肩をすくめると、読み終えた手紙をくるくる巻き取った。



「何が書いてあったんだ?」


「グリザの実が生る兆候があった、って話」


「…何それ?」


 聞きなれない単語にアベルが首をかしげると、リュリュは判りやすく説明してくれた。



「ボクら小翅族がある特別な儀式に使う際、薬の材料に使ってる実なんだけど。百年に一度しかならない希少な実なんだ」


「百年?! そりゃすごいな」


 リュリュが大きく頷く。



「うん。とっても繊細だから、一度実が生るのに時間が掛かるんだよ。あと数日で生るらしいから、確保しておきたいんだけどなぁ…」


「王子を送る予定とかち合わないといいね。ところでムクロは見なかった?」



 リュリュは黙って首を振る。


「ネクロと一緒なのかも」


 リュリュはあんまり気にしていないような口調で答えた。



 ムクロは結局、部屋にすら戻らなくなっていた。



 当初は、自分がムクロに対し何か不愉快なことをしでかしたのではないか、そう不安に思っていたのだがどう考えても原因に思い当たるものは無い。いや、そう考えたのはひょっとしたら逆で、ディル皇国へ抜け、一度は(彼自身が望んでしたわけではないが)リティアナに危害を加えかけたことを後悔しており、その気まずさから身をくらましたかも知れない。



 そう考えアベルは何度か接触を試みようとしたものの、隠密行動に優れているムクロを捕まえるのは骨だった。それらしい姿を見掛けても、決まって接近する前に雲隠れしてしまうのだ。



 強いて対抗できそうな人物といえばユーリィンだが、彼女は彼女であまり乗り気でないようで、今回協力する気は無いとすでに公言されている。



 アベルの表情が曇ったのを見て取ったリュリュが慌てて言い足した。



「考えててもしょうがないよ。ムクロにも考えがあるんでしょ。会いたくなったら自分からやってくるって」


 確かにリュリュの言うことにも一理ある上、相手は特にあのムクロである。



 それでも何も言ってこないのがやはり水臭いと感じるが、自分のおせっかいによる空回りなのかも知れないと考えると、他の仲間を無理やり巻き込むのも引け目を感じてしまう。



「うん…そうだね」


 手短にそれだけ答えるとアベルは気持ちを切り替えることにした。


 流しの方へ歩いていき、何か食べられそうな物がないか探す…が、無い。



「リュリュ、ご飯は?」


 話題が変わったことで、リュリュの口が軽くなった。



「もう無いよ? さっきグリューが来てダーダと一緒に全部食べてっちゃったから。足りない分はそこにあった野芋まで根こそぎ全部使ってったよ」


「ええ…」


 思わずアベルは顔をしかめた。



「あいつ何で自分で採ったものじゃなく、ここの物を使うんだよ。使ったなら補充してくれっての…仕方ない」


 後であったら文句を言おう、そう心に決めたアベルは頭を軽く振ると教室を後にした。



「とんだ出費だよもう…」


 次にアベルが向かったのは大食堂だ。先日の舞踏会の際、思っていた以上に戻ってきた額が多かったので、そこから適当な定食を頼むことにしたのだ。



「やっぱり、もうろくなものが残ってないな…」


 遅く来たせいで、残っていたのはやや古くなって硬くなりつつある麦餅、焼きすぎて焦げがきつくなった一角兎の胸肉、煮込みすぎてぐずぐずになった野菜の汁くらいだ。普段はそんなものを食べるくらいなら外へ食材を採りに行くのだが、今は一人だし、何より今すぐ何かを腹に入れたかったので諦めてそれらを適当に選ぶことにした。



「うっ、味付けも濃いなぁ…おかげで焦げが一層苦く感じる…」


 適当に余り物を買い、誰もいない食卓で一人ぶつぶつ文句を言いながらも平らげていると。



「おや、アベル殿」


 表を通りがかったアリウスが、開け放されたままの扉の隙間からアベルを見つけてやってきた。



 今の彼はこざっぱりした格好をしている。ディル皇国から亡命してきた皇太子と知られるのはまずいので、表向きはとある貴族から預けられた体験入学希望の生徒という扱いだ。



「やあ、アリウス。君もご飯かい?」


 アベルが尋ねると、アリウスは首を振った。



「いや、食事はすでに済ませてある。余は手ぬぐいを借りにきたのだ」


「手ぬぐいなんて何に使うんだ?」


「ベルティナの面倒を見ていたのだが、汚れてしまったのでな」


 学府内でもっとも年が近いせいもあるのだろう、アリウスはベルティナと大分仲良くなったようだ。



「そうか。あんまり危険なことをしないようにね。もし裏山に行くなら、ダーダを連れて行くんだ」


「うむ、分かっておる。余も子供ではないからな、迂闊な真似はせぬ」


 鷹揚に頷くアリウスにアベルは苦笑した。子供の時分、祖父に子供じゃないからと反抗したことを思い出したからだ。



「ああ、うん。分かってるならいいんだ」


「うむ。それでは失礼する」


 厨房で水で濡らした手ぬぐいを受け取ったアリウスが出て行くと、アベルも残った食事を平らげることに専念した。



「ふぅ、ご馳走様」


 味はともかく、量だけはたっぷりあった食事を済ませ、大食堂を出ると丁度校庭でメロサーの授業が行われていた。



「あ、グリューじゃないか」


 校庭では今年の二年生たちが刃引きの剣を振り、戦技の訓練をしている。その中でも一際でかい図体をしているグリューがアベルの目に留まった。



「すごい迫力だな…」


 今いるところからは結構距離が離れているにも関わらず、ぶぉんぶぉんと剣を振りまわしている音が届いてくる。元々巨大な戦斧を小枝でも振るかのように自在に扱っていたのだか ら、訓練用の剣で苦労するはずもない。


  


 今は彼も真面目に授業に出るようになったと聞いている。入学当初から優れた技術を持っていたことだし、改めて今戦ったら勝てるかどうかアベルにも自信は無かった。



「あいつも頑張ってるんだなぁ…僕も頑張らないと!」


 食材を食い尽くされた恨みもすっかり忘れ、後輩に触発されたアベルは気合を入れなおした。



「よし! まずは素振りでもするか」


 鍛錬するなら当然使い慣れた武器のほうが良いだろう。


 そう考え、駆け足で教室へ戻ったアベルを先客が出迎えた。



「あら、アベル」


「やあリティアナ。一人でどうしたの?」


 リティアナは手にした杯を挙げて見せる。


「さっき、卸す予定の石鹸を星見台に干し終えてきたところ。で、喉も渇いたところだから何か飲もうと思って」


 依頼がある訳ではないが、自炊していると獣脂と灰が余る。


 それを有効活用して生活費の足しにしているのだ。



「え、一人で干したの?」


「まあね」


 予定していた材料を思い出しアベルが顔をしかめる。


 結構な量があったはずだが、リティアナは格別気を悪くした風でもなく答えた。



「言ってくれれば手伝ったのに。なんか押し付けたみたいですまないな」


「いいのよ。わたしにとってみれば嫌いな作業じゃ無いし」


「そうなの?」


 アベルは、石鹸作りのときの一種独特の臭いはあまり好きではなかった。



「ええ。いつか結婚して家庭を持つときに備えて、やる癖は身につけておきたいもの」


「へぇ」


 新鮮な驚きにアベルが感嘆する。


 リティアナがそんな夢を持っているとは、アベルもついぞ知らなかった。



「きっといいお嫁さんになるよ」


「ありがと。そういうアベルは?」


「うん、ちょっと素振りでもしようかと思ってさ」


 そういうと、お替りを注ごうとしたリティアナがあと小さく声を上げた。


「そうだ、アベル。ちょっと聞きたいんだけど」


「な、何?」



 リティアナが固い口調で問いただしてきた。


「あなた、剣の手入れはちゃんとしてる?」


「え?」


「この前見たとき、あなたの剣の切れ味が前見たときより大分鈍っていたような気がしたけど。こまめに研いでるんでしょうね?」


「あ…」


 いわれてみれば、ここ最近は忙しくて手入れがおざなりだったことを思い出した。



 そう伝えると、リティアナは呆れたように大きくため息を吐いた。


「アベル、あまり不精しちゃ駄目よ? 冒険屋になるにしろそうでないにしろ、最後にあなたの命を護るのは自分の武器と防具なんだから。大切にしてあげなさい」


「わ、わかってるって。後で研ぐつもりだったんだよ」



 その場しのぎで答えたアベルだが、リティアナにはお見通しだった。


「何言ってるの、昔からそんなこと言ってどうせやらないじゃない。ちょうどいいわ、わたしが見ててあげるから、今、ここで研ぎなさい」


「え?! い、いいよ」



 断ろうとしたが。


「いいからさっさとやる!」


 これは逃がしてもらえないと悟ったアベルは、諦めて言われたとおり剣を用意してきた。



「その前にちょっと貸しなさい。視てみるから」


 大人しく剣を貸し渡すと、リティアナは鞘から音も無く抜き正面に立てて構える。鋭い目つきになり、何度か返しては刃に目を走らせた。しばらくは視線を左見右見させていたが、やがてじろりとアベルを睨んだ。



「やっぱりじゃない。大分刃こぼれしてるわよ」


「え? それらしいのは見えなかったけど…」


 アベルが言い訳がましく言うと、リティアナは大きく嘆息した。



「あのねぇアベル…注意しないでもはっきり目に見えるようなら、それはもう刃こぼれじゃなくて欠けたって言うのよ。そうなる前に研がないと駄目じゃない」


 返す言葉も無い。



 この場は一先ず黙ってやり過ごそう、そう考えたアベルだったが。


「しょうがないわね…もう。ほら、さっさと研ぎなさい」


 そうは問屋が卸さなかった。



「えっ、僕が?」


 反射的に返したアベルを、じろりとリティアナがにらみつける。


「当然でしょ! 誰が使ってる武器なのよ、あなたの武器なんだからあなたが研ぐの!」


「…ごもっともで」



 こうしてしゅり、しゅりと剣を研ぐ音だけがしばらく教室に響く間、横着させまいとリティアナが傍で見張っていた。普段アベル一人ならとっくに満足しているだろう段階になったにも関わらず、気まずい沈黙が丁寧な作業を促した結果、ようやくリティアナも満足できる切れ味に至った。



「これでいいだろう?」


 これ以上は無理だというところまでやりとげたアベルが尋ねると、リティアナはにっこり笑って言った。



「ええ。さ、次は防具ね」


「え…で、でも、今まで僕は剣を研いでいたんだよ?」


 声を詰まらせたアベルが抗議すると、リティアナはそうねと頷いた。



「でもそれは剣の話でしょう? あなたの命を護るのは剣だけだとでも?」


 冷ややかなリティアナの視線の前に、やがてアベルは大きなため息を一つ吐いて折れた。



「分かったよ。やればいいんだろ」


 ややむくれながらも、アベルは今度は防具の手入れをはじめた。



「地味で面倒くさい作業だと思うでしょうけどね。でも冒険屋なんてそんなものよ? 手だれとされる人でも、遺跡に出る日より装備の修理や点検に時間を割く方が多いのは当たり前なんだから、今の内丁寧に手入れする癖をつけておきなさい。新しいのをほいほい買える身分でも無いんだし、死んでからじゃ手遅れなんだから」


「わ、分かったってば」



 鎧に束ねられた小札の錆やゆがみを点検し、盾の取っ手を支える金具が緩くなっていないかと丹念に整備していく。こうやって改めて丁寧に見ると、けっこうあちこちにがたがきていたようだ。



「お、終わった…」


 ようやくすべての修理点検を終えたところで、


「お疲れ様」


 見計らったようにリティアナがほどよく冷えたお茶を淹れた杯を置いた。気付けば喉がからからになっていたアベルは一息に飲み干し、ほうっと息をついた。



「ありがとう、リティアナ」


「どういたしまして。アベル、こういう羽目になるのが嫌ならもっとこまめに、そしてちゃんと点検しないと駄目よ。わたしに言われないでもやりなさい」


「わ、分かってるよ、もう…」


 鎧を片付けているアベルを見て満足そうに頷いたリティアナは、さてと立ち上がった。



「わたしはベルティナを探しに行くけど、アベルはどうする?」


「そうだなぁ…」


 窓の外を見やると、すでに夕焼けが兆している。素振りをするならまだ明るさの残る今のうちがいいだろう。



「少し素振りをしてくるよ。元々そのつもりだったし」


「そう、分かったわ。それじゃあまた後でね」


「うん、また」


 リティアナを見送り、研ぎ石などを片付けてようやく校庭へ向かおうとしたアベルだが、残念ながらまたもや素振りしに向かうことはできなかった。



「あ、アベル! 良かった、ようやく見つけましたわ」


 早足で教室へ駆け込んできたレニーがアベルと鉢合わせたのだ。



「レニー、そんなに血相を変えてどうかしたのか?」


「どうしたもこうしたも。購買でデッガニヒさんが探してましたわよ、野芋二十個の出荷がまだかって」


「え…?」


 そう言われて、ようやくアベルは数日前に受けていた依頼のことを思い出した。野芋二十個の出荷、確か今日が期日だったはずだ。



 アベルたちは評価を下げまいと腐心して依頼をこなしてきたが、たった一度といえど納品できなければ今後の評価、ひいては斡旋される依頼の質が悪化する。



「確か、そこにまとめて置いておいたはずだから、それを持っていってくれないか」


 そういって台所の隅を指し示す。レニーは言われたとおりそこへ向かったが、しばらく周囲を見渡し言った。



「ありませんわよ?」


 そう言われ、アベルは眉をひそめた。



「え、そんなはずないだろ。その辺に甕一杯に入れて置いておいたはずだよ? もっとちゃんと探してみてよ」


 自分が置いたのだ、無いはずは無い。



「といわれても、無い物はありませんわ」


「そんな馬鹿な…」


 半信半疑のアベルも台所に立ったが、なるほど確かに野芋が納められていたはずの甕は中身が無い。



「え、何で無いんだ? この中に入れておいたのに…」


 首を傾げつつふと傍に視線を落としたアベルは、そこに野芋の皮の切れ端が落ちているのが目に入ったことでリュリュとのやり取りを思い出した。



「…あ、もしかして」


「何? 何かわかったの?」


「多分だけど…グリューが勝手に食べたらしい」


 レニーがぱちんと額に手を当てた。



「あの馬鹿! もう! それで、どうするんですの?」


 アベルも軽い頭痛を覚えていた。とはいえ、そうのんびりしているわけにもいかない。



「どうするもこうするも、仕方ないからこれから急いで集めよう。レニーも手伝ってくれ」


「まあ…仕方ありませんわね。判りましたわ」


「他の人にも手伝ってもらいたいけど、みんなどこにいるか判らないからなぁ…」


 リティアナはベルティナを探しに行くとは言っていたものの、ベルティナがそもそもどこで遊んでいるかがわからない。



「止むを得ませんわね。この際グリューでもいいから道中誰か捕まえられるようならそのとき捕まえることにして、まずは急ぎませんこと?」


 確かに、購買での取り扱い締め切りを告げる夜の鐘が鳴るのはそう先のことでは無さそうだ。



「分かってる。さ、行こう」


 こうして書置きだけ残し、アベルは剣の代わりに鋤と甕を掴んで裏山へ急行した。



 幸いアベルたちは昨年までしこたま野芋を掘る機会があったおかげで、今ではどの辺りにどれくらい生えているか野芋の植生に大まかな検討をつけることができるようになっていた。ものの一時間と立たないうちにそこそこ生い茂っている群生地にあたりをつけると、アベルが片っ端から掘り返していくのをレニーが拾い集めていく。



 規定の二十個を揃え、泥を落とすのもそこそこに購買へ持ち込んだところで夜を告げる鐘が鳴った。



「あ、危なかった…」


「ぎりぎり間に合いましたわね…」


 肩で荒い息をつきながらレニーが嘆息した。二人とも、泥まみれの汗みずくになっていた。



「まったく…レニーが気付いてくれたから助かったよ、ありがとう」


「いえ、どういたしまして。それはそうと、こんなことはもうごめんですわ」


 アベルも深く頷いた。



「ちょっとグリューにはきつく言っておかないとな…食べたならその分戻すくらいしろってね。とにかく、教室へ戻ろうか」


 そういって廊下を歩き出したアベルに、レニーが呆れたように


「…アベル、その格好で行くんですの? 泥だらけですわよ」


「え、そう? …うわっ」


 言われて見下ろすと、確かに足や手は泥だらけだ。むしろそうでない部分を探す方が難しい。



 このまま教室に行ってリティアナに見つかった日には、教室を汚すなと怒鳴られるのは火を見るより明らかだった。



「確かにこりゃすごいや」


「私は一度湯浴みしてから向かいますわ。アベルもそうなさったら?」


「うぅん…そうだね、僕もそうするよ」


 少し迷ったが、結局アベルも同じように汚れを先に落とすことに決めた。



「それじゃあまた後で、教室でお会いしましょう」


 その場でレニーと別れると、アベルは着替えを取りに自室へ戻った。人気の無い部屋でさっさと下着などの荷物をまとめると、生徒用に定められた浴場で汗と泥を流した。



「ふぅ…」


 湯浴みを終えた頃には、すでに空は紫に変わり、気の早い星斗がぽつぽつ瞬いている。さっぱりしたアベルが教室に向かうと、すでに仲間たちが食事の準備をあらかた終えたところだった。



「おかえり、ぱぁぱ!」


 真っ先にベルティナが飛びついてくる。ここ最近、一緒に食事ができることが嬉しいようで上機嫌だ。



「ただいま、ベル」


 頭を撫でてやりながら、仲間たちを見渡す。


 今日もやはりムクロの姿だけ、無い。



「ご飯できてるわよ」


 汁物を椀に掬いながらリティアナが席に着くよううながし、アベルも適当に空いている席に向かった。各自自分の取り分を受け取ると、空腹を堪えていた一同は食事に専念した。



 食事を済ませるとアベルたちは手分けして食器を片付けたり、お茶を淹れたり、或いは前もって仕込んでいた渾身のお茶請けを皆に振る舞いして一時を過ごした。



 中でもベルティナのはしゃぎようはかなりのもので、生き生きと目を輝かせて今日一日の冒険譚をみんなに話して聞かせて回っている。やがて遊んでいた疲れも出たのだろう、リティアナの腕の中で安らかな寝息を立てはじめたのをきっかけに、一同も解散することになった。



「さて、と…こんなもんかな?」


 最後に一人残り、食料の備蓄などを確かめたアベルは問題が無いことを確認すると灯りを落とし、廊下に出た。



 さすがにもうこの時間ともなると校庭を出歩いている者はいない。アベルも自室へ戻ろうと数歩歩き出したが、ちょっと思いなおすと剣を取りに教室へ取って返した。



 一度素振りをすると決めた以上、やらないと何となく気持ちが治まらなかったのだ。



 さすがに浴場はもう閉鎖されてしまっているので汗の処理をどうするかでちょっと迷ったものの、寝る前に水で絞った手ぬぐいで拭えば問題ないだろうと割り切ることにした。



 表に出てみれば、すでに針のごとく鋭い月が中天に懸かっている。



 涼しい夜気が服の下に忍び込み、アベルは一度ぶるっと身震いした。それでも季節は若草月(わかくさのつき)、初夏なだけあって耐えられないほどではなく、むしろ心地よいくらいだ。身体を動かせばすぐに温まるだろうと呑気に考えながら、アベルは見回りの先生に見つからないようにと校舎の入り口から少し離れた森の端辺へ向かった。



 そのとき、たまさか顔を上げなかったなら気付かなかったに違いない。



 アベルは足場を確認するため、月の光の届く範囲を確かめるためいったん顔を上げた。



 と、丁度そのとき眼前の木の上で何か大きな物が動いたのを視界の端に捉え、何だろうと目を凝らしたアベルはあっと小さく驚きの声をあげかけた。



 樹上に腰掛けていたのは、人だ。



 肩まで流した豊かな髪が月光を煌き返し、伸びやかな脚線が大振りの枝の上に組まれている。比較的慎ましやかな胸の輪郭から察するに女性だろう。しっかりした枝に腰掛けた彼女は、樹の間を吹き抜ける風に身をゆだねてぼんやりと月明かりを見上げていた。



 こんな時間に樹上で佇むその人物は何者か。


 顔は逆行になっているため良く見えない。


 興味本位でよく確かめようと歩み寄ろうとした矢先、アベルは小枝を踏み折ってしまった。



「うわっ」



 昼間なら誰もが気に止めるほどの音ではなかったが、静まり返った校庭では十分過ぎるほどだ。樹上の女性も音に気づいて素早く見下ろしたが、アベルを認めると驚きに目を丸く見開いた。



「あ、ごめん」



 見られていることに気付かれた彼女が自分を凝視したことに気付き、アベルが慌てて謝ろうとする…が、すべてを言い終える前に彼女はすばやい動きで木の上から飛び降り、夜の闇に姿をくらましてしまった。



 彼女が後も見ずいきなり駆け去ったことで、アベルはしばらくあっけにとられていた。何かまずいことでもしたのだろうか? 首を捻るアベルだが、彼にそれを知る術は無い。



 しばし考えことをしていると、就寝時間を告げる鐘の音が鳴り、結局素振りのできなかったアベルはすっきりしない気分を抱えたままこの日一日を終えたのだった。


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