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ナレソメ  作者: kaoru
そして恋のはじまり
20/80

恋人の正体

著作権は放棄しておりません。

無断転載禁止・二次創作禁止

「龍太郎君……?どうかした?」

 思考の檻に囚われていた龍太郎は、青子の声で我に返った。「ああ……悪い」

「傘、持って行かなかったろ?」

 龍太郎は困惑する青子に、黒いコウモリ傘を手渡した。

「わざわざ届けに来てくれたの……?」

「まあ……コンビニのついで」

 龍太郎は見え透いた嘘を吐いた。青子が自宅とは反対方向に歩いて行ってしまったため、随分捜し回ったようだった。近付くと、汗の香りがした。

「ありがとうっ……あの、龍太郎君、私……」

「良いんだ。俺がまずかったんだ」

 龍太郎は、青子の表情を曇らせているものを察して言った。

「考えてみれば俺達、出会ってまだ二か月だもんな。なのに家に連れ込んだりして、下心ありますって言ってるようなもんだ。怖がらせて悪かった」

 龍太郎は真摯な態度で謝罪した。

 青子は勝手な憶測で龍太郎を悪者扱いしてしまったことを恥じた。

 なぜ騙されているなんて思ったんだろう?言い訳するなら、事前に色んなことを言われて、疑心暗鬼になっていたのだ。

「そんな……私の方こそ、ごめん。急に飛び出したりして……」

 今思い返せば、額縁に入れて飾っておきたいような、百点満点の告白だった。言葉にするまでに、たくさん考えたに違いない。それを疑うなんて……

「やり直させてくれ」

「え?」

「青子の準備ができるまで、ちゃんと待つから……また、誘っても良いか?」

 二つ返事で承諾した青子だったが、一度芽生えた疑惑の芽は、そう簡単に摘むことは出来なかった。

 翌日の夕方、青子は再びBARエリュトロンの前に立っていた。青子の願いに反して、龍太郎のバイクは誰に遠慮することもないという風に、往来の真ん中で幅を利かせていた。

「…………」

 青子は昨日、龍太郎の胸に凭れていた女性のことを思い出し、重苦しい気分になった。さっきの美人は誰?と、面と向かって問い質せる自信がない。

 怖い。でも確かめたい。

「入らないの?」

 店の前で二の足を踏んでいると、台風に備えてごみ置き場を片していた店員が、青子に気付いて声をかけた。四十歳くらいの、ヒッピーみたいな格好をした男だった。名前を松本典弘といった。

「君確か、昨日も来てたよな?」

「あの、私……」

 青子がおろおろしていると、松本は事情を察して、彼女を裏口へ案内した。

「こっち。入って」

「ここは……」

「いいから、付いてきて」

 松本は、スタッフ・ルームの札が掛かった部屋に青子を通した。室内には誰もおらず、長机にノートPCが数台設置されていた。

「本当はいけないんだけど。前に高校生のクソ餓鬼がコカイン持ち込んで警察沙汰になったことがあって、店長が付けたんだ。……こっち、座って」

 松本は青子をノートPCの前に座らせると、ウェブカメラを起動した。はじめに店内入り口付近の映像が映し出され、青子はハッとした。

 松本はPCを操作し、VIP席の様子が映るように画面を切り替えた。左端に、煙草を加えて札束を数える龍太郎の渋面が映し出された。

『お前、最……羽振り良いな。何かやばい仕事でもやって……ねぇの?』

『……言え。貸して……金が返ってき……さ』

 同時に流れてきた音声は、雑音が混じっていて、良く聞き取れなかった。松本が画面上の摘みを調節している間、青子は葛藤していた。

 盗み聞きなんて、良くないことだ。何も見なかったことにして、今直ぐ部屋出るべきだ。わかっているのに、脚が言うことを聞かない。

『嫌だねぇ。怖いねぇ。お前にだけは金を借りたくないね』

 その内、調節が終わったのか、音声がクリアになった。向かい側に座った男の言葉に、龍太郎がからからと笑っている。良心と欲望の間で揺れていた天秤が、一気に傾いた。

「見てて良いよ。仕事あるから、行くね」

 松本は親切に言って部屋を出て行った。青子はしばらくの間(ほんの五分ほど)パソコンの画面にくぎ付けになっていた。他愛ない世間話が続き、冷静さを取り戻した青子が、自責の念からウェブカメラの画面を閉じようとした、その時だ。

『ところで昨日の女子高生、お前の彼女か?』

 男の一人が、龍太郎にたずねた。青子は我知らず身を乗り出した。刮目する青子の前で、画面の中の龍太郎が吐き捨てる。

『冗談だろ。あんな馬鹿女、使い捨てで十分だ』

 空白となった頭に、耳を塞ぎたくなるような、下衆な会話が流れ込んでくる。

『結構かわいかったじゃん。いらないならこっち回せよ』

『はい、はい。俺が食った後にな』

 青子が呆然と画面を見詰めていると、そのうち美しい女性がやってきて、龍太郎の隣にぴったりと寄り添った。

(あっ……)

 ため息が出るような、熱烈なキス。龍太郎の手が、彼女のくびれた腰や太ももを自由気ままに這い回る。見ちゃいられなくて、青子はそこで画面を閉じた。

 息が苦しくて、軽く眩暈がする。

 立ち上がれないでいると、松本が用事を終えて戻ってきた。彼は青子の顔色を見て、全てを悟ったようだった。

「俺の娘の友達が、何人もあいつに泣かされてるんだ。美人と見れば手を出して、飽きたらポイ。とんでもない奴だよ、あの野城って男は」

 彼が気を利かせて淹れてくれた熱いコーヒーは、青子の心を慰めはしなかった。叫び出したい気持ちを堪えるのに精いっぱいで、相槌を打つことさえ出来ない。

「最初は皆、高校生が粋がってくらいに思っていたんだ。だんだんエスカレートしてきて、最近じゃ大っぴらに人の女に手を出すもんだから、トラブルになる前に出入り禁止にしようかと思っていたんだ。ここだけの話、リンチにしようって話も出てるみたいだ」

「?リンチ……?」

「調子に乗り過ぎたのさ。子供相手に冷たいこと言うようだけど、ま、これも社会勉強だ」

 閉店までは好きなだけいて構わないという彼の言葉に甘えて、青子はスタッフルームに留まった。全力疾走したような疲労感。手足が骨を抜いたイカみたいにふにゃふにゃだ。一歩も動きたくない。

 やっぱりな、という諦めにも似た思いが、踏み躙られた真心を冷静に見つめている。弄ばれているとも知らずに、彼の態度や甘言に一喜一憂する姿は、観ていてさぞ滑稽だったろう。思い返せば自嘲の笑みが零れる。

 嘆くことはない。はじめから、こうなることは分かっていたじゃないか。エリートの龍太郎が、試験で鉛筆転がす女なんて、本気で相手にするわけなかったのだ。

 椅子に座り続け、小一時間が経った。

 何をするでもなく庭石のようにじっとしていると、次第に心を戒めていたあらゆる思考(例えば今この瞬間、世界中で何人の乙女が失恋したか、とか……)は消え去り、悟りを開いた修行僧のような心持になってきた。もう半時もすると、生理的な欲求が湧いてきた。お腹が空いた。喉が渇いた。誰かと話したい。

 青子は肺の中の空気をすっかり吐き出した後、のそのそ立ち上がった。失恋ごときで、いつまでもセンチメンタルな気分に浸っているわけにはいかない。こうしている間にも、地球は回り続けているのだ。

 狭い部屋を横切る僅かの間に、青子は今後の予定を立てた。まずは、何食わぬ顔で店を出て、家に帰ること。途中コンビニによってポテチを買い、レジのお兄さんに微笑みかけてもらうこと(重要だ。この時間じゃまだいないかもだけど)。好きなだけ食べて、ゆっくりお風呂に入って、泥のように眠って、目覚めたら。

「…………」

 いつもの毎日が待ってる。彼に出会う前の、平穏で、少し退屈な日常が……

 スタッフルームを出た青子が、松本に一言挨拶しようと従業員用通路をさ迷い歩いていると、薄い壁の向こうから、物を投げる音や、グラスが割れる音、怒声や悲鳴が混ぜこぜになって響いてきた。

 お酒を出す店には、良くあることなのかもしれない。

 自分には関わりないことと判断し、無視しようとした青子だったが、松本の言葉が耳に付いて離れず、ついには立ち止まった。『ここだけの話、リンチにしようって話も出てるみたいだ』

 トラブルに巻き込まれているのは、龍太郎かも知れない。

「…………」

 今直ぐ店を出るべきだ。これ以上、傷付きたくなければ。振られた男を助けに行くなんて、そんな惨めな真似しない。

 自衛に努めようとする精神に反し、青子の肉体はひとりでに動き出した。店内へ続く扉を開け放ち、騒ぎの中心へ急ぐ。

 人だかりの真ん中では、見知らぬ二人の男が取っ組み合っていた。それいけ、やれやれと、滅茶苦茶な野次や悲鳴が飛び交っている。

 良かった、彼じゃない……

 ほっとした青子が引き返そうとすると、何者かがぱっと彼女の手首を掴んだ。振り向けば果たして、龍太郎が立っていた。青子はごくんと、大きな空気の塊を飲み込んだ。

「危ないから、こっちへ来な」

 龍太郎は騒然とする店内を横切り、青子をVIP席まで引っ張って行った。席には誰もおらず、青子は龍太郎の関係者に会わずに済んだことを、ひとまず天に感謝した。

「ここには来るなと言ったのに。また俺を追いかけてきたのか?」

 暗澹たる空想の中では、恨み言も泣き言もすらすら言えたのに。

 いざ本物を目の前にすると、何をどう切り出せば良いのか、青子はわからなくなってしまった。卑怯者と詰れば良いのか、さめざめと泣けば良いのか……幾つか浮かんだ案の中で最善と思われるのは、何事もなかったように別れて二度と会わないことだが、せめて一言でも彼の口から言い訳が聞きたいという未練がましい思いが邪魔をして、実行には移せなかった。

「青子?どうかした?」

 黙りこくる青子を奇妙に思った龍太郎が、その顔を覗き込んだ。

 邪気のない瞳で見つめられると、先ほど観た光景が、幻だったんじゃないかという気さえしてきた。ほんの一瞬、見なかったことにしてしまおうかとも考えた。

「具合悪いのか?熱があるんじゃないか?……早く帰ろう。送ってく」

 しかし、今や二人を取り巻く状況の全てが、痛々しい現実を物語っている。

「良いの……大丈夫」

 青子は一歩身を引いて、差し伸べられた龍太郎の手を避けた。せめてもの抵抗だったが、龍太郎が気付く様子はなかった。

 龍太郎は酒に足を取られるようにして、ソファにどさっと腰を下ろした。

 狭い部屋に充満する酒気と煙草の煙が、青子の気分をいっそう滅入らせた。隅に飾られた枯れかけのドラセナに、哀れな我が身を重ね合わせる。

「そういえば青子、来週の日曜日、暇か?」

「え……?」

「もうすぐ夏休み終わりだろ?一緒に横浜行こうぜ」

 龍太郎は先刻青子を口汚く罵った唇で、見知らぬ美女と重ねあわせた唇で、ぬけぬけと言った。青子は俄かには信じられない気持ちで、動揺も、罪の意識の欠片もないその顔を見詰めた。この人は、なんて上手に女を騙すんだろう?この笑顔が嘘だなんて……

 悔しさより、悲しみが勝った。青子はこみあげてくる涙を堪えるために、唇をきつく噛み締めた。

「良いだろ?ツーリングがてらさ。せっかくだから、どっかに泊まろうか?青子はホテルと旅館、どっちが良い?」

「…………」

「?……青子?……本当にどうしたんだよ?さっきから、なんか変だぜ?」

 沈黙して俯き続ける青子を、龍太郎が不審に思い出した。感情に流されまいと踏み堪えていた心が、ついに音を上げた。

 青子はひくつく喉から、どうにか声を絞り出した。「もう、いいよ……」

「もういいよ……全部、聞いちゃった……」

 だから、お芝居なんて止めて。

「?聞いたって、なにを?」

「……使い捨てって……」

 口にした瞬間、膿んでじくじくする傷口を、無理やりこじ開けられるような痛みが胸に走った。

「さっきの女の人……綺麗な人だね。龍太郎君の彼女……?」

「…………」

「龍太郎君、もてそうだもんね。私、独りで勝手に盛り上がっちゃって……なんか、ごめんね」

 青子は精一杯虚勢を張って、余裕のある振りをして見せた。

 龍太郎は黙って、悲愴感を隠せぬ青子の顔を、眉ひとつ動かさずに見つめていた。ほんの五秒の静寂が、やけに長く感じる。怖い。

「……なーんだ。ばれちゃったのか」

 青子の掌が汗でびっしょり濡れた頃、龍太郎は細いため息と共に沈黙を破った。

「ま、いいや。あんた、なんか面倒くさそうだし」

「えっ……」

「なに?まさか本気で惚れられてると思った?……付き纏われても迷惑だからはっきり言うけど俺、重い女嫌いなんだ。あんたに近付いたのは、婚約者の娘に手を出したら親父がどんな顔をするかと思ったからさ」

 龍太郎は言い訳するどころかあっさり暴露し、開き直って青子を驚愕させた。彼はショックで動けずにいる青子の傍に寄ってきて、その耳に唇を寄せた。

「それにしても覗き見なんて趣味が悪いな。癖になったのか?」

「…………」

「どうしてもって言うなら、一回くらい抱いてやっても良いぜ。好きなんだろ?この顔が」

 産毛を擽る息が、低い声が、怯えて縮こまった心をかき乱す。やがて龍太郎のやんちゃな右手が腰を撫ではじめると、青子はパニックに陥り、一言も反撃できずに白旗を上げた。「わ、私、帰るっ……」

 店を飛び出して行く青子を、龍太郎は引き留めも、追いかけもしなかった。



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