3話 守る順番
目的地に到着してから、すでに三十分が経過していた。
俺たちは格納庫を見渡せる位置で身を潜め、周囲の様子を窺っていた。
工場と倉庫が立ち並ぶ一帯には、軍用車両が絶え間なく行き交っている。施設の外周には有刺鉄線が張られ、いくつかの出入口には武装した兵士が配置されていた。建物の規模も、警備に割かれた人員も、俺たちがこれまでに襲撃してきた前線の拠点とは比べものにならない。
だが、気になるのは施設そのものではなかった。
「……分隊長。あれを見てください」
テオの声に、俺は双眼鏡を向けていた目を下ろした。
「どこだ」
「あの建物の奥です。施設の外周から、かなり近い位置に住宅があります」
示された方向へ双眼鏡を向ける。
倉庫の隙間から、低い屋根の建物がいくつも見えた。庭先には洗濯物が干され、道を歩く人影もある。軍用車両が通るたびに、子供らしい姿が道の端へ避けていた。
どうみても民間人の居住区だ。
作戦時点で司令官が用意した地図には、軍事施設の大まかな位置と、周囲の警戒網までしか記載がなかった。
現地に来て初めてわかることもある。
そして、そういう情報こそが作戦の成否を左右する。
「距離はどれくらいですか」
カイルが尋ねた。
「見たところ、数百メートルも離れていない。建物の配置次第では、もっと近い場所もあるだろう」
「……そうですか」
カイルは双眼鏡を覗き込んだまま、黙っていた。
俺はその横顔を見た。
こいつが何を考えているのか、わざわざ聞く必要はなかった。
先日の戦闘でもそうだった。部隊が撤退するなか、カイルは最後まで負傷兵の位置を気にしていた。自分の命が危険にさらされている状況でも、ほかの誰かを見捨てることに抵抗する。
軍人として、それは美徳になり得る。
だが、時として判断を誤らせる原因にもなる。
「分隊長。施設の座標を確認できれば、砲撃を要請できますよね」
テオが地図を広げながら言った。
「ああ。座標そのものは、ここからでも十分に割り出せる。砲撃部隊は後方で待機しているはずだ。連絡を入れれば、必要な火砲を射程内まで移動させて攻撃の準備に入る」
「では、すぐにでも作戦を進められるわけですね」
「そうだ。少なくとも、攻撃を開始するまでに何日もかかるような話ではない」
テオは施設と住宅地を交互に見た。
「ただ……この距離では、着弾地点を正確に定めたところで、周辺への被害を完全に防げるとは限りません」
「そういうことだ」
砲撃そのものに問題はない。
目標の位置を特定し、射程に入る場所まで火砲を運び、射撃諸元を整えればいい。後方の砲撃部隊も、こちらからの連絡を待っている。作戦の開始に必要な条件は、ほとんど揃っていた。
問題は、そのあとだ。
格納庫を破壊できたとしても、保管されているブラックソーンまで確実に無力化できるとは限らない。施設内に複数の建物がある以上、狙う場所を誤れば、目的を果たせないまま民家だけが被害を受ける可能性もある。
それに、砲撃によって生じる被害は着弾地点だけで完結しない。
飛散する破片、倒壊する建物、火災。施設の内部に何がどれだけ保管されているのかも、俺たちは知らない。
それでも、砲撃を選ぶこと自体は間違いではなかった。
ブラックソーンの運用を止めなければ、前線で失われる命は増え続ける。目の前の民間人を守るために時間をかけ、その間に別の場所で味方の兵士が死んでいくのなら、どこまでを許容するべきなのか。
答えは簡単には出ない。
「……分隊長。俺たちがやるべきことは、ブラックソーンを破壊することですよね」
カイルが口を開いた。
「ああ」
「なら、施設の内部を確認してからでも遅くないと思います」
「…具体的には?」
「潜入です。保管場所を特定できれば、施設全体を砲撃する必要もなくなるかもしれません」
俺はカイルを見た。
言い出すことは予想していた。むしろ、何も言わずに砲撃を受け入れるようなら、そちらのほうが意外だっただろう。
「敵兵に見つからず、施設の内部へ入る。保管場所を調べ、そこから戻ってくる。そういうことだな」
「はい」
「簡単に言ってくれる…」
思わず声が低くなった。
「潜入の経験は?」
「ありません」
「敵地で変装した経験は?」
「ありません」
「施設の内部構造もわからない。敵の警備体制もわからない。どこに何が保管されているのかもわからない。……それでも行くつもりか」
「はい」
返事に迷いはなかった。
俺は額を押さえたくなった。
こいつは自分が何を言っているのかわかっている。わかっているからこそ、厄介だった。
「カイル。お前が危険を承知で動こうとしていることはわかる。だが、任務のために命を捨てることと、任務を成功させるために危険を引き受けることは違う」
「……はい」
「死ぬ覚悟があるからといって、成功するわけじゃない」
「それも、わかっています」
カイルは一度だけ視線を落とした。
「俺だって、死にたくありません」
静かな声だった。
「でも、全員で潜入して、誰も帰れなくなるわけにはいきません。施設の破壊に失敗するわけにもいきません。……それなら、俺一人で試させてください」
様子を見ていたルーカスが小さく息を吐いた。
「カイル…お前、自分一人なら失敗してもいいって考えてないか?」
「そういうわけじゃありません」
「なら、どういうわけだよ」
「成功する可能性があるなら、まず俺一人で試したいんです。俺が失敗したとしても、分隊の全員が巻き込まれるよりはいい」
ルーカスは何か言いかけて、結局、口を閉じた。
いつもの軽口が出てこない。
テオもまた、反論しなかった。
二人とも、カイルの言いたいことはわかっているのだろう。俺たち全員が同じことを考えていた。
民間人を犠牲にしたくない。
それでも、作戦を失敗させるわけにはいかない。
だからといって、何の確証もない潜入に部下を送り出すのは、分隊長として簡単に認められることではなかった。
「……分隊長」
テオが慎重に言葉を選んだ。
「潜入を試みるのであれば、時間を区切るべきです。いつまでも情報を集めているわけにはいきません。前線の状況を考えれば、ここで足止めされる時間も限られています」
「わかっている」
現状を再確認するための言葉だ。まだなにか言いたいことがあるのだろう。
「……ただ、俺はカイルの案に反対というわけではありません。砲撃による被害を避けられる可能性があるなら、試す価値はあると思います」
ルーカスも頷いた。
「俺も同じです。もっとも、潜入するなら準備は必要でしょう。敵の制服もなければ、施設の中でどう振る舞うかも決まっていない。勢いだけで行かせるのは、さすがに無理があります」
「…そうだな」
俺は再び施設へ目を向けた。
兵士たちは一定の間隔で巡回している。正門では車両の出入りが確認され、通用門では何人かの兵士が交代を繰り返していた。
警備に隙がないわけではない。ただ、その隙を潜入に利用できるものなのかは、まだ測りかねていた。
ここで必要なのは、勇気ではない。判断材料だ。
「カイル」
「はい」
「ヒントを探すんだ」
小さな子どもに勉強を教えるように手ほどきする。
カイルに追わせながら、施設の外周をゆっくりと見ていく。
正門、通用門、倉庫の裏手。兵士の立ち位置と、車両の動線。出入りする人員の服装には、わずかな違いがある。施設の管理を担当する兵士と、物資の搬入に従事する兵士では装備も異なっていた。
そして、通用門から出てきた一人の兵士が、ほかの者たちとは違う方向へ歩いていくのが見えた。
倉庫の陰に入る。しばらくして、男は何事もなかったように戻ってきた。
俺は双眼鏡を下ろした。
「カイル。今の兵士を見て、何に気づいた?」
「……施設から離れた場所へ、一人で移動していました」
「ほかには?」
カイルは再び双眼鏡を覗いた。
しばらく観察してから、口を開く。
「通用門の警備兵は、あの男が出入りしても特に反応していません。顔を知っているのかもしれません。それと、倉庫の陰に入ってから戻るまで、ほかの兵士が追いかける様子もありませんでした」
「そうだな」
「ただ、あれだけで警備が手薄だとは判断できません。単に、あの男が外に出ることを許可されているだけかもしれません」
「そのとおりだ」
見えたものだけで判断を下すな。見えなかったものまで、都合よく存在しないことにするな。
軍に入ったばかりの頃、俺も上官から何度も言われたことだった。
カイルはまだ若い。経験も足りない。だが、少なくとも今の返答には、以前よりも確かな慎重さがあった。
「引き続き観察しろ。あの男の行動を追うだけじゃない。ほかの兵士の反応も見るんだ」
「了解しました」
カイルは双眼鏡を構え直した。
その横顔を見ながら、俺は小さく息を吐いた。
できれば、このまま偵察だけで済ませたい。
だが、そんな都合のいい展開を期待できるほど、状況は甘くなかった。
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