勉強を始めた日
この日、俺は勉強を始めた。
教材は『猿でも分かるC言語』という薄い本。
もちろん、例の変態と出会ったのが原因だ。
どうやら中学3年の時に同級生だったらしい和崎優斗は、鬱陶しいくらいにテンションが高かった。卒業後は何をしていたのかとか、子供が居るなら教えてくれだとか……俺は雑な相槌を打っているだけだったが、とにかく鬱陶しかった。みさきが見ているせいで殴ったり出来なかったせいか、2時間くらいは喋り続けていたような気がする。彼は古い知り合いに出会えて嬉しいのだろうが、俺としては名前どころか顔も分からないので、酔っ払いに絡まれたような気分だ。
そもそも、こいつはどうして俺を覚えているんだよ。誰かと勘違いしてねぇか?
いやでも、天童龍誠なんて名前そうそういねぇよな……。
そんな疑問を抱きながら話を聞き続けていると、優斗は自分の仕事について話し始めた。
IT関係というか、パソコンをカタカタ弄って何かを作る会社のようで、なんと3年前に大学を中退して起業したのだとか。実に胡散臭い会社だが、今のところ上手く行っていて、というか上手く行き過ぎていて人手が足りないらしい。そこで、プログラマーを探しているのだそうだ。
もちろん、俺はプログラムなんて分からない。
優斗の誘いを丁重に断ると、彼は大袈裟な身振りを付けてこう言った。
我が社の採用条件はふたつ。
ひとつ、俺の知っている人間であること。
ひとつ、自力でプログラミング能力を身につけられること。
そうだ、どうせニートやってるんならプログラム学ぼうぜ!
ほら、たまたま持ってた本とパソコン貸してやるからさ!
よし、じゃあ試験をしよう! 4月1日までに人生ゲーム作ったら合格な!
なぁにテキストベースでいいよ。クオリティには期待してないから!
それじゃあ! 4月1日にここで会おう! 時間は今日と同じで!
こうして変態はノートパソコンと本を一方的に押し付けて、走り去った。
採用条件は〜くらいから俺は一言も話していない。
家に帰ってパソコンを金に換えるか放置して4月に返すか迷った末、一応は勉強することにした。
パソコンをカタカタする仕事なら肉体労働とは違うだろう。だから、この本を読んで技術を身につければ社会から求められる人材になれるというのは、どうにも魅力的だった。
翌日。
みさきを保育園へ送り届けて一人になった後、俺は本を開いた。
『
ドキ☆初めてのC言語プログラミング!
そのぃち☆最小のプログラムを作ろう!
』
そっと本を閉じた。
「バカにしてんのか?」
是非とも作者の名前を拝みたくなって探すと、直ぐに見つかった。
著:和崎優斗
「やっぱバカにしてんだろ!? そうなんだろ!?」
あぶねぇ、勢いでノーパソを破壊するところだった。
落ち着け、最近の本はこういうノリが主流なのかもしれねぇ……。
そもそもタイトルが「猿にも分かる」だから、あえて堅苦しい表現を避けているのかもしれない。
よし、続きを読むぞ。
『
えっとね、僕の使ってる環境がUbuntuだから、それに合わせて書くよ?
他のOSを使っている人は、いい感じに調整してね☆
早速☆最小のプログラムの作り方!
1.Ctrl + Alt + T でターミナルを開く。
2.mkdir name でディレクトリを作る。
3.cd name で作ったディレクトリに移動する。
4.vim 1.cpp でエディタを開く。
5.iを押して書き込みモードにした後、
#include<stdio.h>
int main()
{
return 0;
}
と入力する。
次にEscを押して「:wq」と入力し、エンター。
6.g++ 1.cpp でコンパイル。
おめでとう、初めてのプログラミング終了だよ!
』
俺は全力で本を閉じた。
「……ふざけんなコラ。テメェの中の猿はどんだけ賢いんだよ!? 分かるわけねぇだろ!?」
ターミナル?
ディレクトリ?
エディタ?
コンパイル?
説明も無しに専門用語連発してんじゃねぇよ!
「……上等だ」
なんとなく、ケンカを売られているような気がした。
ほーれほれ、こんなことも理解出来ないのか? お前は猿以下だなぁ。
と、馬鹿にされているような気がした。
「作ってやろうじゃねぇか、人生ゲーム!」
こうして勉強の日々が始まった。
みさきが居ない時は、ひたすらパソコンと睨めっこした。
みさきが居る時は、勉強をしなかった。
なんとなく、必死に頑張っている姿を見せたくなかったからだ。
みさきは漢字を覚えて、友達を作って、口数も増えてきた……このままじゃ、置いてかれちまう。
やる気は十分だったが、勉強は難航した。
なんたって、このノーパソ直ぐに電源が切れやがる。
ボロアパートには電気が通っていないから、兄貴の店に通って充電させてもらった。
んで、プログラムの方は分からないとかそういう次元じゃねぇ。
本当に苦戦したが、それはまた別の機会に語ろう。
そこからは、時間の流れがマッハだった。
朝起きてみさきを保育園に送って、三日に一度くらいは日雇いのバイトで貯金を作って、そうじゃない時は勉強をする。みさきを迎えに行った後は、飯食って風呂入って寝るだけ。
俺はずっと勉強を続けた。
何時の間にか、楽しくなっていた。
もちろん、みさきの世話も忘れてねぇ。
いつか「りょーくん大好き!」と抱き着いてくれることを信じて、毎日会話している。
……まぁ、まだ手を繋いだこともねぇんだけどな。




