第24.5話 或いは他し事その3 ルークの非日常
きらきらと波光きらめく川沿いに立つ、灰白色の岩と甎で固められた城壁は、見るからに重厚で力強い構えをしている。その荒寥とした風貌どおり、ガルデス城砦は傍を流れるコルロ河沿いに攻め上がろうとする相手に対する防塁として長の年月を耐えてきた。
スダ・ザナ山脈のはるか北方を源流とする大河コルロはムディラ=ミルネ山の南端からフューリラウド大陸を南西に走っている。河幅広く、深度もあるためガルデス城砦から海に到るまで橋が一梁も掛かっていなかったことが幸いし、ニーアセンドがディル皇国に滅ぼされて以降コルロ河はルトヴィネアにとって最重要防衛線となっている。
そのガルデス城砦の四隅に立つ円塔のうち、もっとも河口寄りの塔。その上階にある衛士控え室の一角で、ルークは腰掛けたまま苛々と足を揺すっていた。
「うるせぇぞ新入り! じっとしてやがれ!」
ひっきりなしにがたがた揺する音に苛立った年嵩の男がついに耐えかね、声を荒げた。
何かを言い返そうと口を開きかけたルークだったが、慌ててムーガンが止める。
「まずいですって、ルーク様」
その隣ではファルシネが無言のまま、呆れた様子を隠そうともせず彼らを白眼視していたのだが、それに気づかないルークは空気を読まず発言した。
「だがあの物言いは幾らなんでも無礼であろう!」
王位継承権を持つほどの格がある家柄の自分と違い、先ほど喋った男はルークたちの身柄を預かっているとはいえただの一兵長に過ぎない。本来ならば許可も無く口を利くことすら許されないことなのだ。
だが、ムーガンはもう一度無言で首を振り、次いで何かを言わんとするように視線を周囲へ巡らせる。その後を追って見たルークは、ようやく彼が血相を変えて自分を止めた理由を悟った。
周囲の兵たちが、無言で自分を睨んでいる。
その視線はいずれも、決して世故長けているとはいえないルークですら危機感を感じさせるほど険悪な雰囲気を湛えていた。今ここで騒動を起こせば、躊躇無く叩きのめすくらいはやってのけるだろう。
「…ふん、いいとも。止めればいいんだろう!」
詰まらなさそうに鼻を鳴らし、腕組みをして椅子に深く座り込む。兵長は険しい顔をしたままだったが、何も言わなかった。
元々彼らの仲はここまで険悪だったわけではない。
むしろ一月程前までは和やか――と言うよりは、おこぼれに預かりたい兵長たちがルークを立てていたというべきだが――だった。それがほんのわずかな期間で急変したのは、彼らが置かれた立場の変化に拠るところが大きい。
ここ最近、前線の兵士たちを中心に不気味な噂が流れていた。
槍で突こうと、剣で切ろうと、魔法で打ち倒そうと死なない兵士がいる。いや、厳密には死んで尚襲う、と。
そして何より、真偽を確かめるべく放たれた斥候が誰一人として帰ってこないことがより信憑性を増していた。
だが、ガルデス城砦の兵士たちはその噂が流れはじめたころもまだ呑気していた。
相手方の戦力に化獣が混じることがあっても、堅牢な城と攻めるに適さないコルロ河のおかげで蹴散らすのは容易だったからだ。のんびり渡河しようとする相手へ動く的とばかりに矢を射掛けてやるだけで、相手はほうほうのていで逃げていったのだ…先月までは。
異変は二週間前に起こった。
他の城砦との伝令が、途絶えた。
はじめは単に伝令将校が遅れているのではと思っていたが、予定より二日、三日と経っても来ない。已む無くガルデスから伝令を出したが、これも梨の礫となった。
のみならず、ついには補給部隊すら来なくなった。
食料も武器も無いのでは、戦はもちろん、逃亡すらできない。ここに至って兵たちは何かしら異変が起きていることに気づいたが、もはや手遅れだった。
今までは、砦内に残った食料を掻き集めて我慢していたが、直にそれも尽きる。空腹と何が起きている判らないことへの混乱が苛立ちとなり、ガルデス城砦を厚く覆っていた。
「もうじき…もうじきだ、そうすれば援軍が来る!」
意気阻喪しているルトヴィネア兵をかろうじて支えていたのは、ルトヴィネアの北西と南西に位置する隣国モラディエとスティキュルドゥからの援軍の存在だけだ。
本来ならば二日前に到着するはずだった両軍はいまだ来ておらず、兵たちの動揺は深まるばかり。しかし、二カ国の援軍ならば襲われてもそうそう全滅するはずがない――所詮希望的観測にしか過ぎないが、もはや彼らにはそれしか縋る術が無いのだ。
そんな折のことだった。
「着たぞ! 援軍だ! モラディエからの援軍だ!!」
どこかでそう叫ぶ声に、控え室は一瞬静まり返る。男たちは互いを疑り深く見合っていたが、同じ言葉が聞こえ、ようやく室内に音が戻った。
「助かった! 助かるぞ俺たちは!!」
兵長は声を上げて笑い、兵たちは諸手を挙げて喜んだ。
無論、ルークたちも例外ではない。
「はやく同士を迎えに行こうぜ!」
誰かの弾む声を皮切りに、控え室につめていた兵士たちは堰を切ったように飛び出していく。ルークたちも遅れじとばかりに後を追った。
「あそこを見ろ!」
先に表に出た誰かが指を差しているほうへ視線を向けると、多くの船が見える。ざっと見て十は下るまい。
川面を渡る向かい風が額に掛かる髪をくすぐる。ルークは水面に反射する光を少しでも抑えようと目を細めた。
とにもかくにも、自分の目で救いの手の主を確かめたかったのだ。
ほどなく、ルークの目にも小さくとではあるが先頭を走る船上で翻る帆が見えてきた。青地に白い牡鹿――間違いない、モラディエ王国の物だ。ほぼ同時に確認できた者たちが歓声を上げた。
「良かった…本当に良かった、これでアグストヤラナへ帰れる…」
へなへなとファルシネがへたり込む。
「ああ、きっと帰れるとも」
ムーガンが傍に立ち、笑いかけるとファルシネは照れくさそうにへへ、と小さく笑った。考えてみれば、ここ数日ファルシネは距離を置いていたように感じられる。ルークも近寄るとファルシネは少し顔を強張らせたが、立ち上がらせようと手を差し伸べると素直に手をとった。
「学府へ戻ったらぐっすり寝たいぜ」
「同感だ。あそこの安っぽい食事が恋しいと思う日が来るとは思わなかった」
当たり障りの無い会話だが、それでも気持ちが軽くなる。
やがて、追い風に乗っている喫水の浅い平底船がどんどん近寄り、船上にいる人々の姿も見えてきた。
「…ん?」
船員たちは、一様にじっとこちらを見つめている。
次第に近づいてくるうち、ルークは妙な胸騒ぎを覚えはじめていた。
それが何なのか。
違和感がはっきりした答えになる前に、百ディストンもしない位置まで船は着ていた。歓迎に沸き立つルトヴィニア兵と対照的に、彼らを目視できているはずのモラディエ兵はこの期に及んでも静まりかえったままだ。
「よっしゃ、それじゃあ出迎えに行こうぜ」
気がかりの原因を探ることに没頭していたルークをよそに、嬉しそうな声を上げてファルシネが船に向かい駆け出していく。それにつられ、他にも数人が同様に援軍を一刻も早く迎え入れようと川の中へ飛び込んでいった。
「あ、おい、待て、なんか妙だぞ…待てったら!」
ルークが慌てて制止するも、ファルシネたちは無視して思い思いの船に縋り付く。その船の乗組員が視線を下ろし、ファルシネと目が合った。
「あ」
逆光でよく見えないファルシネは、乗員が何かを高く持ち上げたのを見て、梯子を下ろしてくれるのかと口元をほころばせる。次の瞬間、その口元に槍が突きこまれた。
「ファル…シネ?」
あっさり絶命したファルシネが膝から崩れ落ち、ゆっくりと水没していく様を、ルークはどこか赤の他人のことのようにぼんやり見つめていた。が、誰かに強く腕を引かれたことではっと我に返った。
「な…なんだ、これは…」
気付けば、至るところで血風が吹き荒れていた。
無警戒で船へ近寄った兵士たちは船の上から槍やら矢やらでなす術も無くすべて殺され、今は出迎えに来ていた兵たちへと攻撃が移っている。彼らもまた、大部分が武装をしないで飛び出てきていたため、矢を受けてばたばたと倒れていく。
もう一度、何者かにぐいと腕を引っ張られたルークの足元にも矢が突き立つ。
その瞬間、彼は確かに見た。
自分へ向け矢を射掛けた兵士の肩章はディル皇国兵のものだ。とすると、モラディエが裏切ったか、或いは船を奪われたか…いずれにせよ、今来ているのは援軍ではなく敵だということになる。
「何やってるんです、逃げるんですよ!」
腕を引っ張ったのはムーガンだった。
ムーガンはルークが立ち止まった際後ろに控えていたため、ファルシネのほうをよく見ていなかった。それが逆に幸いして危難に気付くことができたのだ。
「だ、だけどファルシネが…」
「駄目でさぁ! ファルシネは、ファルシネは…もう…」
滑稽なほど満面の笑顔を浮かべたまま、空ろな表情で口から槍を生やしているファルシネが水面に浮かんでいる。もう、手遅れなのは傍目に見ても明らかだった。
それでも尚助けんと駆け寄ろうとするルークを力づくで引っ張り、ムーガンは城砦へ戻ろうとするが、船から下りた新手の兵が一兵足りとて逃がさぬとすでに囲みを作りつつあった。
虐殺が、はじまった。
苔むした岩場の傍を、泥水が小さな泉からじくじくと這い流れている。
その傍で、ルークは必死に泥を掻き分け食べられそうな生き物を探していた。今の彼をアグストヤラナの同輩が見れば驚きを禁じえないであろう。
髪は肩までざんばらになり、ひげも伸び放題でむさくるしい限り。身にまとっていた絢爛たる衣はあちこちが擦り切れ、垢と泥、そして血にまみれてすっかり元の色がわからなくなっている。むき出しになっている左の太ももに残された大きな切り傷が痛々しい。
けれども、採取の知識をまったく持ち合わせていないルークには食用に適した獲物を見つけることができない。泥水の中には魚などいるわけも無く、苔や茸はどれが食べられるかどうか判らない(試しに口に含んでみたこともあるが、辛い苦いどころではなく舌を細かく釘打ちされたような痛みに暫く悶絶した結果迂闊に口に含むことは止めた)。
しばらく探していたが、結局何も見つけられなかったルークはやがてかんしゃくを起こして水へ拳を叩きつけた。
うなだれた彼は重い足を引きずるようにして岩場を昇っていき、緩慢な動きでじめじめした洞窟へと入っていく。
その奥でムーガンが横になっていた。
額に大粒の汗を掻き、熱にうなされるようにして呟きながらがたがた身体を震わせている。
「さ…さむ、い……」
傍にあった焚火はすでに燃え尽き、洞窟はすっかり冷え込んでいた。ルークは慌てて火を熾したが、ムーガンは一向によくなる気配は無い。
「すまない、ムーガン…何も取れなかった…」
吐き出すように呟くルークに、ムーガンはかすかに反応を見せる。右の胸元を覆っていた木の葉が落ち、深い矢傷が露になった。
それを目の当たりにする度、ルークを深い後悔が襲う。
ルークがこうして生きていられるのは、ムーガンが身を挺して守ってくれたおかげだった。城砦へ逃げ込もうか迷っていたときに一瞬棒立ちになってしまった彼を庇い、その際に矢傷を受けたのだ。
「城砦も囲まれている……一度森へ…」
ムーガンの言うとおり、もたもたしている間に城砦はすでに囲まれつつあった。奇襲が成功したことで城砦に逃げ込めた者は限られ、そうでないものは確固包囲されて順次討ち取られていく。
中に逃げ延びたのがどれほどいるかは判らないが、今から囲いを破って塔内へ入るのは難しいと見たルークは、ムーガンに肩を貸して城砦の反対側に位置する森へ逃げることを選んだのだ。
ガルデス城砦がディル皇国兵によって包囲されてからどれくらいが経っただろうか。
ルークがはっきり覚えているだけでもすでに二週間以上は経過しているはずだ。はっきりしないのは、昼夜分かたずディル兵によって残党狩りに追い立てられたためだ。
これだけ好き放題されていることから察するに、城砦のほうも援けに出られない――あるいは、考えたくは無いがとうに壊滅させられているか――のだろう。
何にせよ、土地に不慣れなルークとしては援けが来るまで無様に逃げ延びることしか手立ては残されていなかった。
しかし、それもあとどれくらい可能か。
ムーガンの矢傷は悪化の一途を辿っている。
すぐにまともな治療を施せば治せる程度の傷だったのが、不潔な環境に食べるものも満足に見つからない逃避行のせいで瞬く間に悪化していた。今では今日明日にでも医者に診せねば命に関わる程で、ひとまず体力をつけさせようと食べ物を探しに出たが、それも無駄に終わった。
何も出来ない自分が歯がゆい。
食い物だけではない、薬草の知識があったならば。採取学を馬鹿にしておろそかにしなければ。
対照的に、同じ人族でありながら徹底的に歯向かった男のことをルークは思い出した。
もし、自分ではなくあの憎たらしい男がここにいたのなら、ムーガンの援けになれただろうか…恐らく、何の打算も無く他の連中のとき同様我が身を投げ打ってでも助けようと動いたに違いあるまい。
そこまで思い至ったとき、ルークは自分のなすべきことが見えた。
まだ、自分にもやれることがあるではないか!
「ムーガン、しっかりしろ」
額の汗を拭い取ってやりながら声を掛ける。
数度の呼びかけの後、億劫そうにムーガンは目を開いた。
「返事はしなくていい、聞こえてるな?」
頭を動かそうとするのを見て取り、ルークは早口でつづける。
「これからガルデス城砦に戻ろうと思う」
わずかにムーガンの目が大きく開かれた。
「大丈夫、無茶はしないさ。なぁに、きっともう戦いは終わってるだろうから、薬になりそうなものを探して戻ってくる。もしかしたら残された奴らでディルの連中を追い返してるかも知れん」
努めて楽観的に聞こえるように言ったつもりだが、震え声になってしまうのは隠し切れない。
「だ…、め…です……」
慌てて身を起こして何か言いかけようとしたムーガンだが、代わりに出たのはひゅうひゅういう声だけだった。そのまま意識を失ってしまう。
「もう時間が無いな…」
葉っぱをもう一度掛け直し、焚火にありったけの枯れ枝をくべるとルークは剣を手に取り立ち上がった。
「お前だけは何があっても死なせないからな、絶対。待っててくれ…」
ルークは覚悟を決めていた。
彼も、今更ガルデス城砦の仲間たちがまだ生き残っているなどという都合のいい可能性はついぞ信じていない。それでも向かうのは、投降してでも助けてもらうよう願い出るつもりだったからだ。
投降兵の助かる見込みは低いとわかっていたが、他に打てる手がもう、無い。
ルークとて死ぬのが怖くないわけではなかったが、ここまで自分と共にいてくれたムーガンを犬死にさせることの方が余程怖かった。
木から滴り落ちる水滴の音や、離れた木から枯れた枝が落ちる音に絶えずびくつきながらも、ルークは城砦への歩みを進めていく。
「酷い有様だな…」
地に伏した同輩だった者たちの亡骸がそれに連れて増えてくる。見覚えのある、兵長の遺体もあった。ガルデスの陥落はほぼ間違いないようだ。
木立の合間を抜け、ようやくガルデス城砦が見えてくる距離まで戻ってこられたルークは唾を飲み込んだ。
城門からディル皇国兵が何人も出入りしているのが見える。
今来た道を取って返したい欲求に駆られたが、済んでのところで苦しそうに呻くムーガンのことを思い出し勇気を奮い立たせたルークは、一度自らの頬を張ると努めてゆっくりした足取りで歩き出していった。
「誰か…誰か! 私はルーカス=ディ=エラ=ランディーグスという者だ! ディル皇国に対し、投降を希望するものである!」
両手を挙げ抵抗する意思のないことを示しながら、城砦へと歩み寄っていく。正式な名前を告げたのは、人質になる価値がある人間だと示す為だ。
下手に近づきすぎて矢を射掛けられてはたまらないので、ある程度離れたところで足を止め、もう一度声を張り上げた。すきっ腹には大分堪える。
「聞こえないのか! 投降するといってるんだ!!」
ルークの姿に気付いた城門付近のディル皇国兵はにわかに騒がしくなり、数人が城砦の中へと消えていっただけで、彼の言葉に返答するものは誰もいない。
苛々と待っているうち、城砦で動きが出た。
「やっとか。あとは人道的な対応を人質に適応してくれるかどうかだが…」
その願いはしかし、適わない。
「うわっ!」
足元に矢が突き立つ。その一本だけではない、後ろに下がるルークの足元に更に二本、三本と塔から放たれた矢が刺さった。
「お、おい、何をする貴様ら! 僕は投降すると言っているのだ! 人質にすれば父上が貴様たちに身代金を…」
最後まで言い切るより早く、城砦に戻っていった兵士たちが戻ってきた――甲皮頬垂犬を何匹も連れて。ダーダと違い山狩りに使うための獰猛な種で、追跡能力に優れ一度獲物に喰らいついたら離さない性質をしている。それを一斉に解き放ちながら、手の空いている兵士たちは次から次へと矢を射掛けてきた。
「くそっ、やっぱりか!」
ディル皇国は捕虜を取る気が毛頭無いのだ。
捕虜となればムーガンの助命を申し出ることも出来ようが、殺されてしまってはそれどころではない。ルークは慌てて身を翻すと、後ろも見ずに森の中へ飛び込んだ。
密生する樹木の下枝や、伸び放題になっている草が顔や身体を打ち据えるがそれに構っている余裕は無い。可能な限り足を繰り出しつづけるが、消耗の酷いルークはすぐに体力の限界を迎えた。
「う、うわああっ」
脚を根にとられ、体勢を崩したところへ真っ先に追いすがった一頭が牙をむき出しにしながら飛び掛ってくる。
荒い鼻息をすぐ身近に感じ取ったルークが走りながらも慌てて振り返ろうとしたとき、つるつるした岩に足を滑らせた。それが僥倖で、喉笛を狙って飛び掛かった甲皮頬垂犬の攻撃を偶然かわすことができた。
獲物を見失った頬垂犬が振り向くが、それよりはやくルークが剣を振ると頬垂犬は眉間を断ち割られ悲鳴を上げる間もなくその場に倒れる。
しかし、ルークももうこれ以上はどうにもならないことを理解していた。
たった一振りですでに息はあがり、足にも力が入らない。そして背後には一、二匹ではない甲皮頬垂犬の吼え声。
すぐに新手に追いつかれるだろうし、仮に追いすがった頬垂犬を何とかしたとしてもディル皇国兵に捕捉されるのは逃れられまい。
「ちくしょう…」
絶望に打ちひしがれているルークに新手の頬垂犬が飛び掛った。右腕に噛みつかれ、剣を取り落としたルークはつづいて三頭の頬垂犬がこちらに向けて駆け寄ってくるところを見て、観念して硬く目を閉じた。
が、悲鳴を上げたのはルークではなかった。
頬垂犬たちの悲鳴がつづけて三回響き、そして四度目がすぐ傍で鳴ったところで、腕の拘束が緩んだルークはようやく目を開ける気になった。
「お前…なんで、ここに?!」
眼前に立つ男を見てルークは我が目を疑った。
血まみれの短刀を振り払い、今頬垂犬を斬った血をぬぐい取っているのは忘れようはずも無い、忌み嫌っていた魔人族のムクロだった。
何故こんなところにいるのかという疑問に頭が真っ白になる。
そんなルークを察してか、ムクロが淡々と告げた。
「説明している暇は無い。今はひとまず安全なところへ逃げろ」
逃亡を促されたことで、ルークは自分の目的を思い出した。嫌っていた魔人相手でも、知った相手ということがルークの頑なさを一時的に奪っていた。
「それはできない」
「何故だ? ここでじっとしている理由など無いだろう」
ムクロは間断なく周囲の気配を調べながら声を落として尋ねた。人の声が時折聞こえるが、どうやら大分遠いようだ。甲皮頬垂犬がいきなりいなくなったため、追跡に手間取っているのだろう。
「ムーガンが大怪我をして動けないんだ。このままでは死んでしまう」
そう答えるルークに、ムクロは微かに眉をしかめ首を傾げた。
「…お前にとってムーガンはただの家来じゃなかったのか? 命の危険を圧してまで助けるつもりか?」
予期していなかった質問にルークは面食らった。
確かに、入学当初はただの家来、腰ぎんちゃく程度には考えていた。
しかし、今は違う。たった二年の月日とはいえ、苦楽を共にしてきたことは人同士の関係を醸成させる。
命を救ってもらったことで気が緩んでいたのだろうか、或いは疲れていたからか。ともかくルークは、自分でも驚くほど素直に心情を吐露していた。
「確かにあいつは家来だ。だけど…それ以前に、一緒にやってきた仲間であり、同じ釜で食事した友達だ。それを心配して何故悪い!」
その返事を聞いてもムクロの表情は変わらない。やや間を置いてから、ようやくいつもの口調で言葉を発した。
「驚いた。まさかそんな言葉がお前の口から聞くことになるとは思わなかった」
そのまったく驚いたように聞こえない口ぶりに、馬鹿にされたように感じたルークがむっとする。
「…だったらなんだ。見損なったとでも言うつもりか」
ムクロはゆっくり首を振った。
「逆だ」
そういうと懐に手を差し込み何かを取り出すとほうってよこした。慌てて受け取ったそれは転送球だった。
「それを使ってファルシネと一緒に転送しろ」
ムクロの言葉に判ったとルークは頷く。
「だが、何故これを俺に? それにお前はどうしてここへ?」
ルークの問いに、ムクロが顔を背けた。
「…俺は今、よんどころの無い事情があってディル皇国軍へ身を置いている。そこで偶然自殺しようとしているお前を見かけたから、追っ手の振りをして出てきたんだ」
「連絡役がか。お前も所詮は使い捨てってことか」
ディル皇国の間者であったドゥルガンのことはルークも知っている。そのドゥルガンと情報をかわしていた連絡役が、何故戦場にいるのか?
もちろん、顔を知られた繋ぎ役にはもはや意味が無いからだ。だからこそ、使い捨てとして前線に回されたのだとルークも皮肉ったのである。
しかし、ムクロにはまったく気にしたそぶりは無い。
「兵士が使い捨てなのは当たり前だろう? 別に連絡役だからとか関係ないと思うが」
「ふん、そうかも知れないな…まあいい、もう一つ聞かせろ」
にべもなく言われ、ルークは苦々しげに納得しながらももう一つの疑問を尋ねた。
「何故わざわざ僕に接触を試みた? 仲間に見つかればただではすまんだろうが。命を懸けてまで僕を救わないとならないほどお前に好かれた覚えないぞ」
「当然だ。こちらにも理由はある。この日のために俺は前線を希望したんだ」
そういうと、周囲を油断無く見渡した。人の声が先ほどよりは近寄ってきていたが、幸いまだ遠い。
「お前にアベルたちへの言伝を頼みたい。今日から七日後、太陽が真上に差し掛かるまでに今から言うところへ救助にきてくれ、とな」
ずばり、言った。
「救助、だと?」
ムクロが頷く。
「そうだ。この戦争を終わらせられる、あるお方をお助けする。そのために信用できる者の手助けが必要だ。魔人族である俺はアベルたち以外の伝手を持たない。そのため、恩を売る形で生き残りと接触できる機会をうかがっていた。本当はお前以外の者に頼むつもりだったがな」
ルークがまともに話を聞いてくれるか判らないほどの敵愾心を抱いていることを懸念しての事だ。
「ふん、そういうことか。しかし…本気か? いや、その話どこまで信じられる?」
ルークが懐疑的なのは何も嫌がらせするためではない。
戦争を終わらせられるとなると、かなりの発言権を持つ者――例えば王侯貴族のような――ということになる。それが一介の兵士とどのようなつながりがあるというのか。
いや、そもそも戦争を終わらせるために、縁もゆかりもない単なる一軍学府の生徒に亡命を手伝わせること自体が無茶苦茶だ。近侍を連れて隣国へ抜けるなりすれば安全かつ迅速に済む話ではないか。
その考えを読んだように、ムクロはルークに頼みこむ。
「…信じられないのは判る。だが、悠長に事情を説明する暇が無い。信じてくれとしか言い様が無いんだ。頼む、伝えてくれ」
人の声が聞こえた。大分近い。
しばしにらみ合う二人。やがて、ルークは分かったと伝えた。
「…ふん。どんな事情であれ、助けてくれたことには変わりないからな。受けた恩義への返礼として、必ず伝えることは我が名に懸けて誓おう」
ムクロがほうっと息を吐いた。
「…頼んだぞ」
待ち合わせの場所を聞き終え足早に立ち去っていくルークを見送った後、ムクロは声高に叫んだ。
「あっちだ! あっちに逃げたぞ! 追え!」
こうしてムクロが明後日の方向へ追っ手を誘導してくれたおかげで多少の時間の猶予が出来た。
急ぎ足でルークは洞穴に戻ると、抑え気味にしてムーガンを呼んだ。
「おい、ムーガン! 助かるんだ! これでここから逃げられる! ムーガン!!」
ルークの声だけが虚ろに反響する。
焚火は熾き火と化し、薄目で天井を見上げるムーガンを力なく照らしている。
ムーガンは、ルークが近傍まで来ても起きる気配が無かった。
「おい……ムーガン?」
震えを堪え、ゆっくり、近寄って屈み込む。
恐る恐る肌に触れてみると、彼の身体は冷たさだけを指先に返してきた。




