第7.5話 或いは他し事その1 ユーリィンの非日常的日常
話は対抗戦の話が学府中で話題になりだす前にさかのぼる。
「どうしようかしら…」
ユーリィンは悩んでいた。
目下のところ彼女を悩ませているのは、今後の役割についてだった。
先の陸王烏賊討伐の際、矢を撃ちつくした彼女は己の無力さを痛感していた。
確かに弓矢は遠距離での戦闘には効果的だが、所持できる数に限りがあるという大きな欠点を持つ。矢を撃ちつくした後、何もできないまま仲間が危地に立つのを見るのはもう嫌だった。
「…仲間、ね」
ふとそんなことを考えていた自分に気付き、苦笑を漏らす。
元々はアグストヤラナに在籍するため利用するだけのつもりが、今は無性に手放し難い。そのために自ら恃みとしてきた弓すら省みる時が来るとは、少し前まで想像もできなかった。
「…まあ、長い人生たまにはこういうのも悪くないかしらね」
独り言ち、足を武器庫へ伸ばしてみるユーリィン。
何を選ぶにしても、まずは実際に触ってみることで、なんとなく気にいるものがあるかも知れない。そのくらいの軽い気持ちだった。
「こほっこほっ…まったく、汚いわねぇ!」
武器庫の鉄扉を開くと、ユーリィンは舞い散る埃とすえた臭いに顔をしかめた。
誰も掃除していないのだろう、普段手持ちの弓しか使わなかったのでここにきたのははじめてだがすでに匂い酔いして吐きそうだ。
「うええ…こういうとき、感覚が鋭いのは損よねぇ…」
懐から手巾を取り出し、鼻を押さえて踏み込む。薄布一枚程度ではあまり匂いを防ぐことはできないが、何もしないよりはましだろう。
「色々あるわね」
倉庫内には様々な武器が所狭しと置かれていた。
鈍く磨かれた長剣、槍、斧…これまで無数の生徒たちが手に取り、そして手入れしてきたのだろう。
ここにこそアグストヤラナの歴史が詰まっているのかもしれない、ユーリィンはそんな風に考えながらのんびり物色していた。
「うーん…」
一巡したが、決まらなかった。
どうにもぴんと来ない。
斧や槌は重すぎて、満足に使いこなせない。というより疲れそうで嫌。
長剣は持てない訳では無いが、どうにもしっくり来ない。 無骨なのも嫌。
槍は比較的なじめそうだが、レニーも使う。役割が被るのは得策じゃない。
結局入り口に戻り、もう一度今度は念入りに見て回ろうと視界を上げたところで視線が止まった。
「あら?」
それまでは下を向いていて気付かなかったが、正面の壁の高い位置に棚が作られている。その上、一対の鉄角鹿の角に見たことの無い武器が恭しく載せられていた。
「ちょっと拝借っと」
興味の赴くままユーリィンは壁を蹴って飛び上がり、手にとって見る。それは白木の細い鞘に収められた剣のようだった。
だが刺突剣にしては太く、かといって長剣にしてはやけに小ぶりで、薄い。
決して短くない時間を生きてきている彼女だが、それでも他に見たことが無い珍しいものだ。
興味を掻き立てられたユーリィンは、誘われるように手に取ると抜いてみた。
「…わぁ」
長さ二ディストン強、やや反りの入った薄い片刃剣。
何よりユーリィンの目を引いたのは、他の長剣には無い漆黒のような地肌と、そこに舞い散る細かい沸えだった。
これではまるで、美術品のようだ。
「すごい…綺麗…」
ユーリィンが周囲の臭いのことも忘れ、しばらく呆けたように見惚れていると。
「おい! 何を触っておる!」
「わわっ?!」
激しい誰何の声に、ユーリィンは慌てて取り落としそうになった。
入り口を振り返ってみると、見知った顔だった。
「デッガニヒさんじゃない…」
なぁんだ、と言いかけたところでユーリィンは彼がはじめて見せる険しい顔で自分をにらみつけていることに気付いた。
「それで何をしておった」
普段温厚極まりない、丸々とした愛嬌のあるデッガニヒが、今は口をへの字に結んで鋭い視線を向けている。
彼の迫力に圧される形でユーリィンは手にしていた剣を鞘に戻し説明した。
「他の武器を使おうと探しに来たんだけど、その中で唯一気になったから手にとって見てたのよ。勝手に見たのは悪いと思ってるわ」
武器庫に来た理由を黙って聞いたデッガニヒは、ユーリィンが喋り終えたところで眼光鋭く尋ねた。
「一つ、聞かせてもらおう」
静かだが、余計な口出しを許さない迫力が篭っている。
「お前さん、そいつを見てどう思った。正直に答えい」
デッガニヒの問いに、ユーリィンは思ったありのままを答えた。
「綺麗だと思ったわ。とても」
「…ほぉ」
はじめてデッガニヒの顔がほころぶ。
「斬れそう、とかじゃないんじゃな」
そう言われてようやくユーリィンは切れ味のことを微塵も気にしていなかったことを思い出した。
「あら? …そう言われてみればそうね…んん?」
その様子に、デッガニヒは悪戯っ子のように目を輝かせた。
「お前さん、若いのに見る目があるわい。そう、そいつは普通の剣なんぞとは一味も二味も違う。あまりにも違いすぎてなんせ学府内ではわし以外使いこなせん…戦技教官のメロサーは元より、ガンドルスの奴でものぅ」
「ええ?」
唐突にそう言われ、ユーリィンは目を丸くした。
デッガニヒはただの船頭じゃなかったのか。
「でも、どうして? 校長だってすごい武人じゃない」
その言葉に気を良くしたのか、デッガニヒはにやりと笑った。
「そいつ――カタナ、というんじゃが――使いこなすのにはコツがいるんじゃよ。全身を捻ることで引き斬る、梃子の原理を用いる武器でのう。あいつのような、筋肉が服を着ておるような不器用な奴には永遠に使いこなせんわい。その代わり、使いこなせたなら…恐ろしく、斬れる。岩だろうが、鉄だろうがな」
その言葉に、ユーリィンはごくりと唾を飲み込んだ。
それこそ正に求めていた力ではないか!
「お願い、使い方を教えて!」
勢い込んで頭を下げるユーリィンに、デッガニヒは首をひねった。
「なんじゃと? お前さん、弓を使っておったじゃろうが。どういう心境の変化じゃ」
ユーリィンが考えの変化に至る事情を説明している間黙って聞いていたデッガニヒは、しばらく考え込んだ後言った。
「…判った。ならば、試験をする。お前さんが使うに相応しいかどうかのな。明日の朝日が昇り次第すぐわしの元に来い。防具はいらん」
翌朝、ユーリィンは言われたとおりにデッガニヒの元に向かった。
あらかじめ言われたとおり、付け慣れた皮製の胸当ては付けず薄い灰褐色の狩衣だけといういでたちだ。
「あの…戦技の訓練なのに鎧はつけないの?」
ユーリィンの問いに、デッガニヒは先を歩きながらのんびり答えた。
「あん? いらんいらん、そんなもん。邪魔でしかないわい」
ユーリィンも好んで重い装備を身につけたくは無いが、身を守る防具くらいは当然装着するべきだと思っている。
「はぁ…まあ、しょうがないか」
そこはかとない不安を感じるものの、大人しく従うことにするユーリィン。
二人が着いたのは桟橋だった。
「さて、時間が惜しいからさっさと行くとするかの。ほれ、船に乗るんじゃ」
言いながら傍にある小船にデッガニヒはさっさと乗り込んだ。
街との往復に使っているものと違い、人が三人も乗り込めば足の踏み場も無くなる小さな船で、恰幅のいいデッガニヒといるだけで窮屈になる。
船尾に座り込み、そのまま船が動き出すのを待っていたユーリィンへデッガニヒは呆れたように言った。
「なんじゃいお前、仮にも師匠となるかも知れん相手に船を漕がす気か。お前さんが漕ぐんじゃ」
「えぇ…」
「嫌ならいいんじゃよ」
深いため息を吐いたユーリィンがゆっくり船を漕ぎ出すと、やがてデッガニヒは気持ち良さそうに鼻歌を歌いだした。
「よしよし、この辺にしようかの」
沖合いに出たところで、ようやくデッガニヒは船を止めさせた。
「よっこらせ」と立ち上がり舳先まで歩くが、肥った体のせいで船は絶え間なく揺れ、波飛沫がひっきりなしに降り注ぐのにユーリィンは閉口した。
「さて、修行の前にお前さんがあの剣を扱うに相応しいか試験をする。カタナというのは、滑り切るのが本懐じゃが、感覚で理解できん者には幾ら経っても身につかん。さすがに用務員としては身につかんもんに時間を費やさせて、貴重な学生生活を棒に振らせる訳にいかんからのぅ。さて、その内容じゃが…」
そういうと、いつの間にか手にしていた背より高い細長い竹竿を見せ付ける。
「よぅ、見とれよ。……あ、ほいっと」
竹竿がひゅん、と音を立ててしなったかと思うと、船べりの水がすぱっと割れた。
直後、きらきらと何かが光を跳ね返しながらユーリィンの眼前に落ちてきた。
「え、魚?!」
目の前でぴちぴち跳ねている魚を見て、ユーリィンは目を丸くする。この老人は竹ざおを使って魚を獲ったのだ。
「これをやってみせい。期限は二週間。できたならわしが稽古をつけてやろう」
よたよたとまた先ほどの位置へ戻ると、ユーリィンにさおを手渡した。
厚みあるデッガニヒの胴回りをどうにか避けながら舳先に移動し、ユーリィンは竿を振ろうとするものの。
「ああ、待った」
途端、デッガニヒの静止が掛かる。いぶかしんだ彼女に、デッガニヒはのんびりと告げた。
「お前さんは効き足じゃないほうのみで、立ってやるんじゃ」
「はぁ?!」
さすがにユーリィンも思わず聞き返す。如何に感覚が優れると自負する彼女と言えど、絶え間ない波間に揺れる船上で、おまけに片足のまま魚を竿で弾き出すなどという真似がそうできるとは思えない。
「お前さん、ちょっと他の連中よりそういうのが抜きん出てそうじゃからな」
だがデッガニヒは気に留めた風も無くのんびり答える。確かにそうかも知れない、と思いなおしたユーリィンはさっそく試しに片足で竹竿を振ってみた。
「きゃあっ」
だが竹ざおが魚を捕らえるどころか、そのまま体勢を崩し海中に落ちてしまう。船によじ登ったユーリィンを、デッガニヒは相好崩してにやにや笑っていた。
「いやぁ、眼福眼福」
その視線が、濡れて肌に張り付いているふくよかな胸元に注がれているのに気付いてユーリィンは慌てて両手で隠した。
「恥ずかしがっておる暇、あるかのう。言っておくが、朝の授業時間には間に合うようにするつもりじゃが、飯食う時間は無いぞ。この調子だと今日は朝飯抜きじゃのぅ」
「そんな!」
ユーリィンは急いで立ち上がり、片足立ちになるも焦っていたせいで振る前に転げ落ちた。
「おやおや。この調子だと卒業までに魚が取れるかも疑わしいわい。まずは海女にでもなったほうがいいんじゃないかのぅ」
デッガニヒの軽口にもはや答えず、ユーリィンは片足立ちに集中することにした。
「まあ頑張ることじゃ。さぁて、わしは一眠りするから獲れたら起こしとくれ」
それだけ言い残し、デッガニヒは船底にごろりと転がるとすぐさま大きないびきをかきはじめた。
「馬鹿にして…!」
見ているがいい、そう思い幾度も挑戦する…が、その日は結局海に落ちることを繰り返しただけだった。
「つ…疲れた…」
その夜部屋に戻ってから、半ば倒れこむようにして寝台に飛び込んだユーリィンは眠りに落ちる直前『これは大分苦戦しそうだ』とうっすら考えたが、その予感は当たることとなる。
波間の上で揺られる小船に片足で立つだけでもかなりの集中力が求められる上、少しでも力みすぎると外に転げ落ちてしまう。逆に力が足りないと竿で魚に触れるどころか、水を断つことすらできない。
結局数日経ってももめぼしい成果は挙げらないまま、ユーリィンは天幻術の授業を受けていた。
「ユーリィン、ユーリィン! 起きてよ!!」
小声で自分を呼ぶ声が聞こえてきた。
頬杖をして目を瞑っていたため、寝ていると思われたようだ。
付き合いの長いいつも陽気な小翅族が周囲をひっきりなしに飛び回っていた。
「うわ、どしたのユーリィン? すごい顔してるよ。こーんな目してる」
いい加減煩さに耐え切れず顔を上げたユーリィンの眼前で止まると、自分の眦を指でつっぱり変な顔を作ってみせた。
「ああもう、うるっさいなぁ。リュリュ、あたし今あんたの相手する気分じゃないの。用が無いならほっといてよ」
普段なら笑い飛ばすところだが、気が立ってたユーリィンは大きくため息を吐くと手のひらでしっしっと追い払う素振りを見せた。
「ああ、待って待って」
席を替えるため立ち上がりかけたユーリィンの眼前に回りこむと何かを突き出してくる。
「これ、これだけ。蓋開けるの手伝って!」
突き出されたのは柄がリュリュの太ももほどもある筆だが、筒先の蓋が硬くて抜けないらしい。
天幻術の授業では術の概念を理論的に解説するため、筆記具を持たない生徒たちには学府が貸し出しているのだが、どうやら先に使った生徒が洗い忘れたまま蓋をしたのだろう。そのせいで毛先の部分が固まってしまったようだ。
「ボクの力だと固すぎてどうにもならないんだよ~」
情けない声をあげるリュリュから受け取って軽く試してみる。なるほど、これは確かに彼女一人では無理そうだ。
「ああもう! しょうがないわねぇ…」
改めて立ち上がり、筆を受け取ったところで。
「そこの二人、説明中です。いい加減静かにしなさい」
ドゥルガンの叱責が飛んだ。
「は、はい、すみません」
筆を掴んだまま慌ててそちらに上体を向け、謝罪する。
「あ、抜けた!」
途端、すぽんと小気味いい音を立てて筆から蓋が外れた。
「あら?」
「あれぇ? すごく硬かったんだけどなぁ…」
首を傾げるリュリュは不思議そうに首をかしげている。
「…あんたが色々触ったから緩んでたんじゃないの? まあ、ちょうどよかったじゃないの。ほら」
「あ、う、うん。ありがと」
投げてよこした筆をあわてて受け取ったのを見て取ると、ユーリィンはさっさと後ろの席に着いてつっぷした。
「…ユーリィン、いつあんな力持ちになったんだろ?」
首を傾げるリュリュだが、ドゥルガンから再び注意の声が飛んできためそそくさと元の席に戻っていった。
更に一週間が経ったが、ユーリィンの修行を受けるための試験はまだつづいていた。
「駄目じゃな」
デッガニヒがそっけなく答える。
ここのところ魚を跳ね上げるだけなら数回に一度はできるようになっていた。長足の進歩だが、デッガニヒは首を縦に振ろうとしない。
「どうしてよ!」
つい先ほども、大振りの青魚を獲ったばかりだ。これならばと内心自負していただけに、あっさり不合格を言い渡されたことでとうとうユーリィンのかんしゃくが爆発した。
「どうしてもこうしても、これを見てみぃ」
デッガニヒは呆れたような顔をすると尻尾をつまんで持ち上げてみせる。その魚は、尻尾と頭だけはあるものの身の大部分を水中に置いてきてしまっていた。
「お前さん、これじゃあ食うどころか売ることすらできんわい」
「そんなこと関係ないじゃない!」
「おおありじゃ」
のんびりと答えるデッガニヒ。けれど、その目は笑っていなかった。
「わしは魚を叩き殺せと言った覚えは無いぞ。叩き殺すんなら棍棒でも木の枝でも振っておればええ」
ユーリィンの返事は無い。だが、その顔にはありありと不満が浮かんでいるのを見てデッガニヒは大きく嘆息した。
「やれやれ…これ以上は時間の無駄のようじゃな。今日はここまでにするとしようかのう」
それきり、二人の会話は無かった。
桟橋につくと、デッガニヒは後も見ずさっさと立ち去ってしまい、ユーリィンもくさくさしたまま授業に向かった。
翌日、ユーリィンははじめて桟橋に行くのをすっぽかした。
デッガニヒに対して気まずいのもあるが、何より気が乗らない。今後の方針を改めて決めなおすためにも、まずは自主的な気分転換が必要だ――そう判断したのだ。
ただし、この気分転換はあまり効果的な結果にはならなかった。
何しろ、後ろめたさが常に付きまとうのだ。ユーリィンも、その理由が自分の選択にあることは判っていたが、尚のことどう処理して良いいかわからずもてあましていた。
「…あたしは別に漁師になりたくてアグストヤラナに来たわけじゃないし」
そうして放課後、ぶらぶらしていた彼女が足をアベルの元に向けたのはまったくの偶然だった。
「あら、アベル?」
薄暮の中、灯りがほとんど残っていない中で一人ひたすら剣を振っていたのは、確かにアベルだった。
「こんな時間まで剣を振ってたの?」
呆れているのを隠そうともせず近寄っていく。
「あれ、ユーリィン。具合が悪かったんじゃないのか? リュリュにそう聞いたけど」
驚いたアベルの言葉に、ユーリィンはリュリュが気を利かせてそういうことにしてくれたのだと悟った。
「え、ええ。…ごめんなさい、採取をすっぽかしちゃって」
目線を合わせないようにしていたユーリィンを、アベルは穏やかに微笑んで見つめていた。
「いや、そんなことは気にしないでいいよ。それよりご飯は?」
言われて見れば大分腹が減っている。やましくて昼も教室へ顔を出せなかったのだからしょうがない。
「じゃあ教室へ一緒に行こう。もう良い時間だし、僕もお腹空いたからね」
星が瞬きはじめたのを確認したアベルが装備を片付け始めるのを、ユーリィンは黙って見守ることにした。
「おまたせ。さあ行こうか」
ユーリィンは装備を抱えて倉庫に向かって歩き出すアベルの隣に連れ立ち、二人は並んで歩き出した。
「ねえ、アベル」
「ん?」
そう呼びかけたものの、何を話したらいいか。迷ったユーリィンは次の言葉を探しあぐねた結果、先ほどの情景について質問することにした。
「…その、気を悪くしたなら謝るのだけど。一つ、聞かせてもらえない?」
普段のあけすけな彼女からとは思えない言葉に、アベルは少し戸惑ったようだった。
「構わないけど、何?」
「あなたは、何のために剣を振ってるの?」
「何のためにって…」
アベルの言葉を遮り、ユーリィンがつづける。
「こういっちゃ何だけど、あなたの剣の腕はたかが知れてるわ。戦闘技術だけで言えばムクロ、それに多分レニー、二人のほうがはるかに強い。それでも、何故あなたは…」
「ここにいるのか、って?」
直裁過ぎたかと一旦は言いつくろうとしたものの、その問いこそ相応しいような気がしてユーリィンはおずおずと頷いた。
「…そうだなぁ…」
足を止め、アベルはしばし考え込む。アベルも今までの付き合いの中で、ユーリィンのこの問いが決して単なる思いつきで出たものではなく、何か重要なものを求めてあがいた上で発された質問だと肌で感じていた。
だから、真剣に考えた末答えた。
「何のためにか…といえば、今の僕はみんなのために、かな。ユーリィンも含めた」
「え…あたしも? どういうこと?」
実力では負けっこないと内心思っていただけに、自分の名前が出たことにユーリィンは驚いた。
不思議そうに尋ねる彼女に、アベルは腕組みをして一寸考え込んだ後、慎重に言葉を選んで答えた。
「僕が剣を振るのは、前に立ちふさがる敵を切り斃すためじゃない。それなら、確かに僕よりうってつけの人は幾らでもいるからね。ムクロやレニーはもとより、リティアナ。そして君の方が純粋な戦闘能力なら僕より強いだろうね」
ユーリィンは、黙って聞くに留めた。
「それでも、僕にできることはあると思うんだ。ムクロが強敵だけをひきつけ、レニーやリュリュ、ユーリィンが安心して攻撃に専念できるよう、一分、一秒でも長く多くの敵の前に立つ。そのために剣を振り、相手の注意を引く…それが、僕がみんなの前に立って剣を振る理由、かな」
アベルの答えに、ユーリィンは正直驚いていた。
元々はリティアナだけを追いかけてきていた彼が、いつしかそうまで自分達を含めた仲間を大切に感じていたとは思ってもいなかった。
「本当はその中にリティアナも含めたいんだけどね。一緒に戦えるようになるのも含めて、いつになることやら…」
あははと笑いながらアベルは空を見上げている。
ユーリィンも、ようやく思い出せた 。
何のために自分は強くなるのか。リュリュをはじめ仲間たちの顔が思い浮かぶ。
そこまで考えたとき、ユーリィンは今までそんなことも忘れてただ力と焦りに任せて竿を振り回していたことに思い至った。
「…まったく、あたしらしくないわねぇ」
「そうだね、ユーリィンはもっとあっけらかんとしてないと」
そう答えるアベルは穏やかに微笑を浮かべている。
じっと見つめる彼を見てなるほど、と鼻の頭をかきかきユーリィンは思う。彼のこういうところをリュリュは好ましく思ったに違いない。
ともあれ、とっかかりが見えた。後は実践あるのみだ。
「…ごめん、やっぱりちょっと行くところができたわ」
「そうか」
そう答えながらも、半ば予期していたようであまりアベルは驚いた素振りが無い。
「リュリュには僕から事情を説明しておくよ。それじゃあ頑張って」
「あ、待って」
きびすを返しかけたところを呼び止められ、振り向いたアベルの頬にユーリィンはすばやく唇を寄せた。
「え、え?」
「今日はありがと!」
呆気にとられているアベルを残し、ユーリィンは桟橋に向かい駆け出していた。
「ほお?」
夜が明けて、久しぶりの釣りに出かけようとしたデッガニヒは先客がいることに気付いた。
「どうやら、昨日とは違うようじゃのう。ずる休みしたかいはあったみたいじゃな」
ユーリィンが全身ずぶぬれになって舳先に座り込んでいる。だが、デッガニヒの目を引いたのは彼女の眼光だった。
「その様子だと、わしに何か見せたいものがあるようじゃな?」
近寄ってくるデッガニヒに気付くと、ユーリィンは立ち上がり深々と頭を下げる。
デッガニヒは責めることなく、ただ黙っていつもの定位置に乗り込むと胡坐をかいた。
互いに無言のまま、船が沖合いについたところで、
「この辺でええじゃろ。さて、成果を見せてくれるかの」
振り向かず、デッガニヒはのんびりいつもと同じ口調で促した。
「ええ、任せて」
ユーリィンは船を止め、とんとんっと足取り軽く舳先に出ると片足で立った。
「ほう…」
暁闇を陽光が切り裂いていく。
彼女の動きは波の揺れる動きに逆らわず、まるで船の一部となったようだ。わずかに髪の毛だけがふわり、ふわりと揺らめく。
かつて街の大きな教会で見た、野山を駆ける風神フィルの壁画を想起させたその美しさに、デッガニヒは年甲斐も無く見ほれた。
その間、ユーリィンは半眼でじっと海面を見つめていた。
視線はとうに水面下でのんびり泳ぐ一際大きな魚影を捕らえていたが、彼女はすぐ傍にいるもう一つの影にも気付いていた。
つかず、離れずの位置をまるで戯れるようにして泳ぐ魚たち。家族か、はたまた伴侶か。いずれにせよ、とても大切な相手なのだろうことがユーリィンにもわかる。
一昨日までは焦りからか、そんなことにまで気づく余裕は無かった。
微笑みながら静かに彼らの動きを見つめていたユーリィンの目が、ゆっくり閉じられる。
――ほんのちょっとだけ、あたしに付き合って頂戴ね――
「はっ!」
数瞬の間を置いて、ユーリィンの手が動く。
ひゅおっと風を斬る音に少し遅れて、見事な魚がきらきらと曙光を跳ね返しながら宙を舞った。
「ほほう」
魚はそのまま船の上を跳び越し、デッガニヒのすぐ傍の海面に落ちる。
水中に戻った魚は一瞬戸惑うようにじっとしていたが、あとを追ってきた片割れと再会すると何事も無かったようにゆっくりと深い水底へその姿を消した。
「見事!」
ぱぁん、とデッガニヒが膝を叩いた。
「よく気付いたのぅ」
目を開いたユーリィンは照れくさそうに笑った。
「…あたし一人じゃ気付かなかったけどね」
「それでよいんじゃよ。何も一人で全部背負い込む必要はない。それがこの学府の教えじゃ」
デッガニヒが深く頷いた。
「あれはのぅ、じゃじゃ馬過ぎて力任せに叩き斬ろうとする者、斬る気に逸る者には使いこなせん。自在に使いこなせるには力や技術は元より、斬るべきもの、そうでないものを見極める冷静さ。そして何より自らを律せる心の強さが肝要なのじゃ。…よくぞ、あの魚の命を奪わずにいてくれた」
デッガニヒが、満足げな笑顔を浮かべる。
「お前さんなら、わしの跡取りとして使いこなせるであろう」
彼の言葉にユーリィンは驚いた。
「それじゃあ…?!」
デッガニヒは首を横に振る。
「今のわしはただの船頭じゃ。それ以下でもそれ以上でもないわい」
おどけた口調だったが悲しげな目つきだ。だがそれも一瞬のことで、すぐにデッガニヒはいつもの飄々とした表情に戻っていた。
「さて、そろそろわしゃ腹が減った。本格的な修行は明日からにするが、今日はここまでにして戻ろうか。明日からは厳しく扱くぞ、覚悟しておけよ」
「ええ、望むところだわ」
ユーリィンの返事に、デッガニヒが満足げに頷く。そして、学府へ戻るよう指示を出した。
こうして船が動き出したところで、
「おおっと! こりゃあうっかりしておったわい」
不意にデッガニヒがぴしゃりと禿げ上がった額を叩いた。
「どうかした?」
何か問題があるのかと不安そうな表情を浮かべるユーリィンにデッガニヒは向き直り、
「あの魚、せっかくなら船の上に落としてくれたら尚良かったんじゃがのぅ。食いでがありそうだっただけにもったいないことをしたわい。もう一度、やってくれんかの?」
そう言うとぺろりと舌を出した。
「さっきまで殺生しなかったことを喜んでいたくせに…」
師匠の言葉に、ユーリィンはやれやれと苦笑いを浮かべた。まったく食い意地の張った爺いである。
「それはそれ、これはこれじゃよ、かっかっかっか」
こうしてアグストヤラナに向かう小船は、朝焼けの光の中ゆっくり進むのだった。




