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一歩進んだ日

 

 三月も終わりが近くなり、気付けば吐く息が白くなることはなくなっていた。


 俺は人生ゲームが完成しないまま約束の日が近付くことに焦りを覚えつつ、ふと思い出した。


 明日、生活保護費の支給日だ。


 所持金を確認すると、まだ諭吉が10人以上残っていた。無駄に使わなければこんなものなのか、それとも張り切ってバイトをし過ぎたせいか。


 そういや、生活保護の支給が始まったのは4年と少し前だから……あ、ちょうど次で50回目か。一回の支給額は20万だから、ぴったり1千万だ。ほとんどパチンコに消えたけどな。


 ともかく、せっかく金があるのだから、みさきに何か買ってやろうと考えた。

 だが暫く考えた後、首を振る。


 ……やめよう。


 俺は立派な親になると決めたんだ。

 それなのに、いつまでも不正受給を続けてるってのはどうなんだ?

 

 そりゃ、一番の目的はみさきを幸せにすることで、その為には金が要る。このさき不正受給を続けたって、きっと問題にはならない。絶対にばれない自信がある。


 だけど、それってどうなんだ?

 そういう金で育てられたって知った時、みさきはどう思うんだよ……。


 決めた。


 俺は直ぐに立ち上がって、市役所を目指した。

 それから窓口に立って、職員に言う。


「あの、生活保護をやめに来たんですが……」


 兄貴の所でバイトをしていたせいか、自然に丁寧な言葉が出た。日本語は怪しいけどな。


「はい、では、お名前をお聞かせください」

「天童龍誠です」

「はい、天童さん。少々……あれ、天童龍誠さん?」

「……なにか?」

「あ、いえ、失礼しました……えー、少々お待ちくださいね」


 妙に意味深な態度で、職員は窓口を離れた。

 何だったのだろうと眉をしかめながら待っていると、やがて別の職員が現れた。


「天童龍誠さんで間違いありませんか?」

「はい」


 わりと年配の職員は、どこか緊張した様子で、見るからに表情が強張っている。


「本日は生活保護の停止を希望とのことですが……いったい、どんな理由で?」

「娘の為です」

「娘の? でしたら、むしろお金が必要なのでは?」

「金には困ってません。だから、やめにきました」

「…………」


 きっぱり言うと、年配の職員は重たい息を吐きながら目を閉じた。やがてゆっくりと頷いて、どこか安心した様子で目を開く。


「分かりました。ならば明日、娘さんと一緒にもう一度ここへ来てください。いつなら都合が良いですか?」

「……6時くらいなら」

「分かりました。では明日の6時、もう一度ここへ来てください」


 ん? 市役所って5時までじゃねぇのか?

 それに、娘と一緒ってどういうことだ?

 

「はい、分かりました」


 まぁ、職員が言うなら従うしかねぇか……。




 翌日。

 俺は保育園までみさきを迎えに行った。


「あ、天童さん。お仕事お疲れ様です」


 すっかり顔見知りとなった保育士からみさきを引き取って、市役所へ向かう。

 いつものように、みさきは俺の隣をトコトコ歩いてついてきた。


 保育園から近い所では、俺達以外にも親子の姿がちらほらと見える。みんな仲が良さそうで、当然のように手を繋いでいる。子供はギャーギャー騒いで、親は楽しそうに子供を見ていた。


 それと比べると、俺とみさきの関係は少し弱いように思えてしまう。みさきも同じなのか、ときどき他の親子を見ていた。その顔は無表情で、何を考えているかは分からない。何を考えているのだろうか。


「……ん?」

「……いや、その、何を話そうかと思ってな」

「なに?」

「おう……そうだな、たまにはみさきから聞きたい事とかねぇのか?」

「ききたいこと?」

「ああ、何か聞きたいことはあるか?」

「……んん?」


 特に無いらしい。


 静かに、俺達は市役所へ向かった。

 途中で道が違うことに気が付いたみさきが俺のズボンを引っ張ったが、お出かけだと伝えると目を輝かせた。普段は5歳とは思えないほど静かだが、こういう所は子供っぽい。


 思えば、もう一ヶ月だ。

 俺はみさきから沢山の感情をもらったが、みさきには何か与えてやれただろうか?

 育てるなんて偉そうに言っているが、どっちが育てているんだか良く分からない。


 この小さな女の子は、見た目からは想像も出来ないくらい強い。

 何事にも一生懸命で、優しくて、どんな仕打ちを受けても泣き言ひとつ言わない。


 そんな子供の親を名乗る資格なんて、きっと今の俺には無い。

 だからこそ頑張らなければいけないと、この時あらためて思った。




 市役所に着いた。

 無駄に豪華で、きちんと手入れされた盆栽や池、噴水なんかもある。

 この無駄な装飾は税金によって施されているのだろうが、市民は苦情を言わないのだろうか? 消費税と源泉徴収でしか税金を払っていない俺にはピンと来ない話だが……。


「閉まってるじゃねぇかよ……」


 明らかに人いねぇよなぁと思いながらも、信じて自動扉の前に立ったらやっぱり裏切られた。

 振り返って噴水の上にある時計を見ると、時間は5時40分くらい。問題は無いはずだ。


 ……少し待って来なかったら帰るか。


「りょーくん、はいらない?」

「あー、人を待ってるんだよ」

「ひと?」

「おう。すまんが、みさきも少し付き合ってくれ」

「あのひと?」


 なんだよ居るなら声かけろよ。


「……うそだろ」


 みさきの見ている方に目を向けて、俺は言葉を失った。

 そこには正礼服に身を包み、スーツケースを片手にピンと背筋を伸ばす女性が居た。


 俺は、あの人を知っている。

 忘れるわけが無い。


「りょーくん?」


 俺のズボンを引っ張ったみさきが、少し心配そうな声で言った。どうやら今の俺は心配されるような状況らしい。


 俺も彼女も互いの目を見たまま何も言わなかった。


 近くを通る車の音。

 風が草木を揺らす音。

 そして、心臓の音。


 その全てが俺をイラつかせた。


「……みさき、行くぞ」


 何が目的なのかは知らないが、付き合ってやる義理は無い。俺はみさきを連れて、彼女の横を通り過ぎようとした。


「……離せ」


 俺の服を掴んだまま、彼女は動かない。


「おい、離せ」

「……まったく、やっぱり、最低ですね」

「離せよ!」


 聞き覚えのある言葉に、思わず声を荒げた。

 だけど彼女は少しも怯えた様子を見せず、堂々とした声で答える。


「龍誠。やはり、貴方は私を恨んでいますか?」

「のぼせてんじゃねぇ、テメェなんか眼中にねぇよ!」

「そうですか……私は、貴方の事を考えない日はありませんでしたよ」

「いい加減なこと言ってんじゃねぇ!」


 彼女の背中に怒声を投げ付けて、ついでに肩を掴んで此方を向かせる。

 どうせあの時と同じで、無表情のままなのだと思っていた。


 果たして――彼女は、泣いていた。


「……」


 思わず言葉を失った俺に向かって、彼女は震える声で言う。


「子供のことが気にならない母親なんて、いるわけがないでしょう」


 ……ふざけんなよ。


「あんた、俺を産んだことを後悔してるんだろ?」


 彼女は頷いて、膝を追った。


「おい、何してるんだよ」


 そして、迷わず土下座した。


「ごめんなさい」

「……は?」

「貴方を育てられなくて、ごめんなさい」


 訳が分からなかった。

 この女が何をしたいのか、何を考えているのか、少しも理解出来なかった。


「私は、貴方を産むべきではなかった。育てられないことは分かっていた。それでも、貴方を産まないことは出来なかった……どうか、こんな身勝手で、最低な母親のことを、許してください」


 ずっと溜め込んでいた感情を吐き出すかのように、とめどなく言葉が溢れ出る。


「私は、ずっと貴方に謝りたかった。親としての義務を果たせなかったことを謝りたかった。言い訳をするつもりはありません。私が、親としてあまりにも愚劣だった。……十年前に貴方が起こした暴力事件、真相は彼女から聞きました。あの時、もしも私が少しでもまともな母親だったら……貴方に、そんな生活を強いることにはならなかった……ごめんなさい、本当に、ごめんなさい………だけど、龍誠? これだけは言わせてください。ありがとう。こんなに立派に育ってくれて、生きていてくれて、ありがとう」


 口元に手を当てて、情けないくらいに声を震わせている。

 俺には、信じられなかった。


「……なに言ってんだよ、意味わかんねぇよ」


 こいつは、


「あんたは、俺を捨てたんだ。それが突然現れて、実は申し訳ないと思っていました? 適当なこと言ってんじゃねぇぞ」


 なら、


「それなら、どうして一度も会いに来なかった!? あんたには、いくらでもチャンスがあっただろ!」

「……」

「黙ってねぇで何か言えよ!」

「怖かったのよ!」


 ほとんど聞き取れないような涙声には、俺を黙らせるだけの何かがあった。


「こんな風に、龍誠と話をして、貴方の顔を見るのが怖かった……本当に、最低だわ。こんな私に、親になる資格なんて無かった」


 ……なんだよ、それ。

 

「子供の育て方なんて、知らないもの……あなたの兄は一人で育ってくれたから、私は、それに甘えてしまった。あなたもそうだと、思い込んでしまった……そのせいで、あなたに……あなたに…………」


 それ以上、言葉は続かなかった。


 ――最低ね、本当に。やっぱり、産まなければよかった。


 この言葉は、今でも覚えている。

 ずっと捨てられたのだと思っていた。

 身勝手な母親だと思っていた。


 その母親が、目の前で子供みたいに泣いている。

 

「……」


 何を言ったらいいのか分からなかった。

 茫然としていると、小さな手が彼女の頭を撫でた。


 何も言えなくなった親子の間で、みさきだけが、いつも通りだった。

 やっぱり、みさきは、呆れるくらいに強い女の子だった。


 やがて、いくらか落ち着きを取り戻した母親は、みさきに礼を言って立ち上がった。


「……では、本題に入りましょう」


 本題?


「龍誠、あなたは生活保護を受給していると思っていたようですが、それは勘違いです」


 勘違い?


「あなたなら、きっといつか更生して、自ら市役所に足を運ぶと信じていました」


 待て、こいつはいったい何を言おうとしている。


「確認します。この子の為に生活保護の受給を取りやめる。それで間違いありませんね?」

「……ああ、そうだ」

「そうですか。では、これを受け取ってください」


 彼女は持っていたスーツケースを俺に差し出した。


「1千万円入っています。貴方への最後の慰謝料と、祝い金です」

「……さっきから、言ってること、全然分かんねぇよ」

「龍誠、貴方にお金を支払っていたのは市でも国でもありません……賢い貴方なら、分かりますね?」


 そんな。


「……うそだろ、そんなの」

「4年前、彼女が貴方に生活保護を受給するよう勧めたのも、その先も、何もかも私によるものです」

「どうして、そんなこと」

「言ったでしょう。息子のことが気にならない母親なんていないって」

 

 ……なんだよ、それ。


「早く受け取りなさい」

「……受け取れねぇよ、こんなの」


 俺、どんだけ馬鹿だったんだよ。


「龍誠、貴方にはコレを受け取る正当な権利があります。これは、貴方のものです」

「……ろ」

「そのお金で、この子に何か買ってあげなさい。それから、住む場所を変えるのもいいでしょう。あんな場所では、身体に悪いですよ」

「……やめろ」

「もちろん、貴方の趣味に使っても構いません。自由です」

「やめろよ!」


 押し付けられているスーツケースを投げ捨てて、怒鳴った。

 ガキみたいな事をしているって自覚はある。

 だけど我慢できなかった。


「いまさら、そんな、母親みたいなことするじゃねぇよ!」

「……」

「俺はこんなもの求めてない。あんたが思うように恨んでもいない。さっきも言っただろ、眼中にねぇんだよ! テメェのことを気にしたことなんて、一度も、一度も……クソッ!!」


 一度も無い。その言葉を言うことは出来なかった。

 言えるわけ無かった。


 親の話題が出る度に思い出していた。

 みさきを捨てたクソビッチのことを、彼女と重ねていた。

 だからみさきを自分と重ねて、育てるって決めたんだ。

 俺はただ、みさきに同情しただけだった。


「……とにかくそれは貴方のものです。好きに使ってください」


 小さな声で早口に言って、彼女はこの場を離れようとした。


「待てよ!」


 呼び止めると、彼女は足を止めた。

 俺は投げ捨てたスーツケースを拾って、押し付ける。


「何度言えば分かるのですか? これは貴方のものです」

「分かってるよ。だからこうしてるんだ」

「……?」

「好きに使っていいんだろ?」

「……あなた、まさか」

「丁度1千万、今迄にあんたから貰った金だ。いいかよく聞け、俺は、もうあんたの知ってるガキじゃない。子供を育てる立場になった大人なんだよ。親の助けなんて借りなくても、自分で歩ける。だから受け取ってくれ。そうじゃねぇと、俺はきっと前に進めない」


 そうじゃないと、みさきの親になんてなれない。

 みさきは、とても強い子なんだ。

 あいつの親なんだって胸を張る為にも、この金を受け取るわけにはいかない。


「受け取ってください」

「…………」


 彼女は、複雑な表情をしていた。

 喜びや悲しみ、いろんな感情が渦巻いているのが分かった。

 そして最後には、呆れたような笑い声をあげた。


「分かりました。受け取りましょう」


 彼女は俺の手からスーツケースを受け取ると、踵を返して、そのまま振り返らずに歩いた。

 別れの言葉すら無かったが、逆に、それが返事であるかのような気がした。


 きっと俺は、彼女に認められたのだ。


 …………ああ、くそ。

 ダメだ、動けねぇや。

 突然過ぎて、驚き過ぎて、もう本当に、なんも分からねぇ。


 茫然としながら空を見上げていると、ふと何かが俺のズボンを引っ張った。

 何かって、みさきだ。他に誰が居る。


「……どうした?」

「……」


 返事は無かった。

 大声で怒鳴ってるとこなんて見せちまってせいで怯えてるのだろうか?


 安心させてやろうと、膝を追って目線の高さを合わせて、そこで初めて気が付いた。


 みさきが口を一の字にして、子供らしい大きな目を潤ませていた。


「どうした?」

「…………」

 

 とても辛そうな表情で、何度も鼻をすすりながら、震える唇で、


「……おかあさんも、わたしのこと、きにしてるかな」


 一筋の涙が零れた。

 そしてまた口を一の字にして、小刻みに体を震わせる。

 その姿を見て、俺は初めて気が付いた。


 みさきは、ただの子供なんだ。

 まだ5歳の女の子だったんだ。

 

 ……かっこ悪すぎるだろ、天童龍誠。


 俺は、みさきの涙を拭こうと手を伸ばした。

 なのに、どうしてか視界がぼやけて、みさきの位置が分からなくなった。

 伸ばした手が、情けなく空回りした。


 どうすればいいのか分からなかった。

 この涙を止めたいということはハッキリ分かっているのに、俺には何も出来なかった。それが悔しくて、悔しくてたまらない。

 だから俺は、精一杯の強がりを言った。


「泣くな、みさき。みさきには俺がいる。だから、泣くなっ」

「……りょーくんも、ないてる」


 ……何だか視界がぼやけていると思ったら、やっぱりそうだったのか。


「……いいか、よく聞け。いい女はな、男が泣いてる時は黙って抱きしめるんだよ」

「……だき、しめる?」

「ぎゅーってするんだ」


 言った直後、みさきが飛び込んできた。

 小さな衝撃を受け止めて、今にも消えてしまいそうなみさきを離さないように、強く強く抱きしめる。


 直ぐに震えが伝わって来た。

 みさきは、ついに声を上げて泣いた。

 子供らしく、大声で泣き喚いた。


「……みさき、俺、頑張るよ。今よりもっと、誰よりも……みさきを二度と泣かせねぇ……生まれてきて良かったって思えるくらい幸せにしてやる……だから、今日が最後だ。みさきも、俺も……いいな?」

「…………ん」


 それからみさきが泣き止むまで、ずっと彼女を抱きしめていた。


 ……立派な親になる。

 絶対、今よりもっと、ずっとずっと……。

 みさきを二度と泣かせない為に、誰よりも――




 泣き疲れたのか眠ってしまったみさきを背負って、部屋に戻った。

 みさきを枕に寝かせて、しっかり布団をかぶせてやる。

 

 俺は背伸びをしたあと、長い息を吐いた。

 それからみさきの方を見ると、偶然にも出しっぱなしだったノートが目に映る。


 なんとなく手に取って、ふと思いついた。


「……日記、日記を書こう」


 それを毎日続けて、みさきをどれだけ喜ばせられたか確認するんだ。


 そうだな、この日記にタイトルを付けるなら――


 ご愛読ありがとうございました。

 下城米雪先生の次回作にご期待ください。

 嘘です、まだ終わらないです。

 まだタグの工場長(ヒロイン)とか登場すらしてないです。あれこれ活動報告に書いたので、よければお読みください。



 

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