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ナレソメ  作者: kaoru
9人目の男
80/80

解決





「蓮吾!蓮吾いるんだろ!ちょっと来い!」

「待って!待って閏!……待ってってば!」


 タクシーをぶっ飛ばして帰宅した閏は、屋根が震えるような大声で怒鳴りながら、次男を捜して家中を歩き回った。

 居間と台所をのぞき、続いて奥の風呂場とトイレ、2階に上がって手前からすべての部屋のふすまを開けた後、再び1階に戻って縁側に続く掃き出し窓をパン!と開け放つ。


 蓮吾は日も落ちかけた前庭で、遊び足りない末っ子の相手をつとめていた。


 あわわ、まずい……


 青子は閏の背後から、逃げろ!逃げろ!と合図を送ってみたが、蓮吾は動かなかった。門扉を入ってきたときから気付いていたはずだから、覚悟はできているということだろう。


 雷神様ご降臨の気配を察知した恵と律と強が、暗雲立ち込める居間から迅速に退避した。しょうじの影から三色団子みたいに首だけ出して様子をうかがう。


「うるくーん!」


 閏は空気を読まずに足にまとい付いた都を雑に退かし、縁側の一段高いところから、居丈高に命じた。「どういうことか説明しろ」


「…………」

「学校に内緒でアルバイトなんて、変だと思ったんだ……」


 閏ははあと大げさな溜息を吐いた後、縁側に膝を付いて、うつむく弟の顔をのぞき込んだ。


「あのなあレン……お兄ちゃんはなにも恋愛がいけないって言ってるんじゃないんだ。女の子に興味が出てくる年ごろだし、病気のこともあるから、お前がそういう気持ちになってくれたなら本当に良かったと思う。安心した」

「…………」

「お前が悪いことしたなんて思ってないよ。乱暴されたっていうのも、相手の子の勘違いなんだろうさ。けどお前にだって少しは悪いところがあったんじゃないか?期待させるようなことを言ったとか、不用意に親切にしたとか……」


 地蔵のように静聴していた蓮吾がぴくりと反応して、閏はやっぱり……と眉間を揉んだ。


「いつも言ってるだろう?隙を作るなって。他人に足を引っぱられないようにしろって。中途半端な優しさは、結局相手を傷つける結果になるんだ。嫌な時は嫌だって、はっきり断らなきゃ。お前はだいたいが甘過ぎるんだよ」


 長兄の口調が熱を帯びるのと比例して、蓮吾の表情が青ざめる。


「ちょっと、そんな言い方……」


 見かねた青子が口を挟むと、閏は強い口調で一蹴した。「青子は黙っててくれ」


「自分の外見が特別なんだって、もっと自覚しなきゃ。相手の女の子……瀬良さんだっけ?本当にお前の恋人にふさわしい人なのか?また利用されてるだけじゃないのか?1年生の時にもずいぶん悲しい思いをしたろ?裏切られて泣くのはいつもお前だ。お兄ちゃんお前のために言ってるんだぞ」

「利用なんて……春奈ちゃん、そんな子じゃないと思う。蓮吾のこと大好きなんだよ。女の子の真剣な気持ち、そんな風に言うの良くないよ。ねぇうる、お願いだからちゃんと両方の話を……」

「……黙っててくれって言っただろ。これは俺たち家族の問題だ。あんたには関係ない」


 ぷっ……つん。


「前にも言った通り、学生の本分は勉強だ。背伸びしたい気持ちはわかるけど、無理にまわりに合わせることないよ。あせって相手を決めなくても、世の中には女なんていくらでもいるんだから。もっと人を見る目を養ってからでも遅くないと思うな」

「…………」

「学校にも相手の親にも俺が話を付けるから、お前は何もしなくていいよ。騒ぎが収まるまで、学校はしばらく休みなさい。辛いならまた転校したってかまわないんだ。お兄ちゃん、お前を傷つけるやつは絶対に許さない。とりあえず弁護士に連絡して、これから一緒に病院に……!!?」


 横顔に殺気を感じて振り向けば、はだしのまま庭に下りた青子が閻魔顔でビニールホースをかまえている。親指と人差し指で潰した先端を己の鼻面に向けて……


「強っ!!」

「おいよぉ!」


 親分の号令で、手下が水道の蛇口を思いっきりひねる。


「あっ、あちょっ……止めっ……止めろってば!」


 青子の怒りを表出したような凄まじい水勢で、閏は縁側の端まで追いつめられ、ついには無様に転がり落ちた。


「っ……いきなりなにするんだっ!!」

「蓮吾!あんた2階行って荷物まとめてきな。学校の道具もぜんぶ持ってくのよ」


 青子はびしょ濡れで尻もちをつく閏の抗議を無視し、ぽかんとする蓮吾に指示した。


「蓮吾はしばらくうちで預かります」

「は、はー?」

「蓮吾もいいね。ほら、さっさと準備する!」


 「は、はいっ」蓮吾が大慌てで2階へあがって行き、青子も後に続く。


「待て。待てよ、おい青子」

「アオコアオコと気安く呼ばないでちょうだい」

「な……なに怒ってるんだよ?関係ないって言ったことか?だってそれは……なあ待てって!」


 尻にまとい付く閏を無視し、戸惑う蓮吾の手を引いてさっさと雨霧家を出た。「どうもお邪魔しました!」


「アオちゃん、行っちゃったね」

「…………」

「よるゴハンまでに帰ってくる?」

「……えっくちゅん!」




 怒り心頭に発した青子が冷静な思考を取り戻したのは、宮木家に到着して玄関を上がった時だった。扉がガチャリと閉まった音で我に返った青子は、きつく握りしめていた蓮吾の手を慌てて解放した。


「ごめんね、痛かったでしょ?」

「ん……平気」


 言葉少なに答える蓮吾の頬は赤らみ、瞳はかすかに涙を湛えている。やっぱりそうとう痛かったみたい……反省。


「俺の方こそ、ごめん……俺のせいで、兄貴と喧嘩……」

「え?……あ、いいのいいの。べつに」


 さんざん振り回されたあげくに関係ない呼ばわりされた青子は、ぞんざいな調子で答えた。


―――1度や2度の裏切りで、俺が本気で怒ると思った?


 耳の奥に捻くれ者の恋人のセリフがよみがえってむかむかする。二股かけといてどの口が言うのか。


―――もっと平凡な男がよくなった?


(不本意ながら出会ったときからあんた一筋よ)


―――恋愛ごっこができれば、相手は誰だっていいんだ。


(そう思うならあんたなんかと付き合ってない)


―――また利用されてるだけじゃないのか?


彼女わたしを利用してるのはあんたの方でしょうが―――っ!!)


 だいたい隙を作るなだの、足を引っ張られるなだの、あの男は幼気な女子中学生をなんだと思っているのか。なーにが『世の中には女なんていくらでもいる』だ。今日という今日は心底愛想が尽きた。もー、知らない!


「それより蓮吾、つい勢いで連れてきちゃったけど、嫌じゃなかった?さっきはああ言ったけど、心配だったらいつでも帰っていいんだからね」

「俺、ここにいるっ……ここにいたい」

「そ?じゃあ、これからしばらくよろしくね。龍太郎の部屋を使えばいいから」

「……本当にいいの?俺、あんなことしたのに……」

「あんなことって?」


 弱い自分を浅はかな嘘で塗り固めて、バレそうになったら酷い態度で傷つけて、優しさに付け込んでくちびるまで奪った。


 苦い顔をする蓮吾に、青子は力強く微笑んで見せた。


「心配しないで。蓮吾のことは、私がぜったい守ってあげる」


 その言葉が嘘じゃないと分かるから、よけいに苦しい。本当は恋人と喧嘩して、内心すごく動揺しているくせに。


「とりあえずなんか食べよ、怒ったらお腹空いちゃった。途中でスーパー寄ってくればよかったー」


 缶詰のミートソースでパスタを作って食べ、順番で風呂に入り、眠るまでの時間を何気なく過ごした。就寝時、青子はリビングに布団を2つ並べて、蓮吾をドギマギさせた。


「なに考えてる?」


 明かりを消して横になったはいいものの、眠れるはずもなく。蓮吾は天井よりはるか遠くを見つめる青子にたずねた。


「……蓮吾のこと」


 闇の向こうから響いてきたやわらかい声に、年貢の納め時を悟る。もう逃げられない。


「聞いてもいい?」


 蓮吾が倒れたクリスマス・イブの夜、あの公園で、春奈との間になにがあったのか。


「……キスしてほしいって、言われたんだ……」

「…………」

「断ったらあいつ、急にシャツ、脱ぎだして……俺、突き飛ばした……」


 細切れのセリフに、強い葛藤と後悔がにじむ。


「兄貴が怒るの、無理ないんだ。こういうトラブル、今回がはじめてじゃなくて、何かあるたびに迷惑ばっかかけてて……俺、変なんだ。普通さ、女子の下着とか見たらラッキーって思うだろ?男なら誰だって興味持って当然、みたいな……でも俺は……」

「…………」

「……怖いんだ……触るのも触られるのも好きじゃない。女の子に告白されても、ぜんぜん心動かない。自分がおかしいってわかってるから、誰ともうまく付き合えない。いつも教室から逃げ出したい。お医者さんが言うには、小さい頃のトラウマが原因なんだって。おかしいよな。なんも覚えてないのに……」


 蓮吾は一度話を区切ると、寝返りを打って青子にたずねた。


「手……いい……?」


 お互いに手を伸ばして、布団の上でそっと握り合う。


「家族以外には話したことないし、これからも誰にも話す気ない。やっぱ気持ち悪いし、相談された相手も困っちゃうだろ。青子は特別だけど……特別だから、青子にだけはどうしても知られたくなかったんだ……かわいそうって、思われたくなかった。関係が変わっちゃうんじゃないかって思ったら、怖かった。青子の前では、俺はすごく普通だったから……」

「?……ふつうって……?」

「……こうして手を繋ぐの、うれしい……」


 噛み締めるように囁きながら、つないだ手にきゅっと力をこめる。


 未熟な精神とは裏腹に、体ばかりが大人になっていく。誰とも触れ合えない自分は、このまま恋のよろこびも切なさも知らないまま、つまらない大人になるんだと思っていた。でも……


「抱きしめてもいい……?」

「いいよ」


 布団の上で向かい合って、おずおずとパジャマの背中を抱く。腕の中にすっぽりと納まる薄い肉体、確かにやわらかな胸、くびれた腰に、甘く香るうなじ……いつもさばさば男勝りな彼女に、はじめて強く女性を感じる。


「……キス、していい……?」






 次の日……蓮吾はいつも通りの時間に目を覚ました。起き上がり、繋いだままだった彼女の手を、布団の中にしまう。


 思い人の子どものようにあどけない寝顔を見つめていると、彼女の首筋に赤い花が咲いているのを見つけた。ボタンを一番上までとめても見える位置に、見せつけるようにくっきりと付けられたキスマーク。昨夜の行為を責められているようで、蓮吾はすっと目を反らす。


 敬愛する兄を、2度も裏切った。とうとうやってしまった。いつかこうなると分かっていたから、必死で気持ちをセーブしてきたのに……


 旧約聖書の創世記によれば、人類最初の殺人は兄弟間。


 カインの不興を買ったために殺されてしまったアベルのように、自分も彼に憎まれ、別離を告げられる日がくるのだろうか。聖書には詳しく記されることのなかったアベルの狡さを、カインのひりつくようないら立ちと悲しみを思う。


 弟を殺してしまったカインは後悔したのだろうか?アベルは兄を恨んだのだろうか?


(……大丈夫……)


 この寝顔もこの唇も、自分のものじゃないって、わかってる。


 蓮吾は胸の痛みに気付かぬふりをして、何事もなかったかのように着替えを済ませ、荷物を持ってそっと宮木家を後にした。


 向かったのは、宮木家からそう遠くない場所にある高級住宅街。


 ゆっくり歩いて、街がにぎやかになる時刻には、4階建てのモダンな鉄骨住宅の前に立っていた。インターホンを鳴らしても応答がなかったため、門扉をよじ登って乗り越え、個性的なマスタード色の玄関ドアをどんどん叩いた。


「すみません!俺、雨霧です!お話があるんです!ここ開けてもらえませんか!?」

「瀬良!いるんだろ!?大事な話があるんだ!出てきてくれよ!」


 大声で叫びながらしばらく叩き続けているとドアがわずかに開いて、たまりかねた様子の真理奈がすき間から顔を出した。


「大声で喚かないでちょうだい!ご近所に見られたらどうするのよ!?」


 真理奈は開口一番、蓮吾を激しく叱罵した。


「あなたと言いあの女子高生と言い、来るならくるで前もって連絡するのが普通でしょう!だいたい、こんな朝早くから非常識だわ!」

「青子、やっぱりきてたんだ……春奈さんに会わせてください。どうしても話さなきゃならないことがあるんです」


 蓮吾が強引に扉をこじ開けようとすると、チェーンロックが邪魔をする。


「お断りします。主人と話し合って、娘は私立に転校させることに決めました。春休みが終わっても娘が登校することはありませんので。謝罪ももう結構です」


 目の前で、がちゃん!と乱暴にドアが閉じられる。


 蓮吾は冷静に思案して、家の裏手に回り込んだ。真理奈に見つからないよう、慎重に入れそうな場所を探す。トイレ、洗面所、風呂場、キッチンは危険だからスルー……リビングの窓の鍵が開いていた。こっそり侵入し、2階の春奈の部屋を目指す。


 窓にピンクのカーテンがかけられていた部屋から物音がした。まさか父親じゃあるまいと踏んで、ドアの外から声をかける。


「瀬良……?いるんだろ……?」


 気配がかすかに緊張して、ためらうような空白の後静かに扉が開かれた。現れたのは春奈だったが、部屋着だからなのか表情のせいなのか、いつものような輝きはなく、別人のようだった。


「良かった……元気そうで……」


 春奈は蓮吾と視線を合わせようとせず、黙ったまま彼を室内に招き入れた。背を向けて座り込み、クッションをきつく抱きしめる。


「とつぜん来たりして、ごめん……あの夜のこと謝ろうと思って……」


 蓮吾は春奈の頑なな背中に語りかけた。


「女の子に恥かかせるなんて、男として最低だよな……言い訳みたいになるけど、瀬良だから拒絶したわけじゃないんだ……たぶん、相手が誰でもああしてた……俺には問題があって」

「知ってる……みんな言ってるもん。蓮吾くんは女子が苦手だって……他の男子みたいにいやらしいこと言わないし」


 口を利いてくれたことに、ひとまずほっとする。「……そっか……」


「どうして本当のこと言わなかったの?誘ったのは私なのに」

「やっぱり俺のせいだから……俺が捕まって瀬良の気が済むなら、それでもいいかなって思ったんだ」

「蓮吾くん、優しすぎるよっ……本当は嫌な女だって思ってるんでしょ?あんなすぐばれる嘘ついて、馬鹿だって」

「瀬良は何も悪くないよ。好きになったのが俺じゃなかったら、もっと普通のやつだったら、瀬良はこんな嫌な思いしなくて済んだんだから……でも、ごめん」


 もう思い通りになってあげられない。変わるって、決めたから。


「……私、蓮吾くんに謝らせてばっかりだね……あの人のため……?」


 振り向いた春奈に、肩をすくめてみせる。


「あの人……宮木青子さん。俺の兄貴の彼女なんだ」

「?お兄さんの……?」

「そう。頭良くてイケメンで、おまけに大金持ちの俺の兄貴。もう、ぜったい勝ち目ないの。イヤんなっちゃうだろ?2人ラブラブでさ、俺なんかお呼びじゃないって感じで……早く諦めなきゃって思ってるんだ」

「…………」

「俺はきっと、これからもあの人のこと忘れられない。瀬良、それでもいい?俺が他の人を好きでも、そばにいたいって思う?」


 春奈の腫れぼったいまぶたが大きく見開かれる。


「それって……」


 言葉の意味に気付いた春奈が返事をしようとした、まさにその時。

 インターホンが鳴って、階下が俄かに騒がしくなった。


 書置きを残して家を出てきたから、青子が追いかけてきたのかもしれない。


 蓮吾はロマンティックな場面を打ち切って、様子を見に立ち上がった。入った時と同じように、リビングから外に出て玄関に回り込む。春奈も後を付いてきた。


 蓮吾の予想に反し、玄関の前にいたのは高級スーツとぴかぴかの革靴で決めた、いかにも威圧的な出で立ちの長兄だった。


「やべ、兄貴だ。……?あの後ろの人、誰だろ?」

「パパっ……」

「え、瀬良のお父さん?」


 言われてみれば鼻の形が似ている気がしないでもないが、春奈は母親似のようだ。

 ちりめん皺が目立つ目元。デフォルトの困り眉。うらなりの瓢箪みたいな青白い肌。富士登山とフルマラソンの後、不眠不休で広●苑を転写した修行僧のような気配をまとっている。


「あなた……今頃帰ってきて、どういうおつもり?そちらは?」


 真理奈は春奈そっくりの勝気そうな瞼を尖らせ、つんけんしてたずねた。


「春奈が喧嘩したという、雨霧蓮吾くんのお兄さんだよ。お前、なんてことをしてくれたんだ」


 真理奈は瀬良氏の慌てぶりには気付かず、品定めするような視線で閏の外見をチェックした。黒いカラーリングが抜けて茶色味が強くなった髪、太陽を背にしてなお光彩を放つ瞳、作り物のような鼻と唇……


 奇跡のように美しい青年だが、ずいぶん若い。それに外国人のような青い瞳……れんごともあまり似ていないようだし、事情があるのは間違いない。


 いずれにせよ、謝罪の電話の一本もなく長男を寄こしたということは、父親は子どもにあまり関心がないのだろう。思った通り、ろくでもない家庭だ。


「先ほど弟さんにも伝えましたけど、春奈は転校させることに決めましたから。これ以上誠意のない謝罪を聞くつもりはございませんの。どうぞお引き取り下さいな」


 恐るるに足らずと、己の優勢を確信した真理奈は高慢ちきに言って、物陰から様子をうかがう蓮吾をひやひやさせた。ぴくりとも動かない表情筋。取り澄ました横顔は、長兄がなにか善からぬことを企んでいる時の顔だ。


 あんな冷酷な目をした男を挑発するなんて、なんて命知らずな……


「お前、なんだその口の利き方は。せっかく訪ねてきてくださったのに……春奈を転校させるなんて聞いてないぞ」


 瀬良氏の抗議に、真理奈はしれっとして「ええ、言ってませんから」と答えた。


「それが春奈のためなのよ」

「春奈のためってなぁ、お前。あの子は来年は受験生なんだぞ。だいたい私に一言の断りもなく、そんな勝手な……」

「ですから!……相談しようと思って何度も電話したのに、聞く耳持たなかったのはあなたの方じゃありませんか。今さら私が決めたことに口出ししないでくださいな。……雨霧さん、あなたねぇ、さっきから電柱みたいに突っ立ってないで、なんとか言ったらどうなの?それとも日本語が分からないのかしら?」


 瀬良氏は大慌てで2人の間に割り込んだ。「ばかっ、ばかっ」


「お前、この方が誰だかわかっていないようだね。前に一度話しただろう?我が社の業績回復のために親会社のT.テックからいらした常務取締役……つまり今の私の上司だ!」

「T.テック?……冗談は止してちょうだい。見たところまだ学生でしょ?こんな社会人経験もない子供が常務だなんて。だいたい、天幸寺グループと言ったら総資産200兆円を超える大企業じゃないの」

「だから、その天幸寺グループ総裁のお孫さんなんだよ!」


 小声で怒鳴る瀬良氏はまるで、悪代官に印籠を突き付ける格さんみたいだ。ただ、今は黄門様の方がよほど悪役めいている。


「はじめまして奥様。天幸寺閏です」

「でもっ、だって、雨霧って……」


 真理奈の赤ら顔がリトマス試験紙みたいにサーッと青ざめた。


「わ、私ったら大変な失礼を……主人がいつもお世話に……」

「どうぞお気づかいなく、今日は雨霧蓮吾の兄としてきましたので。この度はうちの弟がご迷惑をおかけしたようで、大変申しわけありませんでした。……ところで春奈さんは今どちらに?一言謝罪をさせていただきたいのですが」

「え!?……っいえ、いえいえそれには及びませんわ。私も熱くなり過ぎたと反省していたところですの。恥ずかしいわ、子どものことになるとついムキになって……」

「勘違いしないでいただきたい」

「え?」

「私の言う謝罪とはあくまでも、訪問が遅れた件に関してです。もっと早くにうかがうべきところを体が空かず、余計な手間をとらせてしまいました。暴行の件に関しては春奈さんの口からもう一度詳しい事情を聴かせていただいた上で、弁護士と一緒に今後の対応を検討させていただくつもりです」

「べ、弁護士ってそんな大げさなっ……たかが子どもの喧嘩ですよっ?」

「そのたかが子ども同士の喧嘩をここまで大事おおごとにしたのはあなたでしょう、奥様」


 閏は紳士の仮面を取り去って、悪魔のような本性をその瞳に滲ませた。


「なんなら警察に調べなおしてもらいましょうか。愚弟がなんの理由もなくお嬢さんに怪我を負わせたとすれば立派な暴行事件だ。人として、男として、どんなことをしてでも償わせます。マスコミに訴えていただいてもかまわない。ただ……」

「…………」

「もし仮にお嬢さんの方になんらかの原因があった場合、こちらもただでは引き下がれません。私は私の家族を悪戯に脅かす者を決して赦さない。徹底的に戦うつもりでおりますので、ご承知おきください」


 瀬良夫婦も、背後の春奈も、長兄の迫力に怯え切っている。蓮吾は歯の根が合わない瀬良家族を見るに見かねて、物陰から飛び出した。「もう止めろよ!」


「?……蓮吾、きてたのか」

「もう止めてくれよ兄貴っ、今回の件は本当に俺が悪かったんだ。兄貴には迷惑かけて、本当にすまなかったと思ってる。でも……」

「ダメだよ、蓮吾。大人でも子供でも、自分でやったことの責任は自分でとらなきゃいけないんだ。今断罪しないとこの親子はなにも学ばないし、報復がないと分かれば付け上がって何度でも同じ過ちを繰り返す」

「でも、だって、怖がってるよっ……ここまでしなくてもっ」

「ここまでさせたのは他でもない、こちらの奥様さ。大丈夫、彼女は罪の意識なんてこれっぽっちも感じちゃいないよ。自分より格下の人間はとことん追い詰めて、旗色が悪くなればすぐに手の平を返す。そういう下品な人間だ。獣と一緒で、人の心なんて分からないんだよ」


 真理奈の顔が屈辱にわっ!と朱に染まる。


「そんな言い方っ……そりゃ少しやり過ぎたかもしれないけどっ……」

「蓮吾。今度ばかりはお前のわがままを聞いてやる気はない。黙っていなさい」


 閏はガタガタと震える真理奈に向きなおり、物静かな口調でたずねた。「奥様、知っていますか?」


「蓮吾は母親からの虐待が原因で、女性恐怖症なんですよ。女の子の手を握るどころか、体が拒否して近付くことさえできないんです。最近やっとましになってきたと思ったのに……あなたたちのような無神経で傲慢な人間がすべてを台無しにするんだ」


 閏は今度は、蓮吾の体の向こうにいる春奈に視線をやった。「君が春奈さんだね」


「嘘を吐いて他人を陥れようなんて、卑怯な真似をするじゃないか。同年代の子どもたちより少し悪知恵が働くからって、頭が良いつもりか?」

「っ……」

「残念ながら、君の思い通りになってくれるのはやさしいパパとママだけだ、世間知らずのお嬢さん。家族でも友人でもない他人に喧嘩を吹っ掛けるとどうなるか、その身をもって思い知ると良い。君の浅はかな行いのせいで君のパパは仕事を失い、君のママは自慢の家とクロゼットの中のブランド品を残らず手放す羽目になった。私を恨むのは筋違いだぞ、すべては君が自分で招いた事態だ。強い者こそ正義、溺れる犬は石もて打て、これが君等のルールだろう?」


 恐怖のあまり泣き出した春奈に向かって、はーっと大きなため息を吐いてみせる。


「これ以上私をイラつかせないでくれ。今さら泣いても無駄なことくらいわかっているだろう。子どもの分際で涙を武器にしようなんて百年はや……!?っいぃい!?」

「あ、青子っ!!」


 すかした彼氏の横顔に全力ダッシュからのフライング・クロスチョップをお見舞いした青子は、蓮吾に向かって「お待たせ!」と片手を上げて見せた。


「遅くなってごめんね。蓮吾、起こしてくれないんだもん」

「ぐっすり寝てたからさ……って、そうじゃなくて」


 頭を押さえて芝生に転がる閏のもとに、瀬良氏が慌てふためいた様子で駆け寄る。


「常務!常務大丈夫ですか!?……誰なんだ君は!勝手に人の家の庭に入り込んで!警察を呼ぶぞ!」

「いやっ、いいんです、いいんです……コレなんで」


 閏は右手で痛めた左肩をさすりながら、左手の小指をぴっと立てて見せた。「ええ!?このヤンキーみたいな女子高生が!?」


「ふんだっ、いい気味よ。なーにが「強い者こそ正義」よ。お昼の2時間ドラマじゃあるまいし、この天然ボケの若様は」


 青子は閏の背中を靴先でえいと蹴たくると、春奈のそばへ寄った。少しかがんで目線を合わせて、にっこり微笑む。


「お洋服、汚しちゃったんだよね」


 春奈の大きな目がさらに大きく見開いて、青子は確信した。


「あの赤いファーコート、ママのなんでしょ。勝手に持ち出して怒られちゃったかな?言い訳に困って、つい言っちゃったんだよね。……私も経験あるんだ。お母さんの口紅いたずらで折っちゃって、問い詰められてとっさに泥棒が入ったとか言っちゃってね。うちのお母さん、嘘だって気付いてるくせにお巡りさん呼んだの!時間が経つにつれてどんどん言い出しづらくなって、そのうち近所の人も集まってきて、真夜中になっちゃって……あの時はすっっっごく怖かった」

「っ……」

「お母さん、私が自分から白状するまでお芝居止めなかった。でも、ちゃんと謝ったら赦してくれたよ。もちろんめちゃくちゃ怒られたけどね」


 偽泥棒事件の後、母と2人でさんざん泣いた。深夜2時に食べた鍋焼きうどんの味は、今でも忘れられない。翌日は学校を休んで、近所中の人に謝りに行った。みんな赦してくれたけど、しばらくは近所ですれ違う度に生温い眼を向けられて、猛烈に恥ずかしかった。


「春奈ちゃんも、勇気出して本当のこと言お。私もいっしょに怒られてあげる」


 春奈の大きな目から、驚きで一度は止まった涙が再び溢れ出す。ぽろぽろ、ぽろぽろ、大粒の雫が、桃のような頬の上を滑り落ちる。


「ご、ごめんなさぃいいっ……」








リハビリ運転中です。変わらず足跡を残して行ってくださる皆様に励まされ、恥ずかしながら舞い戻ってまいりました。亀の歩みになりますが、もうしばらくお付き合いくださいませ。

<(_ _)>

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