血縁と始まり
佐理の手首から血飛沫が舞い、佐理の顔や服に赤い斑模様を描いた。
「放せッ!!はなせよッ、チクショオォ――ッ!!」
希恭は必死にもがいて逃れようとするが、二人の男に押さえられているので侭にならない。
身長以外ほぼ同じ体格をした皆川はともかく、二木のほうは、179cm有る希恭より背丈も体格も一回り上回っているし力も強かった。
希恭はハッとした。
佐理の手が微かに動くのが見えたのだ。
「抜くなッ佐理ッ!!」
希恭は咄嗟に叫んだ。
ナイフを抜いてはいけないことくらい佐理も分かっている筈だ、にもかかわらず、佐理はナイフを抜き取って床に放り出したのだった。
途端に鮮血が迸った。
直ぐに傷口を握り締めた右手のその指の隙間から、絶え間なく流れる血が筋となり肘を伝って落ち、タイルの床を赤く染め上げていく。
佐理はその顔に苦痛の色を浮かべ、膝からガクリと床に崩れ落ちた。
「佐理ッ!佐理いぃッ!!」
希恭は側へ行こうと無茶苦茶に体を動かし抵抗を試みたが無駄だった。
「放せッ!放してくれ……二木……頼む……」
力無く項垂れ、最後の望みを託すように同級生である二木に訴えるが、二木は躊躇いを見せながらも
「すまない……」
と、希恭の思いに応えてはくれなかった。
二木の絶望的な答えを聞いた時、葉月が
「わめくな」
と言いながら、用意された物を手にして希恭の前に立った。
「人でなしッ!!」
希恭は飛び掛からんばかりに動けない体をのめらせて叫んだ。
「人聞きの悪い、これは佐理が望んだ事だ」
「まさかそんな……それでも、こんな事本当にやらせるなんて正気じゃないッ!!あんたは佐理を一番可愛がってた癖に……本当に可愛いいならこんな事やらせる筈がない!!」
希恭が噛みつくと、葉月は希恭の顎を鷲掴みにして
「いいか、よく聞け!憎まれ口をたたく暇が有ったら自分のやるべき事を考えろ」
と言った。
それから手にしていた物を差し出して
「佐理を死なせるなよ、もし死なせたりしたら……お前も同じ目に遭わせてやるからな」
凄んでみせた葉月の眼は真剣で、それだけで希恭の口を噤ませるには充分だった。
「救急車は予め呼んである、やるべき事は分かってるな?」
葉月は手を離すと、希恭に言い聞かせるように言ってから、押さえている二人に
「放してやれ」
と言った。
二人が希恭の体を放すと、希恭は葉月が持っていた物を引ったくるように受け取って佐理の側に駆け寄った。
「佐理ッ確りしろッ!!」
抱き寄せた佐理の唇から見る見る血の気が失せ、わなわなと小刻みに震えている。
(まずい、もう体温が下がり始めてる)
そう思った時、その様子を見ていた葉月が
「体温が下がり過ぎるとショックを起こしやすくなるぞ」
と注意を促す。
「分かってますッ!!」
声を抑えてはいたが、反発するように答えた希恭は直ぐに佐理の体を毛布で包み、応急処置に取り掛かった。
「動脈の場合は……心臓に近い方を……」
先ず始めに佐理の上腕を撚った三角帯できつく縛った。
滲んでくる涙を必死で堪えながら、一つ一つ確認するように口に出して処置を施していく。
それを見た葉月は他のメンバーに
「引き上げるぞ」
軽く上げた手を振り下ろして言った。
メンバーたちは指示に従って引き上げて行くが、希恭は周りの様子に気をまわす余裕など無い。
最後に佐理を膝の上に抱き抱えて
「傷口を圧迫、心臓より高く」
口に出しながら、佐理の手首の傷を親指で強く押さえるようにして掴むとそのまま自分の肩に乗せた。
「佐理ッ!!」
希恭は再び呼び掛けた。
すると、佐理は弱々しく希恭を見上げて
「恭……ごめん……ごめん恭……」
と小さく呟いた。
「なんで……何でお前が謝るんだよ……?」
悔しさと切なさが入り混じった複雑な思いに、次々と涙が零れ落ちて希恭の頬を濡らした。
「恭……俺は……偽善者だ……」
「佐理……?」
希恭は意味が分からず佐理の顔をじっと見詰めた。
「恭……寒い……」
佐理はそう呟くと希恭に身を託し、静かに瞼を閉じた。
もう震えも感じられない。
「確りしろ佐理ッ!!死ぬな佐理ッ……死なないでくれ佐理……」
希恭は佐理の体を強く抱き締めた。
その頬にまた涙が伝う。
「どうして……こんな事……」
やがて……救急車の鳴らすサイレンの音が聞こえ始め、希恭は少しでも早く到着することをただ祈るしかなかった。
それから後の事は無我夢中でよく憶えていない。
ふと気付くと、希恭は病院のベッドの上で横たわっていた。
どうやら病院に着いて緊張の糸が切れたのか、疲れが出て寝入ってしまったようだ。
ぼんやりとした頭が状況を把握し始めると、希恭は急に〔ガバッ〕と起き上がって
「佐理ッ!!」
と叫んだ。
すると、ちょうど側に居た看護士が
「そんなに急に起き上がっちゃダメよ、400cc採血したんだから少し安静にしてないと」
と、にこやかに笑った。
「あの、佐理はッ?佐理はどうなったんですかッ!?」
希恭は居てもたってもいられず、急かすように尋ねた。
「ああ、貴方と一緒に救急車で運ばれて来た子?あの子ならもう大丈夫よ」
「助かったんですねッ!?」
「ええ、先生が褒めてたわよ応急処置が良かったって、でなきゃ助からなかっただろうって、貴方がしたんでしょ?」
「良かった……本当に……良かった……佐理……」
俯いた希恭の目に安堵の涙が溢れた。
看護士の言葉も耳には入らなかった。
称賛など必要無い、そんな事どうでも良かった。
佐理が生きているという事だけで今の希恭には充分だった。
看護士が泣いている希恭の背中を擦りながら
「よく頑張ったね」
と宥めるように言ってくれた。
希恭は一頻り泣いた後、掌で涙を拭ってから看護士に
「あの、佐理に会えますか?」
と尋ねた。
「もう個室の方に移ってますよ、まだ眠ってるかもしれないけど行ってみれば?」
「有り難う」
希恭は礼を言ってベッドを降り、教えられた病室へ向った。
窓の外は既に薄明るく、夜が明けようとしていた。
廊下の角を曲がると、一番奥のドアの前に人影が見えた。
その人物は希恭の姿を認めると声を掛けて来た。
「星河君……だったね?久し振りだね」
「阿純さん……来てくれたんですね、すみません連絡先……阿純さんのところしか思い付かなかったものだから……」
希恭は、この若い、佐理の叔父である藤原阿純の顔を見て、病院に来てから佐理の連絡先を聞かれて阿純のところを教えた事や、輸血用に採血した事などをぼんやりと思い出して言った。
「いや、よく憶えていてくれたね。礼を言うよ、有り難う」
「礼だなんて……」
希恭は口籠った。
佐理がこんな事になったのも元はと言えば自分のせいなのだ、阿純が本当の事を知ったら、きっと自分の顔など見たくもないに違いない。
そう思うと希恭は申し訳無くて阿純の顔をまともに見る事が出来なかった。
それでも佐理の様子が気掛かりで
「あの、佐理は……会えますか?」
と尋ねた。
「まだ眠っているから……」
阿純は語尾を濁した。
「そうですか……それなら側に付いてて良いですか?」
一瞬目を伏せた希恭は、阿純の顔を見直ってから尋ねた。
しかし、阿純の答えは希恭が望んだものとは違っていた。
「いや、佐理には私が付いているから……それに君も疲れてる様だから帰って休んだほうが良い」
阿純は諭すように言ったのだ。
「でも……」
「君には本当に感謝してる……でも、もう帰って休んだほうが良い、家まで送って行くよ」
「はい……」
希恭は小さく返事を返して俯いた。
(あの時と同じだ……)
希恭は佐理の母、麗華の葬儀での事を思い出していた。
あの時……希恭は打ち拉がれた佐理の側に付いていたかった。
しかし、ただ側に居たいという希恭の願いは聞き入れては貰えなかった。
“血縁”という壁が希恭を阻んだのだ。
そして……その壁を越えられない歯痒さを、今……再び味わっている。
希恭はそれ以上無理を通そうとはせず、阿純に従うことにした。
血だらけだった自分の服の代わりに着せられた患者用の衣服を明日返す旨を看護士に伝え、阿純の車で病院を後にした。
「起きてたのか?」
希恭を送って戻って来た阿純が病室に入ると、佐理がこちらへ顔を向けたので、阿純はベッド脇の椅子に座って佐理の顔を覗き込んだ。
「阿純、来てくれたんだ……」
「ああ、星河君が病院に私のところを教えてくれたんだよ」
佐理は、そう言った阿純の横に希恭の姿が見えない事に気付いて
「恭は?」
と尋ねた。
「今、私が送って来たところだ。彼も疲れている様だから休んだほうが良いと思ってね」
「そう……」
佐理は呟くように言ってベッドの上に起き上がった。
「大丈夫なのか?」
「うん」
心配する阿純に佐理はコクリと頷いて見せた。
「ところで義兄さんには?」
阿純が改めるように尋ねた。
「知らせなくていい。僕の事であの人を煩わせるのは嫌なんだ」
佐理の顔から表情が消えた。
希恭は別として、元々他人に対しあまり感情を顔に出さないほうだが、父親の話になるとまるで能面のようになる。
「分かった」
阿純は静かに、それでいて確りとした口調で答えた。
それから少し間をおいて
「佐理……話してくれないか?どうしてこんな事をしたのか……私にだけは……」
と問い掛けた。
が、佐理はその事について何も答えようとはしなかった。
「…………」
「佐理……お前にもしもの事が有ったら、私は……姉さんに申し訳が立たない、あの世で姉さんに会わす顔がない……」
阿純は穏やかに、それでいて切な気に佐理を見詰めて言った。
「大丈夫だよ、母さんは僕を殺そうとしたんだから……阿純がそんな事気にする事無い」
佐理は少しだけ微笑んで言った。
「佐理……」
「知らなかった?母さんは阿純にだけは何でも話してると思ってた」
佐理は阿純が少し驚いた顔をしたので茶化すように言ったが、阿純が悲し気に顔を曇らせるのを見ると
「ごめん……」
と謝って顔を背けた。
「佐理、話したくないなら無理には訊かない、でも……こんな事をする程辛い事が有るのなら……私と一緒にニューヨークへ行かないか?」
「え……?」
「今度、海外事業部が出来ることになって、その準備でニューヨークへ行く。だから……何もかも忘れて新しく出直そう、こんなんじゃ……心配でお前を独りにしておけない……」
阿純の端正な顔が慈しむように佐理を見詰めている。
「有り難う」
佐理は静かに、そして丁寧に礼を言った。
阿純の顔には安堵の色が浮かんだが、佐理はその後に
「でも……僕は行かない」
と続けたのだった。
「佐理、どうしてッ……!?」
「阿純の気持ちは嬉しいし、何時も気に掛けてくれてる事にも感謝してる。でも、僕はね……探したいんだ、此処で……恭の居るこの街で……僕の生きる路を……だから……」
「佐理……」
「ごめん……阿純」
佐理は阿純に微笑み掛けて言った。
(俺はここを離れる訳にはいかない。だって……俺達の物語は……始まったばかりなんだから……そうたろ……?恭……)
佐理は心の中でそう呟くと、再びベッドに横になった。
そしてゆっくりと瞼を閉じると、深い眠りの淵へと落ちていった。




