決行
希恭はビジルの事が気にならない訳ではなかったが、それからまた少しの間、何事も無い日常を過ごしていた。
そんなある日の夜、机に向かっていた希恭の傍らにある電話の子機が鳴り始めた。
しかし電話は直ぐに鳴り止んだ、おそらく母の恭子が出たのだろう。
それから程なくして、また子機が鳴り始めた。
今度はさっきとはまた別の音だ、同時に内線を示すランプが点滅している。
希恭はそれを手に取って
「何?」
と、静かに尋ねた。
すると恭子から
「お友達から電話よ」
あからさまに不機嫌な返事が返ってきた。
「誰から?佐理?」
一瞬そう思ったものの、直ぐに自分の考えを否定する。
(いや違う……佐理ならそう言う筈だ)
時計を見るともう十一時を回っていた。
(こんな時間にいったい誰だろう……?)
意外な返事が返ってきたのはそう思った矢先だった。
「葉月って子よ」
名前を聞いた途端、何か……嫌な予感がした……。
「じゃあ、取りなさいよ!」
そう言い残して、恭子はお構い無しに内線を切ってしまった。
希恭は直ぐ様外線に切り替えて
「お電話代わりました、星河です。何か御用でしょうか?」
と口早に応じた。
『今から佐理の所へ来い』
「こんな時間に何故ですか?」
命令口調の葉月に希恭もつい、ぶっきらぼうになる。
『俺は今、佐理の家の前に居る。これがどういう意味か分かるな?』
「いいえ」
そう答えはしたが、嫌な予感は強くなる一方だ。
『お前は馬鹿か』
「何なんですかッ!」
これには流石にムッとした。
『これから佐理は課題を実行する』
「どういう事ですか!?」
『分からないのか?佐理はお前の代わりに課題を受けたんだよ』
電話の向こうの声が空間に響くただの音のように聞こえた。
脳が理解を拒んでいる。
それでも体は直ぐに反応した。
「そんな馬鹿なッ!!」
思わず立ち上がった希恭の手から鉛筆が滑り落ちて床に転がった。
『佐理が生きるか死ぬかは星河……お前次第だ。いいな、来いよ』
「待ってくだ……!!」
『ブツッ!』
希恭を無視してまたもや電話は切られた。
一切の質問を拒絶された瞬間、弾かれたように上着を掴み部屋を出て階段を駆け降りる。
考えるよりも(行かなければ)という思いが先に立って体を突き動かしていた。
「どうしたの!?」
その余りの勢いに恭子が出て来て、玄関で慌てて靴を履いている希恭に訝しげに訊ねた。
「ちょっと佐理んとこ行ってくる!!」
それだけ答えて玄関を飛び出した。
(どういう事なんだ……?あの時、佐理は『話は着いてる』と言った……それがこういう事なのか……佐理ッ!!)
佐理の家に向って走りながら思いを廻らせる希恭は、これから起きようとしている事を思うと、足を速めずにはいられなかった。
「お待ちしてました」
玄関を開けた佐理が、目の前に立っている葉月に軽く頭を下げた。
葉月が何も言わずに頷くのを見て
「どうぞ」
と、その後に控えている数人のメンバー共々、家の内に招き入れた。
「こちらです」
そう言いながら先に立って皆を案内する。
サニタリーを通ってバスルームのドアを開けた佐理が振り向いて
「準備は出来てます」
と言った。
「指示した物は?」
葉月が尋ねると
「そちらに」
と、掌で示して見せた。
そこには、きちんと畳まれた毛布や三角帯などが行儀良く並んでいた。
葉月がそれを確認すると、腕時計を見てから
「それじゃあ、配置に着いて待て」
と言ったので、メンバー達は指示された位置に着いて待機した。
「直ぐに始めないんですか?」
佐理が少し妙に思って尋ねた。
すると葉月は佐理を伴ってバスルームに移り
「慌てる事はない、お楽しみはゆっくりで良い」
とニヤリと笑った。
「そうだ」
葉月は何かを思い出した様に、上着のポケットに挿していたペンを抜き取って
「左手を」
と佐理に向かって自分も左手を差し出した。
佐理が手を伸ばすと、同じ向きにその手を取って、右手の中指で脈の触れる場所を探り【印】を付けた。
それからペンをポケットに戻すと、今度は内ポケットから短いナイフを取り出して佐理に手渡した。
それは15cm程の細い剣の様な形をした特殊な物だった。
佐理がそれを受け取ると、葉月が今付けたばかりの【印】を指差して
「いいか、ここだ。お前が本気ならここを切るんじゃなく刺すんだ。そのナイフは両刃だから最小限の傷で血管が切れる筈だ」
と言った。
「分かりました」
佐理が答えた時、ドアを開閉する音がした。
「どうやら来たようだな」
葉月が楽しそうに、またニヤリと笑った。
佐理が怪訝な面持ちでいると、そこへ
「ハァハァ」
と息を切らした希恭が姿を現したのだった。
「恭!!どうしてここに……!?」
驚いている佐理に、空かさず葉月が
「俺が呼んだんだ」
と答えた。
直ぐに駆け寄ろうとする希恭に
「そこで止まれ!!」
と言ってから、側に位置していたメンバーの皆川と二木に
「そいつを抑えてろ!!」
と強い口調で命令する。
「僕は聞いてないッ!!」
佐理は抗議するように言った。
「これは俺が決めた事だ、お前に言う必要は無い」
「約束が違いますッ!!」
「俺が何を約束した?」
葉月は何も受け付けようとせず、その視線は冷たく佐理を捉えている。
確かに、希恭に知らせないとは約束していない。
「そんな……」
佐理は眉を顰めて希恭の方へ視線を移した。
「佐理ッ!!これはどういう事なんだッ?俺の代わりに課題を受けるって本当なのか?本当なら……今直ぐ止めろ、お前がそんな事する必要なんか無いッ!!」
希恭は何とか佐理を思い留まらせようと必死だ。
「煩い奴だ、俺が良いと言うまで何が有ってもそいつを放すなよ」
葉月は二木と皆川に強く言うと、希恭の事など意に介さぬかのように
「さてと、始めようか」
と言った。
「そんなッ!!恭が居るなら延期して下さい!」
「駄目だ、今止めたらもう次は無いと思え」
少し狼狽えている佐理に、葉月が冷ややかに告げた。
「何故です……どうして恭を呼んだんですか!?」
何時も冷静な佐理が、珍しく眉間に皺を寄せて険しい表情を見せる。
そんな佐理を見て、葉月の顔は一層冷ややかさを増していった。
「お前があいつの為に命を掛けるというのに……“あいつだけ”痛み無しという訳にはいかないだろう?」
葉月は佐理の肩に手を掛けて無邪気に口角を上げた。
「そんな……恭が見てる前でこんな事出来ない……出来る訳ない……」
葉月は希恭の出現に臆して躊躇する佐理を見ると、予めそれを予測していたのか、ゆっくりと佐理の耳元に顔を寄せて何事かを囁いた。
そして、もう一度佐理の顔を見直って意味ありげにニヤリと笑った。
その途端、佐理の表情が変わり、まるで何かに取り憑かれたかの様に大きく見開いた目で葉月の顔を凝視したまま動かなくなった。
希恭は佐理の様子が変わった事に直ぐに気付いたが、それは周りの者も同じだった。
葉月は佐理の手を取り、なおも囁く。
「誰も知らない……俺とお前だけの秘密……さぁ……それをココに突き立てるだけでいい……」
「あぁ……」
佐理はまるで催眠術を掛けられた様に葉月の言葉に操られ、逆手に持ったナイフの刃先をジワジワと【印】に当てがった。
「何してる佐理ッ!!止めろッ、止めるんだッ!!」
両脇から羽交い締めにされて自由の利かない希恭は、佐理を止めようともがきながら大声で叫んだ。
すると、佐理は大きく目を見開いたまま、ゼンマイ仕掛けの人形のようなギクシャクとした動きで顔だけを希恭の方へ向けて、強張った視線を寄越した。
それでも、ナイフを握る手に力が込もるのを感じ取った希恭は再び
「駄目だッ!!佐理止めろッ!!」
と叫んだ。
しかし……その言葉は佐理の耳には届かなかった。
佐理は希恭に視線を留めたまま、葉月が付けた【印】に刃先を沈めていった。
「やめろおぉぉぉ――――ッ!!!」
希恭の叫びは虚しく響き、課題は目の前で決行された。




