短期バイトを卒業した日
みさきが入園してから一週間くらい経った。
特筆するような出来事も無く日々が過ぎ、ひとつの区切りを迎えた。
今日、バイトを辞める。
どうせなら、すっきり辞めようと思う。
俺は約束通り一週間バイトを続けて、そりゃもういろんな客に出会った。握り締めた拳に爪が食い込んで血が出た日や、理由の無い暴力に襲われた日……本当に、よく我慢できたと思う。
そのおかげで大抵のことは許容できるようになったが、どうしても納得できねぇことがある。
この疑問を抱えたまま辞めることなんて出来ねぇ。
「店長、ちょっといいっすか?」
いかんな、接客ではそこそこまともな敬語が使えるようになったんだが、このおっさん相手だと口が勝手に砕け散る。もとい、くだけた言葉遣いになっちまう。
「おう、なんだ?」
閉店作業を続けながら、店長は返事をした。
俺もカウンターを専用の布と洗剤で拭きながら、その背に向かって問いかける。
「潔癖な客ほど机を汚すのは何でなんすか?」
納得いかねぇこと、そのいち。この店は皿やら箸やらを全て盆に乗せて出すのだが、その盆ってのが嫌味な作りになってるせいで、わりと頻繁に箸が机の上に転がり落ちる。そこまではいい。そのあと「すいません」と言って箸を盆に戻すと、稀に「何してんの箸変えてよありえないだろ」とキレる客がいる。んで、そういう客の食べた後は例外なく汚い。
「よく聞けガキ。人間ってのはなぁ、自分を中心に生きてるもんなんだ。自分が汚すから、誰もが同じように汚すって思ってんだよ」
「なるほど、つまりはガキってこと……ですね」
あぶねぇ、また口が砕け散るところだった。
「ふっ、ガキが何か言ってやがる……まぁ、ようはガキにガキ扱いされるクソガキの心理ってやつだ。テメェが本気でガキを育てるつもりなら、それくらいは許容できる大人になりやがれ」
「下らねぇことで腹を立てるなって意味か? あ、ですか?」
「良く分かってんじゃねぇか」
時間は早朝。店長は眠いんだかハイになってるんだか分からない調子で肩を揺らした。
なぜか、その背中が少しだけ大きく見えた。
……まったく、これじゃ残りの不満は泣き寝入りするしかねぇな。
「ところでガキ、明日から何をやるかは決まってやがるのか?」
「就職活動……ですかね?」
「ほー、当てでもあんのか?」
「…………いいや。けど、まぁ根性でどうにかなんだろ」
「また口が砕け散ってるぞ」
「っ!?」
クソっ! 自分で直すのはいいけど他人に指摘されると腹が立つのは何でだ!?
「そんなんじゃ何処も雇ってくんねぇぞぉ?」
「まぁ、どうにかしますよ」
「そうか。ならせいぜい頑張りやがれ」
「言われるまでもねぇ、ですよ」
短い会話が終わり、俺達は作業を再開した。
あっという間の一週間だったが、振り返ってみると感想は「よく続けられたものだ」という一言に尽きる。来る度にバックレようと考えたが、なんだかんだで一週間続いてしまった。なんといっても、俺には前科がある。日雇いのバイトしかしていなかったのは、それが理由だ。
なんでだろうな。
みさきの為って考えただけなんだけどな。
ただ理由が出来ただけ……そんだけで、こんなにも働くのが苦じゃなくなるのか。
「そういや店長、どうしてこんな店を開いたんだ?」
「こんな店だと? てめぇケンカ売ってんのか?」
なんだ、地雷だったのか?
初めてだぞ、こんな威圧感。
「気に障ったなら謝る。純粋な疑問だ、教えてくれ」
「……何が知りたい」
「働く理由だよ……あ、ですよ」
「理由か、どうしてそんなことが気になる?」
「一週間働いたが、そんなに儲かってねぇ……ですよね? だけど、あんたは金に困ってるようには見えねぇし、売り上げを気にしているようにも見えねぇ……です。なら趣味でやってんのかって考えたが、それも違うような気がする……します。だから、聞いてみたかったんだ……です」
こんなストレスが溜まるだけの仕事を続けられる理由。
そんなの、きっと今の俺には必要無い。
だけど、どうしても知りたかった。
「……そうだなぁ。話すつもりは無かったが、特別に教えてやるよ」
少しだけ儚い響きのある声で呟いて、店長は手を止めて上を向いた。
それは何かを思い出しているかのような、そんな雰囲気だった。
「人を待ってんだよ」
「……人?」
「ああ、来るかも分からねぇ、まだ生きてるかも分からねぇ女だ。
もう10年も前の話だが、俺はテメェよりちゃらんぽらんなクソガキでよぉ。この店は親父から継いだってだけで、この場所が欲しいってヤツに売り飛ばすつもりだった。
だけど、あいつが来やがった。
当時は9時に店を閉めてたんだが、閉めた直後に入り込んできてな。しかも、腹が減って死にそうだけど金が無いから無料で寄越せと抜かしやがる。あんまりしつけぇから余り物を恵んでやったら、そのまま居座りやがってな……気が付けば3時だ。そんな時間まで明かりがついてるもんだから、残業帰りやら深夜バイト帰りの奴らが来店しやがってな、あれよあれよと大盛り上がり。結局、あの女以外の客が帰ったのは朝の8時だったよ。最後まで残った女は本当に金が無いらしくてな、仕方ねぇからツケにしてやったんだ。
……だから、あいつがツケを返すまでは店をたたむわけにはいかねぇのさ」
店長は楽しそうに、だけど少しだけ寂しそうに言葉を紡いだ。
なるほど、やっぱり理由があったらしい。
しかも共感できる内容だったから腹が立つ。
きっと、楽しかったんだ。
想像すら出来なかった感情に出会ったんだ。
「ツケと一緒に、釣銭を返すのも忘れんなよ」
小生意気な事を言ってやると、店長は呆れた表情をしながら振り返った。
その間抜けな顔を笑ってやる。
下手な笑顔だったからか、店長にも笑われた。
「ぬかしやがれ、クソガキ」
また来る。
そうか。
とても短い会話をして、俺は店を出た。
すると偶然にも太陽が昇り始め、眩しい光に目を細める。
それでも眩しいから、仕方なく太陽に背を向けて、ついでに頭を下げた。
……あんたのこと尊敬するよ。
店長、いや、先輩……兄貴。
そうだな、これがいい。
あのクソ店長と俺の関係なら、敬称は兄貴以外にありえない。
「……お世話になりました。クソ兄貴」
部屋に帰ると、珍しくみさきが寝ていた。
自分と同じくらいある枕に可愛らしく抱き着いて、天使のような寝顔で眠っている。
みさきの傍には漢字ドリルやノート、文庫本が並べてあった。
きっと寝る直前まで勉強していたのだろう。
……待て、文庫本なんて買った覚えねぇぞ?
手に取って、なんとなくひっくり返す。
ゆい。
可愛らしい字で、大きく書いてあった。
「…………」
音を立てないように本を置いて、みさきの寝顔を見る。
「……みさき」
ありがとう。
相手は寝ているってのに、どうしてか恥ずかしくて、声に出すことは出来なかった。
自嘲気味に肩を揺らして、身体を倒す。
目を閉じると、直ぐに眠気がやってきた。




