帰還 2
第二階層最初の街ラペン。
そのラペンの街に隣接し建つ、厳つく如何にも頑丈な作りをした建物は中学校。
その学校のさらに奥まった場所には森がある。
今、その森は色々と手を加えられ、小さいながらも林あり湖ありの即席試合会場数個分へと形を変えていた。
会場の周りには、それぞれの会場を囲み見下ろす形の球場のような客席も用意されている。
そんな客席の最前列で、貧乏揺すりを激しくさせながらミトが舌打ちした。
「一体何なんだよこの状況はっ!」
貧乏揺すり以上にイライラした声でがなる。
「ミトさん、ちょっとその貧乏揺すり止めてもらえません? こっちまでイライラしてしまいますわ」
隣で座るリカも、頬をミトの貧乏揺すりと同等に激しくヒクつかせ、胸前で組んでいる腕の人差し指が、先程からとんとんと二の腕を叩いている。
「落ち着いてよ二人とも。二人の気持ちも分かるけど、これも一応授業の一環なんだから」
「そ、そうだよ、ミトも落ち着いて」
ロンシャンとエルファスが、熱を発するほど苛立たしさを爆発させている二人をなんとか窘める。
四人が見ているのは一つの試合だった。
正確には、見ているのは四人だけではなく、その家族である雪目や水音、リゼットやラーナ、さらにベンジャミン達もいた。
その場にいる全員が、ミトやリカほどではないにしろ、見るのを敬遠するように眉を顰め、痛々しげに目を背けている。
全員が見下ろしている試合では、両腕を大きく長い岩の腕へと変えた一人の女性が、向かって来る三人の獣人化した女性を相手に防戦一方で押し込まれている、そんな試合だった。
攻め立てる三人は、実に愉快げに攻撃を楽しんでいる。
まるで、こうなることが分かっていたかのように。
対し、防御している女性はなんとかその攻撃を凌いでいるが、防御している両腕、岩と化した腕部分が徐々にではあるが削られていっている。
「一体どうしてこんな授業を作ったんだよっ!」
あまりのやり切れなさにミトがさらにがなる。
「それは……、僕達がドラゴンを倒してしまったから……」
悲痛な気持ちを押し殺したような声で、ロンシャンが答える。
そう、ミト達が必死になりやっとのことで倒したドラゴン。それがこんな状況を作ってしまったとも言えるのだ。
今までは、砦から外部を守るために戦力を外へと向けていたが、今やその外部の警戒すべき相手でもあったゴブリンとオーク、二種族とのいざこざがなくなり、結果警戒態勢に必要な人数が大幅に減ってしまったがため、余った時間の新しい授業の一つとして、この対抗戦が作られたのだ。
「この授業が始まって四ヶ月。月に一度の授業とはいえ、ほんっっとこのイヨリさんの戦いだけは全然公平には見えないぜ……」
一方的に攻撃を受けているだけのイヨリを見つつ、ミトは唇を噛む。
「せめて、あーちゃんさんだけでも一緒に戦えれば、まだもう少しまともな勝負になりますのに」
隣に座るリカが苛立ちを込めた口調で呟く。
「そうだけどよ、それだってイヨリさんが危ないからって……」
「分かっていますわ。あーちゃんさんは攻撃の戦力としては、かなりのものをお持ちですが、まだ防御に関しては甘い。もし戦いに参加して三対二の形になれば、イヨリさんもフォローにまわれないかも知れない、だからマスターであるミリアさんと同じ安全ゾーンで待機させているってことぐらいは!」
リカの吐き捨てるような言い方。
ミトやリカ達が見下ろすフィールドには二箇所、戦いのフィールドになりやすい草原ゾーンの対面の場所に安全ゾーンと定められている場所がある。
そこには通常マスターが入る。
戦闘のための授業とはいえ、マスターが攻撃を受けるのはさすがに危険と判断されているため、用意された場所だ。
その一つ、ミト達から見て一番手前にあるゾーンにマスターであるミリアとあ―ちゃんはいる。
二人は手を繋ぎながら立っている。
ミトから見れば背を向けた格好のため表情は見えないが、きっとミトやリカ以上に歯がゆく悔しげに、それこそ唇から血を滲ませるほど唇噛んで、それでも一方的に攻撃されているイヨリから目を逸らさずにじっと見ているに違いなかった。
「チックショー、ほんとなんなんだよこれはっ!」
そんな姿を見て、余計に苛立ちが増す。
「もう一人、ですわ。ちゃんとあと一人いれば、少なくとも普通の戦いになっていますわ」
「おいっリカ!」
それは無意識なのか、或いは故意なのか判断がつかないリカの言葉だった。
ライバルであるイヨリが一方的にやられている状況の中で、つい出てしまったある男への恨みの言葉。
それはミト達の中でタブーだった。
その男が今、どこで、何をして、どうなっているのかすら誰も分からない。
ミト達にとって、それを口にすること自体が、誰ともなくタブーになったのだ。
生きている、とミリアは言った。
しかし、生きているのならなぜ連絡を一切よこさないのか、そして生きているのなら、なぜ戻って来ないのか、会えば、聞きたいこと話したいことが一杯ある。
ただ、それよりもまずは生きていてほしいと、ミトは願っていた。
マスターであるミリアは、まだ『召喚せし者』であるマスターと『召喚されし者』とで繋がる絆、赤い糸はあると言っていた。
それはその男がまだ生きているということでもある。
しかし、一年経っても音沙汰をよこさない。
そしてそもそも、その絆である赤い糸は、マスターであるミリアにしか見えていないもの。
――つまり、ミリアが嘘をついている可能性も……。
そこまで考えて、ミトはハッとなり頭を激しく振った。
それ以上は考えない。ミリアは絶対嘘をつかない。
そう自分自身に言い聞かせる。
「もう、どっちでもいいですわ。とりあえずあの人との契約を破棄して、新しい者を喚ぶべきですわ」
自分の中の葛藤を押さえることに成功しかけていたミトの耳に、リカの呟き。
「おいっっ!」
ミトがリカの胸ぐらを掴む。
「なんですの?」
いつものような目力のないリカと視線が交差する。
言ってしまったが、言い切ったほど自分の心が思っていないのだろう。
「くそっ!」
言ったリカの気持ちも分かってしまうミトは、リカにと言うよりは同じようにやり切れない自分に対して吐き捨てるように罵倒し、胸ぐらを放した。
ミトとリカ、二人が言い合いをしている間にも戦いは進んでいく。
防御するイヨリの岩の両腕が、そして多重で攻め立ててくる攻撃のためか、イヨリの両足が徐々に折れていく。
「くそっ‼」
どうしてもやり切れないミトの口から、もう一度罵倒の言葉が出た。
――おいおい、女の子がそんな言葉を吐くなよな。
「え?」
一瞬だった。
風に乗って流れてきた幻のような音。
しかしミトは、その音を知っていた。
待っていた。
しかし、信じられなかった。
だから隣のリカを見た。
ミト以上に間抜けで呆けた顔をしていた。
「今のって……声……か?」
それでも、自分の耳の方が信じられず、つい問いてしまう。
「ええ、聞こえましたわ。私もまだ寝ぼけているのかしら?」
きっと同じような顔だろう、ぽかーんとしたリカの顔。
「あれです!」
叫ぶロンシャンの指差す方向。
それは、試合を見ている下方向ではなく、上側。
試合会場を包む客席の最上段と同じか、それよりも高い位置に存在した。
晴れ渡る夏の昼間。
太陽が眩しく、ミトは手で日光を遮る。
細めた視線の先に、光の輪郭を纏った影が見える。
「あれは…人か?」
ミトが呟く、
「みたいですわね」
「結構重そうな鎧を着ているようだけど……」
「あの大きいのは剣かな?」
同じような格好で見上げている、リカとロンシャンとエルファスがそれぞれに口にする。
四人が、いや、会場の半数が見上げている中、ソレはピタリと止まり、今度はスッと真下に降りていった。
ミリアとあーちゃんがいる安全ゾーンに向かって。
※※※※※※※※
ミリアは勉強が大っ嫌いだ。
教室での授業は、退屈で全然楽しくない。
でも、体育の授業は好きだ。
体を動かし、外で遊ぶのは面白い。
一番嫌いだった魔法の授業は、最近あまり嫌いではない。
自分が特殊で普通の子と魔法の扱い方が違うと分かったから。
そしてそのことを知っているから、友達であるロンシャンがどうしたらいいのかなどを教えてくれるからだ。
だが、そんなミリアが今年には入ってから、一番嫌いな授業が変わった。
もちろん、教室の授業が好きになったわけではない。
決して、きっと、絶対、今後も、室内の本を開いてする授業が好きになることはないと自負出来るほどに。
だが、そんな退屈でつまらない授業を受けてもいいと心の底から思えるほど、この月に一度の家族戦の授業は大をいくつ付けても追いつかないほど大嫌いだった。
本当は参加なんかしたくない。
させたくない。
もし、自分が伝えなければ参加しないで済むというのなら、絶対にこの授業のことをイヨリには伝えない。
例えそれで、イヨリのものすごく痛い、岩のような拳のゲンコツをもらったとしても。
それほどこの授業が嫌いだった。
試合になれば、どうなるか分かってるから。
大好きなイヨリが、一方的に殴られるから。
隣で立つあーちゃんの手が目一杯ミリアの手を握ってくる。
そこから伝わってくる、自分と同じぐらい悔しく、そして嫌だと。
本当は、あーちゃんも駆けだして行きたいんだと思う。
それは自分も一緒だから。
きっと、イヨリの前に立って、イヨリを殴っている奴をぼこぼこに殴りたいと思っていることだろう。
自分もそうだから。
でも、それは出来ない。
約束したから、イヨリと。
この授業では、一人で戦うと。
どうなろうと、絶対に参加はしてはいけないと。
念を押されていたから。
もし、あーちゃんが参加出来る条件があるとしたら、きっとそれはもう一人の大切な家族が帰ってきたらだろう。
この一年、一切の音沙汰をよこしてこない家族が……。
その名を口にしたい。
しかし出来ない。
目の前の状況を自分が打破出来ないことに唇を噛む。
悔しい。
目に涙がにじむ。
腹の底にチカラを入れていないと、そして強く唇を噛んでいないと、叫びだしそうになる。
試合が始まってから、ずっと隣のあーちゃんの顔を見ていない。
でも、う~~っと唸る声だけは途切れることがない。
きっと試合が終わり、イヨリの元へ行ったとき、あーちゃんの手を握ってない方の親指の先は血が出ていることだろう。
そうやってあーちゃんも耐えているんだ。
ここ三戦と一緒、ただ一方的に攻撃を受け、徐々に膝が折れていくイヨリを見つめる。
早く終われと、何度も願う。
でも、イヨリは最後まで絶対に我慢する。
自分がすぐ降参するで、家族であるミリアやあーちゃんが弱く情けないと思わないようにと。
そんなこと全然思われてもいいのにと言ってるのに。
でも、イヨリはそれでも最後まで、意識が切れるまでいつも耐えてくる。
今日も、そうしてずっと耐えてきている。
それがどんな退屈な授業より長くゆっくりとミリアの目に映っている。
もう倒れて終わりにして、何度も心で念い、喉まで出かかる。
でも、それを唇を噛んで、腹にチカラを入れて堪える。
言っちゃいけないと。
それは、一番辛いイヨリの念いを裏切ることだと、分かっているから。
腹筋が痙攣し始める。
クッと、ギリギリで押さえている喉から声が漏れる。
より強く、隣のあ―ちゃんが手を握ってくる。
目に溜まっていた雫が、堪えられずに頬を伝う。
鼻が、ツーンして詰まる。
ずずずっと啜り上げる。
隣でも同じように、ずずずっと啜り上がった。
叫ばないように、口を塞いでいるせいか、溜まっていた空気を吐き出すと、ズビッと鼻から大量の水がでた。
もう限界だと鼻を啜ったとき、ふわりと太陽の光が隠れた。
っと、
後ろに誰かが立つ気配がした。
え? と一瞬で頭が真っ白になった。
すぐに、ぽんっと優しく頭を撫でられた。
そして、
「一杯待たせて済まなかったな、二人共」
優しい、ずっと聞きたかった声。
あっと声が漏れる。
だけど、それは無意識に近い声。
実際はまだ、頭が、心が、感情が、戸惑い、動けずにいる。
そうしている間に、後ろの人物が動いた。
「とりあえず俺、行かないとな」
そう言った声の主の気配がぐっと沈み込んだ。
「あ、悪ぃミリア。俺にも範囲強化頼む」
言った直後、声の主は一気に前に飛んでいった。
心地よい風を靡かせて。
※※※※※※※※
イヨリは必死に耐えていた。
止まることなく襲い来る攻撃の数々に。
そして、折れそうになる自分の心を。
自分は弱くなった。
そう自覚出来る。
あの人に出会う前なら、これぐらいのこときっと一人で何とかしてやると思えたはずだった。
……なのに今は、必死に耐えようとしている自分はいる。でも、心のどこかで諦めようとしている自分もいる。
自分ではもうダメだ、と。
どうして自分がこんな苦しいときに、あの人は側に居てくれないのだ、と。
そう考えてしまう弱い自分をなんとか吹き飛ばそうとするも、全然吹き飛んでいってくれない。むしろ膨らんで、大きくなって、のし掛かってくる。
攻撃を受けるたびにそれがくり返される。
痛い。
辛い。
恐い。
そして、
寂しい。
そんな情けない感情ばかりだ。ミリアに喚ばれ、二人で居たときならきっと感じもしなかった感情。
でも今は、ミリアが居ても、あ―ちゃんが居ても、そう感じてしまう。
それほどまで、自分の中の彼の存在は大きくなり過ぎていた。
殴られることでのダメージ以上に、自分の心の中の負の重さがイヨリの足を重くさせる。
もう、押し返す気力もない。
このまま早く終わらせたいと、考えてしまう。
そんなにあっさりと負けるのはダメだ、と別の自分がムチを打つ。
しかし、そんな正しいはずのムチ打つ自分より、情けない自分が勝ってしまう。
ジワジワと折れていく膝に、あがなえない。
倒そうとする気持ちなぞ、とうに沸き起こらない。
ただ、今耐えているのは、自分があまりにも情けなくあっさり終わっては、ミリアやあーちゃんに悪いと言う気持ちだけ。
それ以外にある気持ちなぞ、ただ情けなく、ただ弱く、ただ甘えたい自分だけ。
その葛藤が、イヨリを今ここまで支えていた。
でも、それももう限界だった。
ぽろりと何かが落ちた。
分からなかった。
自分が何を落としたのか。
自分から何が落ちたのか。
気付くまえに、視界が一気に歪んだ。
ああ、私泣いてるんだ……。
そう自覚したとき、膝は地面に突いていた。
ガードのため上げていた自身の岩の両腕が、今まで感じたことのないほど重くのし掛かる。
嗚咽が漏れる。
その都度、上げているはずの両腕が下がっていく。
今まで、自分を奮い立たせるために動いていた口が動かない。
代わりに、自分が一気に崩れ落ちそうな言葉を発しようとして動いている。
言っちゃダメだ、と何度も心で自分を叱咤する。
でも止まらない。
止められない。
………………ん。
ついに、声が漏れた。
一度出てしまえば、後は早かった。
…………タさん。
もうダメだった。
残っていた両腕からチカラが抜け、地面に落ちた。
……ジンタさん
口から溢れた瞬間、最後の砦であった持ち上げていた頭が下へと垂れた。
う……ぐ……
情けない自分の嗚咽が耳を突く。
もう、チカラが出なかった、動く気力もなかった。
もう一度嗚咽が口を付いたとき、おかしさに気付いた。
攻撃が、来ない……?
あれほど自分に向かい振り下ろされていたはずの攻撃がぴたりと止まっている。
……なぜ?
そう思ったとき、自分の内に向かっていた意識が、少しだけ外へと向いた。
…………………………………………リ?
何かが聞こえた。
諦め、止まっていた頭がゆっくりと少しだけ働き出す。
…………丈夫か?
やっぱり。
何かが聞こえる。
聞き覚えのある声。
懐かしい声。
ずっと待っていた声。
そこまで頭が働き出すと、意識が一気に外へと覚醒した。
「おい、大丈夫かイヨリ?」
ドキリと、意識が、心臓が、体が、跳ねた。
情けなく垂れた頭の上からの声。
恐かった。
聞き間違いならどうしようと。
でも、期待もあった。
きっとそうだ、と。
張り裂けそうなほど鼓動が早くなる。
期待と不安、安らぎと恐怖が交互に頭を過ぎる。
地面に付いた自身の岩の手が、震えながら土を掴む。
自分では確認出来そうもないから待った。
もう一度、幻聴でも良いから聞こえるのを。
「お、おい、イヨリ? ほんと大丈夫か?」
辛そうで、そして心配している声。
もう違うとは思わなかった。
一度だけ深呼吸して、頭を一気に振り上げた。
そこには、ずっと待っていた顔が見えた。
「…………あ」
嬉しさのあまり声が漏れる。
ずっと、顔を見ていようとするが、溢れる涙がそれを邪魔する。
ずっとこうしていたかったが、見ているジンタの顔が少し辛そうに歪む。
どうしたんだろうと、首を傾げると、
「……えっとイヨリ」
「はい!」
嬉しさが込み上げ、元気に返事をした。
「う、うん、なんだな、そう嬉しそうにしてくれるのはいいんだけど、えっと立てる? ってか、まだ戦える?」
ジンタの歪んだ顔が徐々に赤くなっていく。
そして、その顔が徐々に近づいてくる。
「え? 戦う?」
顔が近づいてくるが嬉しく、つい笑みを返しつつ、考えながらと言うよりは無意識に同じ言葉を繰り返して、尋ねた。
「いや、だから、さ。今って戦闘中、だろ?」
近づくジンタの顔が苦しそうに歯を食い縛り始めた。
「え? 戦闘――――」
満面の笑みで、そこまで口にして気付いた。
今が、授業の一環である家族戦の最中なのだと。
ハッとなり、ジンタの顔だけに狭められていた意識を広げる。
鈍色の重そうな鎧を纏ったジンタ。
その前面には、盾なのか、剣なのか、分からないほど大きな何かを、逆手に持ち、地面へと突き刺していた。
そのさらに前面には、ムキになった顔で、必死にジンタの持つ盾だか剣だかを攻撃している三人組がいた。
「だ、大丈夫ですか!」
状況が飲み込め、叫ぶようにイヨリがジンタを見る。
「も、もう限界かも……」
真っ赤になった顔でヒクついた笑みを浮かべながら、ジンタが答えた。
「す、すぐ行きますっ!」
さっきまで、まったく動こうとしなかった足がうそのように動いた。
立ち上がり、腕を持ち上げて、気付く。
――――これじゃない
と。
目を閉じ、大きく息を吸って、腹に力を込める。
岩の腕を握り、胸の中心に意識を向ける。
暖かく、力強い風が集まり両腕に流れた。
目を開けたとき、イヨリの両腕は、ジンタの鈍色の鎧同様の鉄の腕へと変わっていた。
――これが、今の私です!
そう心の中で叫び、イヨリは腕を、ジンタの持つ剣だか盾だかに分からない物体に押し付け、一緒に押し返した。
※※※※※※※※
「やれやれ、間に合ったようで何よりだ」
「しかし……、一年もこの私が教えてあの様とは……ほんとに情けない」
観戦席の最上段で立ち見しているマリーとシリルが、試合場を見下ろしながら、それぞれに口にした。
「しかし久々に第二階層に来たが、まさかここまで変わっていようとはな」
「本当に、こんな設備を作るとは、さすがですね」
二人は横に目を向ける。
そこに、白衣を着て金髪の髪をアップにした胸の大いに残念な女性がいた。
「まったく、いきなり『天翔る橋』を使うと連絡をしてきて、大慌てで準備させて来たと思えば、まさか行方不明だった彼を連れてくるとは……」
保健医は首を振ってから、メガネを押し上げた。
「ふむ、あなたのあそこまで驚いた顔を見られただけで、私は今回の件、十分有意義だったと思っていますよ」
「やれやれ」
くっくっくっと喉の奥で笑うマリーに保健医は再度首を振る。
「しかし、一応どうして彼が君のところにいたのかぐらい、ちゃんと教えてくれるのだろうな?」
「それはもう――――と言っても、本人でさえどうしてなのかまったく分かっていないようでしたが……」
「そうなのか?」
「ええ、この第二階層から、私達のいたあの階層までを一体どうやって移動したのか……。それが分かるぐらいなら、あいつは私やあなたよりもっとこの世界の真実を知っていると言うことですから」
「確かに、な」
保健医とマリーがそれぞれに納得し合っていると、
「マリー様、それよりも報告の件はよろしいので?」
二人より、さらに集中してジンタ達の試合を見ていたシリルが言った。
「ああ、それか。一応注意だけはしておかないとダメかな」
「む? 私が一生懸命に考えた報告も、彼がそっちにいたんじゃすべて筒抜けか……」
「そうですね、何も知らなければきっと今年の上がってきた優秀な若木達に大はしゃぎしていたでしょうけど、まあ……、あなたがよこした報告書を読むより先に、この階層で起きた事の真相を知ってしまっていましたから」
「それは残念だ、とまずは言っておこうか。しかし、あの報告通り、今年の卒業生達も十分過去の卒業生達に比べれば高評価出来ると私は思っているが?」
「そうでしょうね。ゴブリンやオークとの全面対決、倒した、とは言い難くもドラゴンとの戦闘も経験しているとなれば、評価も経験も今まで以上にあるでしょう。しかし、それはそれ。一個人、一家族単位での話ですから。本質的に組織単位で底上げが出来る存在。その存在が今我々の陣営にいると言うのを知ってしまうと、それだって些細なことになってしまう……」
「まあ、そうだな。あれは別格だ。間近で見ていた私だって思ってしまうさ。私が現役だったときに、彼女が現れてくれてれば……、と」
試合場を見下ろしている表情は変わらない、しかし、声音に小さいながらも悲しみを乗せて保健医が呟く。
「その心中はお察しします。きっと私がもしあなたと同じ立場なら、まったく同じことを考えると思います」
そこまで言ったマリーは、一度言葉を切った。
それから少し考え、躊躇いがちに口を開いた。
「あの……。あなたはもうこっちに戻る気はないんですか?」
問い掛けに、数秒の沈黙が流れた。
保健医は白衣のポケットに手を突っ込んだまま、身じろぎ一つせずに試合を見ながらぽつりと答えた。
「…………私は、これ以上家族を増やすつもりも失うつもりもないのでね」
「そう……ですか……」
それだけで十分だった。
「さて、そろそろ試合が終わりそうだな」
保健医が右手を持ち上げメガネを押し上げる。
「まったく、あいつはあんな相手に何を手間取っているんだ。あんなの数秒で倒せるぐらいに稽古を付けてやったというのに」
納得いかない様な言動をしつつも、頬が幾分弛んでいるシリル。
「ダブル強化魔法。一度私も経験してみたいけどな。味わうときっとすぐに連れて行きたくなっちゃいそうなんでそれはあいつらがこっちに来てからのお楽しみにしておきましょうか」
「そうか。私はすぐに連れて行くと言われると思って、色々と止める為の言葉を考えていたんだが……」
「その気なら、彼が私の元にいた段階で呼び出してますよ」
「ふむ……。そう言われればそうだな」
「さて、帰る前に、お土産、でもありませんかね?」
マリーが保健医にいたずらな笑みを向ける。
「なんせこのまま手ぶらで帰ったら、私はともかくシリルがアリスに、最低でも半殺し決定なんですよ」
「ちょ! 俺の責任にする気ですか!」
さすがにそれにはシリルが引き攣った。
「だ~か~ら~。少しでもアリスの溜飲を下げるためのお土産を。そうねえ、例えば竜の鱗とか、骨とか~~」
ちらり、とまたマリーが保健医を見る。
「む……。まあ次にいくらか送る予定もしていたが……」
「あ! 出来れば牙も良いかしら?」
「ふぅ~~。まあ、持てるだけ持って行くがいいよ」
「わ~~い」
頭を掻く保健医に対し、マリーは両手を上げて喜びを表現した。
「さって、じゃあ試合も終わったし、最後に……」
ぱんっと両手を合わせたマリーは、試合を終え家族達に抱き付かれているジンタを見て、目を細める。
「シリル、あんた今ここで少し殺気を放ちなさい」
さっきまでのきゃぴきゃぴした声音とは違う、真面目で威圧的な言葉。
「ここで、ですか?」
さすがにシリルも躊躇う。
「そうよ。そうね全力だとさすがにあれよね、一瞬しかも肌を撫で切る程度にぐらいで」
静かだが、断ることを許さないマリーの言い方。
「おいおい、私の生徒達を試すも程々にしてくれないか?」
「すいません。でも知っておきたいんですよ。これでも私も色々と調べましたんですよ。第一階層でのトレントの件、そしてこの第二階層での戦いすべてに関わっているだろう、この世代の力量とセンスと反応を」
「むぅ……」
そう言われてしまい、保健医も口をつぐんだ。
「では、とりあえずやってみます」
シリルは、やれやれと頬を掻いてから小さく息を吸い、ふっと腹に力を込め殺気を放った、ジンタへ向けて。
殺気を受けたジンタは当然それに反応し、即座にシリルへと鋭い視線を向けた。
ほぼ同時に、ジンタの元に集まっていたイヨリ、あーちゃん、ミリアもシリルへと構えを取った。
殺気をジンタに向け放ったが、その手のモノは以外と会場全体にも伝播し広がるものだ。
そしてその広がった殺気は最前列に座っていたミトとリカ達にも伝った。
二人は即座にそれぞれのマスターであるエルファスとロンシャンを庇い、最上段のシリルを睨んだ。
ほぼ同時に、リゼットがロンシャンの後ろに隠れ、ラーナ、雪目、水音が動く。
同じタイミングで松梅竹もベンジャミンを庇っていた。
そして、それ以外にも数組ほどが完璧ではないにしろ、殺気に反応を示した。
「ふむ、まあ上出来ね」
満足そうにマリーが頷く、
「そうですね、戦いに慣れている者が多いようですね」
シリルも同感だと言うように頷いた。
「あらシリル。てっきり今の殺気に対して、反応が一割にも満たないことに不満を言うかと思ったんだけど?」
「そうですね、もしここにいる者が私のいる階層に居る者達ならば、私も憤慨しお仕置きと致しますが、この第二階層、しかもまだ数年の猶予がある若い芽達となれば、一割近くも反応出来たことを喜ぶべきかと思います」
「その通りね」
シリルの言葉に、合格とばかりに頷いて見せるマリー。
「さて、あまりここで君達の姿を見せるのは勘弁願いたいものでね。そろそろ移動してもいいかな?」
「そうですね。お願いします」
保健医がやれやれと促し、マリーとシリルはそれに続いて歩き出した。




